2006/9/17 メッセージ

 「独身の賜物」 1コリント7:1-16

今日は与えられているテキスト自体が何を語っているかということをお話しする前に、聖書を神様の言葉として正しく受け取るために、知っておくべきことをお話ししておきたいと思います。この個所は私たちが「神様の言」と信じる聖書を正しく受け取るためのとても良い教材だからです。最初から11節までを読んでみましょう。

そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。(1) しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。(2) 夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。(3) 妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。(4) 互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。(5) もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。(6) わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。(7) 未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。(8) しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。(9) 更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。(10) ――既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。――また、夫は妻を離縁してはいけない。(11)

A. この部分が教えてくれる、聖書の正しい読み方

(聖書はどのような意味で「神の言葉」なのか?)

 皆さんは人によって、同じ聖書の同じ個所を読んでいても、受け取り方がかなり違うことに気がついていると思います。聖書はこう教えています。酒、タバコは罪です。クリスチャンになったらやめるべきです。」と教える教会もあれば、訪ねるとパイプタバコをくゆらしながら、訪問者にはワインを勧めて信仰の話をしてくれる牧師もいます。何でこうも違った受け取り方が出来るのでしょうか?それは聖書自体がはっきりと断定していない事柄だからです。「盗んではいけない」という戒めに反対する人はいません。聖書がはっきりとそう教えているからです。聖書が断定していない所は読む私たちが考えて受け取らなければなりません。

 私たちが聖書を読むときには、二つの正反対の方向性をもつ努力をしなければなりません。出来るだけ自分の解釈を避け、文字通りに受け取ろうという努力。もう一つは、今に生きている自分にとって相応しく再解釈するという努力です。

 これがどちらかに偏ると、どちらにしても神様の意思から遠く離れてしまいます。「文字通りに受け取る」というのは一見正しそうに思えますが、それは不可能なことです。聖書全体を見渡せば、表面的には矛盾するような事柄が出てきます。解釈が必要なのです。また聖書を読んで、文字通り受け取ったと思っても、受け取った内容は一人一人違っています。つまり自分のものとして受け取ったと言うこと自体、既に自分なりに解釈しているということになります。

 もし書かれた背景も、読み手の状態も無視して文字通り受け取ろうとだけするなら、それは新しい律法主義になってしまいます。現代では、堕胎手術をするようなクリニックは爆破してしまう、というような行動を引き起こす、極端なキリスト教原理主義がその一例です。逆に、聖書の言葉から謙虚に神様のメッセージを受け取ろうとはせず、ただ自分に合わせて再解釈をすることだけを考えてゆくなら、人間的で自分勝手な、福音とはいえないものになってしまいます。19世紀から20世紀にかけて教会に大きなダメージを与えたキリスト教自由主義は、十字架の贖いも、復活も、イエス様が神様であることもあいまいにしてしまいました。

 出来るだけ元の言葉から離れずにいようということも、最適な解釈を見出そうということもどちらも大切なことなのです。ですから正反対の方向性をもつこの二つの間のバランスの上に立つことによって聖書の言葉を正しく受け取ることが出来るのです。

 私たちの多くが持っている傾向は、「文字通り読めばいいのではないですか」という素朴なとらえ方だと思います。そこで、もっと正確に神様の意思を受け取ることが出来るようになるために二つのことをお話ししましょう

1) 時代的背景、文化的背景を考慮しよう

 初代教会では終りの日が近い、自分たちが生きている間にその日は来ると考えられていました。これから結婚をし、5年後に子供をもうけ、10年働いて貯めたお金で30年のローンを組んで家を買って、なんて誰も考えてはいなかったのです。さらに冒頭で、この部分が、コリントの人々の質問に対する答えであることがわかります。パウロに質問したのは教会の中にいろいろな考えに基づく異った教えがなされて混乱していました。もう終末が近いのだから独身者は結婚しない方がよいという時代の空気の中で、ある人はすでに結婚していても別れた方がいい。特に相手がクリスチャンでないのならなおさらだと考えたのです。またある者は、魂が聖められていれば肉体はその欲望のおもむくままにどんな関係もゆるされると考えました。パウロはそのような状況の下で書いているのであって、直接今に生きる私たちに向けて書いているのではありません。そこで私たちはここから聞く者すべてに勧められている普遍的教えと、さらにそれが今ここに生かされている私たちにとってどのような意味があるのか知らなければなりません。

2) 文脈を無視してはいけない

 神様の言を聖書から聞くために大切なもう一つのことは、そこに書かれている事柄を文脈から切り離して考えてはいけない。ということです。ここには、パウロがはっきりと主の命令だとして語っている所もあれば、主が命じているわけではないが、パウロ自身の考えとして述べている所もあります。注目したー節を正しく理解するためには、その段落全体を知らなければなりません。その段落を理解するためには、その章全体を知らなければなりません。その章を理解するためには、その書全体を知らなければなりません。そして、その書を理解するためには、聖書全体を知らなければならないのです。

B. この部分から学ぶべき普遍的結婚観

1) 夫婦は対等なパートナー(2-4)

 それでは、ここからは、このテキストから私たちが自分たちのこととして知っておくべきことを三つお話しします。一つ目は「夫婦は対等なパートナー」であるということです。2-4節を読みます。

しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。 夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。 妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。

 この手紙が書かれた時代、女性の地位は今よりももっと低いものでした。ある人々は聖書は男性原理で書かれているからだめだ、だいたい神が父というのもおかしい、と批判しますが、それこそ今朝、前半で学んだ、背景や文脈を無視した誤解の典型です。神は御自身ににせて人を、男と女に造られた、と創世記にあります。神様を父と表現するのは、神様が男性だったからではありません。それ以上に神様を表現する言葉がなかったからです。

 男性中心の世界は新約の時代も変りませんでしたから、パウロのこの表現はかなりラディカルで歴史を超える普遍性を持っています。これは男女同権以上のことを言っています。互いに仕える僕となりなさい、これが男性原理でも女性原理でも平等原理でもない「聖書原理」です。仕えあう者として対等のパートナーなのです

2) 独身の賜物の特殊性(6-7)

 ここでパウロは人々に自分のように独身でいることを勧めますが、それが誰にでもあてはまるわけではないことを教えています。6-7節を読みましょう。

もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。 わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。

 ここで、神様の前で独身でいて家庭を持つ者よりもより多くを神様に捧げる、というパウロの生き方が紹介されています。現代の人では、亡くなられたマザーテレサやカトリックの神父やシスターがそうです。しかし、それは、そうなりたいからといってなれるものではありません。

 なかなか結婚のチャンスに恵まれずあせっている独身のクリスチャンが私に尋ねたことがあります。「もしかしたら神様は私に独身の賜物を与えておられるのでしょうか?それは嫌だなあ、そうだったらどうしましょう」ご心配なく、このような心配を持っていること自体、独身の賜物がない証拠です。この賜物を持つ人は、恋人に尽くすよりも神様に尽くしたい、異性に好かれるよりも神様に好かれたいという強い願いを持つ人です。ですからほとんどの人にとっては無縁の賜物です。きっと神様が最善のタイミングで生涯の伴侶とであわせてくださいますから、祈りつつ期待して待ち望みましょう。

3) 信じていない夫(妻)も妻(夫)のゆえに聖なる者とされている (12-16)

その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。(12) また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。(13) なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。(14) しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。(15) 妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。(16)

 コリントでは、もうすぐ終わりの日が近づいているのだから、日常生活に煩わされることなく、ひたすら祈り待つことをよしとする雰囲気があったようです。さらに、初代の教会には「神様の祝福を受けられる聖い者も、滅びに至る汚れている者に接触すれば汚れる」という律法主義的な考え方の影響が残っていました。ここに、未信者の相手とは別れてしまったほうがいいのではないかという疑問が起ったわけです。逆にクリスチャンになった配偶者に絶望を感じて去っていった人もいました。当時、キリスト教はギリシャの伝統的な神々を否定する過激な新興宗教でクリスチャンになるということは、理解できない者にとっては大きな衝撃だったからです。

 しかし伝統的なユダヤ教に通じていたパウロは、本当のところは伝染するのは「世の汚れ」ではなく「神様の聖さ」の方だということを理解していました。日本では、結婚後にどちらかが先にクリスチャンになる例が少なくありません。なかなか相手が理解してくれないと悩んでいる人も多いのです。ペトロの第一の手紙3:1-2を開いてみましょう。

妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。(ペトロの第一の手紙3:1-2)

 このことを期待しながら、配偶者の救いを祈りつつ待ち望みましょう。

 独身の皆さんには、パウロに倣ってこのように勧めたいと思います。――これは主が命じているのではありませんが、私としては、皆さんが信者ではない人と結ばれることを望ましいとは思えません。むしろ結婚する前に、あなたの人生で一番大切な方を伝えるべきです。あなたが信者でない人と結婚すれば、二人の主に仕えることになるからで、それは不可能だからです。本当に神様が与えてくださった人なら、あなたの一番大切なイエス様を、受け入れてくれるはずです。結婚を急がず、その日を忍耐して待ちましょう。未信者との交際は悪いことではありません。それは、あなたが好意を持っているその人が、イエス様を知る最大のチャンスだからです。しかし、相手の心が定まらないまま結婚すれば、それは相手に、あなたがその人を神様と同等かそれ以上に大切にしている、と思わせてしまうことになります。そしてあなたが信仰を貫くことに多くの困難をもたらすことになります。 

メッセージのポイント

私たちが聖書の特定の言葉を受け取ろうとする時、それがいつでもどこでもそのまま受け取らなければいけない普遍的な戒めなのか、それとも書かれた背景を考慮して、書かれている文字通りではなく、より神様の意思にかなった解釈をするのか、よく注意して受け取る必要があります。そうでなければ私たちはそこから解放されたはずの律法主義に陥ってしまうでしょう。もちろんそれは聖書を自由気儘に解釈してよいということではありません。当時のコリントの教会では、聖書の自分勝手な解釈によって、快楽主義や禁欲主義、バランスを欠いた極端な聖霊強調主義が混在していて、教会の一致を妨げていました。私たちの一致は、十字架にかかられ真の愛を示されたキリスト・イエスに従うこと、イエス様から頂いた愛で愛し合うほかにはありません。

話し合いのヒント

1) なぜパウロはコリントの教会にこのような内容を伝えなければならなかったのでしょうか?

2) 聖書はどのような意味で「神の言」といえるのでしょうか?