2006/9/24 メッセージ イザヤ書9:7-10:4
神様、何を怒っておられるのですか?
今日取り上げるテキストは四つの部分に分かれています。どの部分も「しかしなお、主の怒りはやまず 御手は伸ばされたままだ。」という言葉で締めくくられています。ひどい災いが起って、神様に信頼をおかないことが問題の原因なのだと気付いていても、一向に神様に立ち返ろうとしない社会に更なる災いが襲い続けるというイザヤによる当時のイスラエルに対する預言です。まず、7―12節を読んでみましょう
A. 当時と今の共通点/相違点
1) 今もある同じ状態
主は御言葉をヤコブに対して送り/それはイスラエルにふりかかった。(7) 民はだれもかれも/エフライム、サマリアの住民も/それを認めたが、なお誇り、驕る心に言った。(8) 「れんがが崩れるなら、切り石で家を築き/桑の木が倒されるなら、杉を代わりにしよう。」(9) 主は民に対して、苦しめる者レツィンを興し/敵を奮い立たせられた。(10) アラムは東から、ペリシテは西から/大口を開けて、イスラエルを食らった。しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。(11)
ヤコブはイスラエル全12部族の祖ですから、神様は預言者を用いて民全体に向かって呼びかけられているということです。エフライムは最初に滅ぼされてしまう北10部族の代表的存在で、その首都がサマリアです。彼らは、起ってきた災いが、神様をないがしろにし、自分たちを誇り、高ぶりによるものである、と気が付いてもなお誇り、驕り続けたようです。以前のメッセージでお話ししたように、北王国は神様に信頼することをせず、むしろアラム(シリア)の王レツィンとの軍事同盟で難局を乗り越えようとし、イスラエルは周りの強国によって踏み荒らされてしまいました。
日本ではバブル経済がはじけた後、海外のクリスチャンたちは、この経済的破綻が、人々が主に立ち返るいいチャンスになるのではないかと期待しましたが、結局、そうなることもなく経済は少し上向きになって、誇り、驕る心はさらに強くなっているようです。バブル時代を懐かしむ声さえ聞こえます。次に12節から16節を読んでみましょう
民は自分たちを打った方に立ち帰らず/万軍の主を求めようとしなかった。(12) それゆえ主は、イスラエルから頭も尾も/しゅろの枝も葦の茎も一日のうちに断たれた。(13) 長老や尊敬される者、これが頭/偽りを教える者、預言者、これが尾だ。(14) この民を導くべき者は、迷わす者となり/導かれる者は、惑わされる者となった。(15) それゆえ、主は若者たちを喜ばれず/みなしごややもめすらも憐れまれない。民はすべて、神を無視する者で、悪を行い/どの口も不信心なことを語るからだ。しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。(16)
社会的、政治的リーダー、学者、宗教家といった尊敬し信頼できなければならない人々が自己中心で、保身的なので、本当に助けが必要な人々に、助けが届かないのもこの社会そのものです。
このような社会の悪は親族、家庭の中にも入って来て、親子の関係も、兄弟の関係も悪くしてしまいます。危機的だから、自分を守るために自己中心的になる、自己中心的になるから社会はますますすさんでしまう。この悪循環も同じです。その様子を17-20節から見てゆきましょう。
まことに悪は火のように燃え/茨とおどろをなめ尽くす。森の茂みに燃えつき、煙の柱が巻き上がる。(17) 万軍の主の燃える怒りによって、地は焼かれ/民は火の燃えくさのようになり/だれもその兄弟を容赦しない。(18) 右から切り取っても、飢えている。左に食らいついても、飽くことができない。だれも皆、自分の同胞の肉を食らう。(19) マナセはエフライムを、エフライムはマナセを/そして彼らは共にユダを襲う。しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。(20)
親子であろうと、兄弟であろうと自分の欲望のためなら容赦しない。まして他人のことなどは人とも思わない。そのような社会はやがて崩壊し、親しい間柄の人とさえ傷つけあい、奪い合うことになってゆきます。四番目の部分には二番目と同様に、弱い者貧しい者がさらにひどい目に合うことが記されています。10章の1-4節です。
災いだ、偽りの判決を下す者/労苦を負わせる宣告文を記す者は。(1) 彼らは弱い者の訴えを退け/わたしの民の貧しい者から権利を奪い/やもめを餌食とし、みなしごを略奪する。(2) 刑罰の日に向かって/襲って来る嵐に対して/お前たちはどうするつもりか。誰に助けを求めて逃れるつもりか。どこにお前たちは栄光を託そうとするのか。(3) 捕らわれ人としてかがみ/殺された者となって倒れるだけではないか。しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。(4)
政済界だけでなく正義の砦であるはずの法曹界までもが正義を失うなら、弱い者小さい者を守るものは何もなくなってしまいます。現代の日本の司法はここに書かれているようなひどい状況ではありませんが、それでも、もし司法が被害者の訴えをとり上げていたら殺されずに済んだかもしれないストーカーによる殺人亊件がおこっています。
2) この時と決定的に違うこと
この預言はイエス様が地上に来られる700年前になされたものです。主の怒りの対象は地上に相変わらず存在しています。御手は伸ばされていますが、それはもはや裁き、滅ぼすためにではなく、救い出すために伸ばされているのです。どんなに大きな徴を見せられても、人々の歩みは変わらず、酷いこと悲しい事はいつまでも起り続けます。イザヤは語っても救われることのない民に向って語り続けました。むなしいと思うこともしばしばだったのでしょう。それに比べれば私たちには希望があります。すこしずつではあっても私たちは収穫を得ているのです。
B. だから私たちは現代の預言者としてこう生きる
主が既に勝利されているので、私たちはときが良くても悪くても、主のために働き続けることができます。私たちは神様の良い知らせ<福音>を伝えるために召されています。その意味では、私たちは例外なく現代の預言者として立てられているのです。旧約の預言者は言葉だけではなく様々なコミュニケーションを用いて預言しました。私たちも言葉と行動で伝えることが出来ます。それは神様の愛があなたを通して人々の中で働くことです。聖霊は、あなたに必要な力とは知恵をあたえて、伝え続けることができるようにして下さいます
また、そこに教会が存在していること自体、神様の預言と言ってもよいでしょう。私たちはイエス様の体として、同時代のできるだけ多くの人に神様を紹介し続けるのですから。
1) 誇り、驕る心に警告を発し続けよう (7-11)
私たちは私たちの周りにいる、自分を誇り、驕り高ぶった人に、率直に警告できるチャンスを神様に与えていただけるように祈り求めましょう。私たちが彼らとは違う価値観で生きていることを見せるのも、預言の一つの型です。すぐに目に見える結果を期待してはいけません。誇り、高ぶっていられる時には彼らは決して耳を傾けようとはしません。私がクリスチャンになる前は全くそのような存存でした。すでにクリスチャンだったガールフレンド(今は私の妻ですが)は、7年の間、招き続けてくれました。それは決して言葉による説得ではなく、ただイエス様に信頼をおいて歩む姿勢でした。しかし、私の心はそう簡単には開かなかったのです。でも、それはむだではありませんでした。私には自尊心を失う時が来て、本当に頼るべき方に従っている人の強さを知ったのです。
2) 主を求め、主に立ち返ることを勧め続けよう (12-16)
イエス様を信じない人の中には昔の私のように、自分だけを信じている、何にも従いたくない、という人よりも、自分は弱い、何か確かなものをたよりたい、ただそれが何かわからない、という人の方が多いかもしれません。私たちは、そんな生き方はだめだぞ、という警告だけではなく、 イエス様はこんなにすばらしい、というキャンペーンも行っているのです。
また、皆さんのまわりには、一度イエス様を信じたのに教会を離れてしまった人はいませんか?他の教会につながっているのならいいのですが、いつの間にか枝が幹から離れてしまうように、クリスチャンとしての歩みを止めてしまった人います。私たちには、このような人々に働きかける役割も与えられています。まずは彼らのために祈り続けることから始めましょう。
3) 悪をはっきり敵として生きる姿勢を貫き、正義を追い求めよう (9:17-10:4)
教会は個人の魂の救いのためだけにあるのではありません。教会はこの世から逃げ込む所ではありません。むしろ世の光、地の塩と呼ばれているように、この社会に働きかける役割が与えられています。皆さんにも、魂の救いだけではなく、社会の救い、自分の国の政治や外交にも興味を持っていただきたいのです。社会の悪は小さいもの弱い者を苦しめます。イエス様はどのような者の側にお立ちになったでしょうか?苦しんでいる者、虐げられている者、弱い者、小さい者、病気の者、貧しい者の側であったはずです。一つの教会が出来ることには限りがあります。何にでも手が出せるわけではありません。ユアチャーチでは今スリランカの子供たちを応援していますが、この働きをしっかり支えましょう。それから、この国、この社会、このコミュニティーのために教会が出来ることはないでしょうか?考えてゆきましょう。
メッセージのポイント
イザヤの預言したイスラエルの滅亡前の社会の状況は、私達が今の社会を見て感じられることと多くの共通点があります。しかし決定的に違うことはイエス様の十字架の赦しが、今はあるということです。懲らしめるために伸ばされていた御手は、今あなたを救うためにもっと長く伸ばされています。人々の心を誘惑し、悪の内にとらえておくようなサタンの働きは今も激しく、それに対する神様の怒りは収まってはいません。私たちは、神様と共に戦うために召されました。まだ困難は多くても、主はすでに十字架の上で勝利なさっています。主イエス様を信頼し、与えられている務めを果たしましょう。
ミニチャーチのために
1) 当時のイスラエルと現代の社会、共通点・相違点は?
2) 私たちはどのような戦いに召されているのですか?