2006/8/13 メッセージノート Tコリント6:12-20

「聖霊の住まい」にふさわしく歩もう!

A. 目に見える状況 (12)

1) コリントの人々

コリントの教会では、律法にとらわれない自由な生き方が誤解され、性についての不品行が問題となっていました。パウロが指摘している不品行は、当時のギリシャにおいては教会の外側では当たり前のこととして行われていたものでした。教会の中でも、精神と肉体を分けて考える不品行に甘い異端的な教えがこれをゆるしていました。12節から読みましょう。

「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。(12)

「すべてのことが許されている」 これが、不品行を問題とは思わない人々の合言葉でした。それに対してパウロは言います。「確かにそうでしょう。私にも神様はすべてのことを許しておられます。神様は完全な自由を与えてくださいました。けれども、やって益になることと、害になることがあります。それを見分けなければなりません。あなたがたは不品行を行って、自由に振舞っていると勘違いをしているけれど、実は性欲に支配されているのではありませんか?私は神様に従うことによって、性欲に支配されることはないのです。」

2) 私たち

現代の教会は、このコリント的状況に陥ってはいないでしょうか?少なくとも教会の外側では、「なんでもあり」という状態です。社会の性のモラルと神の国の性のモラルは随分隔たっています。皆さんは自分のスタンスに自信がなくなることはありませんか?社会のモラルは「最低限、他人に害を与えなければ良い」というところから出発します。しかし神の国のモラルはもっと厳しいのです。それは規則が多くて細かいということではありません。本質的に違うのです。このことについて聖書がどう教えているか見てゆきましょう。

B. 聖書の教え (13-18)

1) 体は主のため、主は体のため (13-15)

食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。 神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。(13-15)

コリントの教会には、律法の食物の規定に人の良心が縛られないのだから、性についても同様に考えてもいいだろうという人々がいたわけです。パウロは食物の規定についてその通りだと同意していますが、それが決して本質的なものではないことを、「どちらも滅びてしまうもの」という表現で教えています。そして別の箇所 (8:8) では、本質的ではないことで兄弟を躓かせてはいけないと警告しています。そして、性についてはもっと注意深く考えなければいけないと、教えます。その第一の理由は、主を信じた私たちの体はもはや自分自身のものではなく、神様の体の一部になっているからです。神様はイエス様を死からよみがえらせ、同時に罪に死んでいた私たちを新しい命に生きるものとして復活させてくださいました。その体を、神様の喜ばれない性の関係には委ねてはいけないのです。

2) 結婚を重んじる (16-17)

それでは神様の喜ばれない関係とはどのようなものなのでしょうか? 16-17節を読んでみましょう。

娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。(16-17)

ここで直接問題とされているのは「性を買う」という行為です。現代でも、法律上は禁じられてはいますが、当たり前のように行われています。聖書が禁じている関係はそれだけではありません。聖書が関係を認めているのは、結婚によって「一体」となった者たちだけなのです。結婚を「二人は一体となる」と表現したのは創世記が最初ですが、エフェソの信徒への手紙の5章21節以下にそれを引用して、結婚があらゆる人間関係の中でもっとも神聖で大切にしなければならないこと事が記されています

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。(略23-24) 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。(略26-27) そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。 わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」 この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。 いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。

コリントでもエフェソでも、夫婦の関係のモデルがイエス様と教会(私たち)との関係であること教えていることに注目してください。夫婦の関係はキリストと教会の関係のように神聖なものだということです。不品行は伴侶との関係を破壊するだけでなく、神様との関係をも壊してしまいます。

3) 自分の体に対する罪 (18)

みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。(18)

みだらな行いという罪がユニークなところは、他の罪が、盗みや偽証などのように他人に直接、被害を与えるものではないという点です。もし、気付かれなければ人は傷付きません。しかしこの罪は、自分自身にダメージを与えるのです。15節で言われているようにクリスチャンの体はイエス様の体の一部です。そこに不品行を直接持ち込むということは、主につながれた自分を、もう一度引き離すことであり、霊的な自殺ともいうべきものです。

C.結論:正しい「自由」の使い方 (19-20)

この罪に陥らないために、私たちは与えられた自由を正しく用いなければなりません。わたしたちが、十字架の上で示された神様の愛によって歩んでいるということが私たちの原点です。

1) 愛に生きる (19)

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。(19)

第一のことは、愛に生きるという事です。神様の無償の愛に救われて、無償の愛で生きると決心した私たちです。なぜ神様を、愛する人々を悲しませ傷付けることを喜べるでしょうか?誘惑に弱い、醜い私たちであっても聖霊は住んでいてくださるのです。そして私たちが望み、努力し続けるなら、私たちが愛に生きることを内側から助けてくださいます。

「私を誘惑からお守りください・愛するものとして歩ませてください」と祈りつつ歩むのです。

2) 神様の栄光をあらわす (20)

人間の生きる目的は何か?という問いの答えは答える人の数だけあるでしょう。しかしそれを一言で表現できる答えがあります。「神様の栄光をあらわすため」それが聖書が教えてくれる正解です。20節を読みましょう。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(20)

私たちはイエス様の十字架の死という尊い代価によって、罪から解放され自由になったのです。イエス様は代価を払ってくださっただけでなく、愛に生きるという、私たちの歩み方についても、ご自身の歩みと言葉によって教えてくださいました。この恵みに報いる道は一つしかありません。それは神様の栄光をあらわすこと。いただいた愛によって、生きている限り、神様の恵みを知らせ伝えることです。

メッセージのポイント

性についての社会での一般的な考え方と、聖書の教えには隔たりがあります。誰もが結婚を大切なことと考えていますが、それでも聖書の結婚観とは決定的に違います。聖書は「夫婦とは神様が引き合わせてくださった神聖なもので、一体となることを許された唯一の関係」であると教えています。特に、主に従って生きる決心をしたクリスチャンにとっては、結婚によらない性の関係は、神様のものとなった神聖な体を汚す重い罪なのです。神様を知る前の私たちは、自分の欲望にしたがって生きることしか知らない者でした。しかしそんな生き方が破滅に向かう道であることに気付き、方向転換をして、新しい道を歩み始めたのです。それは「欲望に生きる道ではなく、愛に生きる道」「悪魔を喜ばせる道ではなく、神様の栄光をあらわす道」です。

ミニチャーチのためのヒント

1) なぜ「一体となること」は結婚においてのみ許されることなのでしょうか?

2) 神様の栄光をあらわすとは、どのような生き方をさすのでしょうか?