2006/8/27メッセージ
イエス様の四つの称号 イザヤ書8:23b-9:6
ワールドカップの後、引退したサッカーの中田英寿さんは「ジーコジャパンの司令塔」と称されました。「司令塔」は正式なポジションの名前ではありません。でも、そう聞けばサッカーに詳しくない人でも、とても重要な役割を果たしていたのだということが分かります。元日本代表で浦和レッズのFWの岡野雅行さんは「野人」とよばれていました。風貌もプレイスタイルも、今あなたが想像している通りの人です。称号は人々に、その人の性質を知らせるのに役に立ちます。今日の聖書の個所には、イエス様が称せられる四つの称号が預言として記されています。イエス様に出合った人々の中にはこの預言の通りだったと思い、イエス様を主と信じた人もいたのだと思います。皆さんも出来るだけ多くの人に大好きなイエス様を紹介したいと思っているのではないでしょうか?そのためには私たち自身がこの称号の意味をよく知ることが役に立ちます。
A. 人生の闇から光へ
1) 闇に光をもたらす方が来られる (8:23b-9:5a)
先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。 闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。 あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。 彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくださった。 地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされた。 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。(8:23b-9:5a)
イザヤの預言通り、イスラエルは、アッシリアに占領され民は苦しみの中に生きることになります。闇の中にいるようにお先真っ暗な状態です。目に見えるところでは全く希望が持てないような日々。しかし希望はあるとイザヤは告げています。その時にはとても考えられないような深い喜びと大きな楽しみをお与えになるというのです。
このことは私たちにとって何を意味するのでしょうか?私たちはこの大きな喜びを与えてくださる方が、既に来てくださったことを知っています。イエス・キリストです。ですから現代に生きる人々はこのことを過去のこととして知っているわけです。しかしそれは過ぎ去ってしまってもう私たちとは関係のない過去ではありません。夜が空け朝となって、空が明るくなりその明るさはまだ幸いなことに続いている、そのような状態です。明るくはなりましたがその光がすべての人に届いているわけではありません。まだ目を閉じて寝ている人、雨戸を閉め切って家の中に閉じこもっている人には、まだ光は届いていないのです。本当は、心の目を開き、光を受け入れれば、闇はすぐに去ってゆくのに、この霊的な現実に気付いていない人には心の闇が依然として続いているのです。そのような人々は私たちの周りにもたくさんいます。残念なことだと思いませんか?だから私たちはイエス様のことを伝え続けるのです。この光のあるうちに、できるだけ多くの人々に。
2) 神様による永遠の平和 (6)
ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(6)
イエス様が来られて2000年、今も憐れみにより人々の目覚めを待っておられるイエス様の権威は変わりません。終わりの日はいつか必ずやって来ます。それは聖書がはっきりと教えていることです。実際、この地球を人の住めない星にしてしまう様々な可能性を社会は抱えています。20年前までは核全面戦争が地球を破壊しつくすことに人々は恐怖を感じていました。今ではエイズの問題や、地球の温暖化のことも深刻です。けれどもイエス様を王とする者にとっては、恐れる必要のないことです。イエス様は永遠に統治される方だからです。彼と共に生きる人には、世の終わりは滅びではなく、本当のふるさと:神の国での新しい始まりだからです。先月7章から、イエス様がインマヌエルと呼ばれる方として預言されていたことを学びましたが、そのとおり彼は「共にいてくださる」神様です。どんな方が共にいてくださるのか誰かに聞かれたらあなたはどう答えますか?その答えは5節後半のイエス様の性質を表す四つの称号に隠されています。
B. イエス様の性質を表す四つの称号 (5b)
その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。(5b)
それでは、イエス様が、どのようなお方として共にいてくださるのかを、一つ一つの称号から見てゆきましょう。
1) 驚くべき指導者
第一にイエス様は、あなたの歩みを導いてくださる方だということです。誰とも比べることの出来ないほど素晴らしい指導者があなたを導いていてくださるのです。ところで指導するとはどういうことを指しているのでしょうか?英語では既に日本語にもなっているカウンセラーと言う言葉を用いています。元々は、王様の相談相手のような役割を果たす高官の名称として使われていたらしい言葉です。イエス様があなたのカウンセラーだということは、あなたがイエス様のカウンセリングが必要な弱い者であると同時に、自分の人生を王として、主人公として歩む者だということを示しています。カウンセリングを受けるとは、ただ助言してもらうことではありません。信頼できるカウンセラーと共に時を過ごすことによって、その人が自分自身で答えを見出すことです。神様は最善を知っておられますが、それをあなたに押し付けようとはなさいません。それではどんなに良いことであっても自分のものにはならないからです。時々、神様に人生を委ねるということは自分というものがなくなってしまうことにならないかと誤解する人がいます。イエス様は、あなたの人生、この地上の歩みにおいてあなたが主人公であることを望んでおられます。あなたとイエス様の関係、それは糸で結ばれた、人と操り人形の関係ではありません。大きなピンチにあなたを送り出す、信頼で結ばれた監督とクローザーのような関係なのです。それは実際のカウンセリングがそうであるように、決して一方的な関係ではありません。聞くこと、話すこと、ただ黙って共にいることの全てがカウンセリングのプロセスです。礼拝と日常生活は切り離して考えられません。イエス様とどれだけ親しい時を過ごすかが、あなたの人生をどれほど実り豊かなものになるかのポイントなのです。
2) 力ある神
第二にイエス様は「力ある神」と称されています。聖書の教える神はたった一人しかおられません。神々と呼ばれる者たちの一人ではないのです。原語では「たった一人の神ご自身」という意味が強調された特別な言葉(エロヒームではなくエール)が用いられています。「一人の男の子が生まれます。その子は神ご自身です」 というのは、どう考えても人間の理屈には納まりません。自分で神様を理解しようと思う人はだれも神様に出会うことはできません。これは、人間を作ってくださった、私たちは遠く及ばない神様のお考えなのです。神様を理解することは出来ません。信じることしか出来ないのです。けれども、実は人間関係を築く時も同じです。私たちは相手を理解していると思っていても、実はそうではなく信頼しているのです。相手を完全に理解できないのは人間関係も同じです。だから、わたしたちは時々相手を誤解していたことに気付いて信頼を失ったりするのです。
イエス様を信頼するなら、その信頼は裏切られることはありません。なぜなら彼は力ある神様だからです。私たちは誰かの信頼に応えたいと思っても、心ならずもその信頼を裏切ってしまうことがあります。それは私たちが無力であり、不完全だからです。もう人間関係の中に最終的な信頼をおくことをやめて、イエス様を力ある王と信頼して生き始めませんか?それは、人間関係から逃避するということではありません。絶対に信頼できる方が私と共にいてくださるから、人間関係においてどんなに傷つけられ、裏切られても、愛し続けることができるということです。
人間は不思議な生き物です。誰かを十分に理解できなくても信頼したくなって、騙されたり、傷ついてしまうくせに、決して騙したり裏切ったりしない神様に対しては、頑固に理解できないから信じないと言い続けるのです。
もしあなたがそのようにしながら闇の中を歩んできたのだとしたらどうぞ今、信頼に値するたった一人の方、イエスキリストをあなたの主と信じ、受け入れてください。
3) 永遠の父
さて、イエス様の三番目の称号は永遠の父です。ここでいう父とは、人の父親という意味ではなく、民を守る誠実な正しい王を意味しています。そしてその方の支配は永遠だと言うのです。歴史上のあらゆる国は、どんなに栄えてもやがて滅び、それに替わる国が現れます。イエス様はその歴史の枠に収まらない方です。だから私たちに永遠の命をお与えになることが出来るのです。今は王の下に生きている人はそれほど多くはありませんが、人間の王ではなく、いろいろなものを自分の王として仕えているとも言えるでしょう。それはその人が最も大切だと思っている物事のことです。そのことのためには、他の物事を犠牲にしてもかまわないと思っていることです。ファッションを王にしている女性がいます。欲しいと思った服を手に入れるためには、食欲も、時間も惜しみなく犠牲に出来ます。高級な自動車を王として仕えている男性がいます。それを買ったり、維持したりするために、他のことは喜んで犠牲にするのです。自分は雨漏りするアパートに住んでも、車には屋根つきの駐車場を確保するのです。中にはもっとその傾向がひどくなって、それらの奴隷になってしまう人もいます。いわゆる「依存症」です。お金、仕事、買い物、お酒、ギャンブル、趣味、人々はいろいろな王に仕えています。これらの地上の王たちは、一時的にあなたに満足を与えてくれるでしょう。しかし、やがて彼らは滅びます。王として仕え続ける価値のある方は一人しかいません。イエス様です。彼に仕える限り、失望することも、リストラされてしまうこともない、永遠の王に仕えてゆきましょう。
4) 平和の君
最後に取り上げるイエス様の称号は「平和の君」です。平和、平安を意味するヒブル語は、皆さんにも聞き覚えのある「シャローム」という言葉です。「あなた方に平安がありますように」とイエス様がおっしゃっているところは、実際にはイエス様は「シャローム」と呼びかけておられます。シャロームとは不安なこと、欠けたところが全くない状態のことです。平安という日本語は心の状態を思い浮かべがちです。その意味では、平和と言った方が「シャローム」に相応しいかもしれません。シャロームは他との関係なしに成り立つものではないのです。人と人、国と国、民族と民族の間で成り立つものなのです。心が平安になれば人間関係もうまく行くのではと考えがちですが、この人間関係によって平安はかき乱されてしまうことが少なくありません。
人と人の間にシャロームをもたらす方としてイエス様は来て下さいました。ところで聖書が教える最も大切な関係とは何でしょうか?それはあなたと神様との関係です。心の平安とは、神様とあなたの間の平和に他ならないのだということをイエス様が教えてくださいました。そして、罪のために失われていたあなたと神様との間の平和を、十字架でその代価を払い回復してくださったのです。心の平和は必要ありませんか?誰かとの間を平和なものにしたくありませんか?そうであれば、自己啓発セミナーみたいなものに無駄なお金を払ってはいけません。するべきことはたった一つしかないのです。それはイエス様を主と信じ、神様との間にまず平和を確立することです。
メッセージのポイント
イザヤ書は救い主がこられるということばかりでなく、どのような方であるかという事まで預言していました。ここでは7章のインマヌエル(共におられる方)に続いて四つの称号を紹介しています。ここから私たちは、「私たちが主と歩むことを決意した時、私たちを取り巻く闇は、イエス様の光によって追い払われる」ということを知ります。それは具体的に言い換えるなら、共にいてくださるイエス様がいつも、よい導き、生きる力、決して変わることのない神様との親しい関係、そして平和をあなたに満たしてくださるということです。
ミニチャーチのために
1) 闇と光はそれぞれどのような状態を意味しているのでしょうか?
2) あなたが最近、イエス様の四つの称号のどれかを強く印象付けられたことを話しましょう。