2006/8/6メッセージ 

あなたは誰と戦っているのか?         

マルコ3:20-35 (シリーズI)

人々を神様との交わりに招き入れることが、私たちの神様からいただいた使命です。これに対して、当然サタンは抵抗します。人に、神様とともに歩むことを勧めるということは、サタンに対して戦いを挑んでいることでもあるわけです。私たちは実際の武器を取って戦うわけではありませんから、「霊の戦い」という言葉を使います。この言葉は、キリスト教会の中で、必要以上に強調されて使われたり、逆に完全に無視されたり、それぞれの教会によって随分異なった扱いを受けてきました。今朝は、このテキストから、この戦いの意味と、私達一人一人がどうそれに関わってゆくべきかについてお話しします。

A. 戦いの本質を知る(サタンに対する戦い)

1) 無理解(20-21)

この戦いはサタンに対する戦いです。しかしこの敵以外にも私たちの力をそぐ要因があります。中には敵と戦う前に、それらのことで消耗して、戦う気持ちを失ってしまっている場合があります。その一つは親しい人々の無理解です。20-21節を読みましょう。

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。(20-21)

イエス様の癒やしや悪霊の追い出しは大きな評判となっていました。大勢の人々がイエス様のおられる所に殺到し食事をする暇も無かったようです。しかし、母マリアやイエス様の兄弟たちは、イエス様の働きを喜んではいませんでした。親しい間柄であればある程、理解されない事は淋しくつらいものです。彼らは、イエス様が神様の働きをしているのに、気が変になっているという評判にイエス様を取り押えにやって来たというのです。

このような親しい人々の無理解や反対は私たちをがっかりさせ、戦いの力をそぐものですが、彼らは決して信仰の敵ではありません。どんなにあなたに反対し、迫害したとしても、信仰を持たない家族や友人をどのように愛し続けることができるのかは後半で詳しくお話します。

2) 妨害(22)

イエス様の活動を快く思わなかったのは、旧約聖書の専門家・律法学者を始めとする当時の宗教学者でした。22節です

エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。(22)

彼らは、イエス様の肉親たちとは違いイエス様を気が変になった人と誤解していたわけではありませんでした。むしろ本当に神様の力を帯びていて、自分たちの立場を危うくする存在だと、直感的に知っていたのです。旧約聖書に精通していた彼らにとってイエス様の働きは、神様の力によるものであることは否定できませんでした。ですから、個人的にイエス様に心を寄せた指導者たちもいたのです。しかし、彼らの組織としてはそれを認めることはできませんでした。それは自分たちのあり方を否定することになるからです。自分のあり方に固執して、神様に委ねないことは、神様を否定することにつながります。そして招いた結果がイエス様の次の言葉です。少し先の28-30節です

はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。(28-30)

自分を守ろうという意識は、時として真理を曲げたり、正義をおろそかにしてしまうものです。自分を守るためには嘘をつくこともいとわないのが人間です。神様はそのような人間の弱さ、醜さを赦してくださる方です。しかし明らかに神様の霊の働きが目の前で起こっているのを知った上で、それを否定するばかりではなく、「聖霊の働き」を「汚れた霊の働き」と言い張るなら、その人には永遠の命の保障はないのです。

3) 敵(23-27, エペソ6:12)

さて、飛ばしてしまった23-27節に戻りましょう。「聖霊の働き」を「汚れた霊の働き」と言ってしまった人々に対して、わざわざ彼らを呼び寄せて語られた言葉です。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。(23-27)

呼び寄せ、たとえを用いて語られたということは、彼らに是非理解してもらいたかったからです。イエス様は彼を憎む律法学者たちにさえ、憐れみをもって接しました。どんなに真剣に聖書の勉強をしても、神様に与えられた使命を取り違えていたら、何にもなりません。彼らはイエス様を敵だと考えていましたが、イエス様はそうではありませんでした。彼らを愛し、彼らが滅びることを望まれませんでした。イエス様は本当の敵を知っておられたのです。

前半は単純な理屈です。しかしサタンのやり方がとても巧妙だということは知っておいてもいいと思います。2コリント11章には、「サタンでさえ光の天使を装うのです。」と書かれています。その人の心を捉え続けるために、癒しや不思議な現象を見せたり、悪霊を追い出すふりをしたりすることもできるのです。癒しがあるから、不思議な力があるから本物だという判断は間違いです。神様のみ心・意思を行っているのかというところが問われるのです。

聖霊の実は瞬間的なものではありません。いつまでも続くものです。だから、なされたことの瞬間で神様の業かどうかを判断することはできません。イエス様が世に勝たれたのは、不思議と奇跡によるものではなく、十字架の死とよみがえりにあることを忘れてはいけません。イエス様は憐れみによって人々を病や悪霊による苦しみから解放なさいました。しかし、それはイエス様の戦いの本質ではありませんでした。

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。(エペソ6:12)

真の敵は、人々を操ったり、病や死の力を見せ付けたり、悪霊を使ったりして、神様と人との和解を妨害するサタンなのです。私たちはこの敵に対して今何をするべきなのでしょうか?

実は、この戦いは既にイエス様の十字架と復活により勝利はすでに確定しているのです。しかし、勝利は確定しても、小さな衝突は、すぐに完全になくなるわけではありません。もう砲弾が飛んでくるわけではありません。しかし、油断をしていると散発的な戦闘でダメージを受けるということはまだあるという事です。私たちが勝利に酔って、残されている使命を行わずにいるならその危険は大きいのです。私たちは勝利を受けての戦後の処理のために様々な局面で働くのです。神様は私たちにそれぞれの働きに相応しい賜物をお与えになりました。与えられている持ち場を離れずに、与えられている賜物を用いて忠実に仕えている限りわたしたちは安全です。一見私たちのしていることは戦いのイメージとは程遠いものですが、それが、イエス様の戦いをともに戦っているということなのです。

B. 神の国の家族と地上の家族(31-35)

イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(31-35)

1) 理解されない孤独な戦い

母マリアはイエス様誕生の次第について誰よりも深く理解していたはずの人でした。イエス・キリストに従おうとする者は、最も親しい人々、愛している人々の無理解の中を歩まなければならないこともあるのです。皆さんの中にも、イエス様を信じる信仰について親しい人々の無理解や反対にあっている人がいるかもしれません。それはイエス様が体験されたことでもあったのです。

ここでイエス様は、神様の意思を行う人は「家族」だといっています。それは決して肉親を否定するものではありません。しかし、わたしたちには、肉親の無理解に疲れ、愛し続ける自信を失いそうな時に支えてくれる神様の家族がいるのです。神様がこの家族を通して、無理解な人々を愛し続ける力を与えてくださるのです。

2) 大切な家族とどう付き合うのか?

多くのカルト集団で共通に見られる特長は、信者に、肉親を敵、サタンの側の存在と思い込ませることです。彼らの反社会的な行動を家族が諌めようとしても、敵の攻撃だと信じ聞く耳を持ちません。イエス様は、その地上での生涯を通して家族から理解されませんでしたが、彼らを愛し続けました。どんなにマリアが無理解であっても、一人の青年として、彼女より先に死を迎えなければならなくなった時に、信頼していた弟子のヨハネに、イエス様の死後マリアを実の母のように受け入れてほしいと願われました。私たちができることは愛し続ける事です。私たちには尽きることのない愛の源泉があるのです。

メッセージのポイント

人々を神様との交わりに招き入れることが、私たちの神様からいただいた使命です。これに対して、当然サタンは抵抗します。人に、神様とともに歩むことを勧めるということは、サタンに対して戦いを挑んでいることでもあるわけです。この戦いには二重の困難があります。それは、人々がサタンの影響下にあることにほとんど気がついていないだけでなく、私たちが戦い方をよく理解していないことです。人々に対しては、忍耐強く誠意を持って愛し続ける、祈り続けることが最良の方法です。戦いについては、聖書の教える普遍的な原則を知ることと、それを今おかれている状況に正しく適用することが求められます。

ミニチャーチのために

1) 神様があなたに与えておられる使命とは?

2) 「霊の戦い」を考える時に大切なことは何ですか?