2006/10/1 メッセージノート 

ライトは照らすためにある マルコによる福音書シリーズK(4:21-34)

今日はイエス様がなさった四つのたとえを読んで、私たちが本当にクリスチャンらしく歩んでいるか、考えてみたいと思います。外から見るクリスチャンらしさはその人の言葉や行動に現れます。私ももっとクリスチャンらしく歩みたいと思って、人の言葉や行いを真似してみてもうまくはゆきません。借り物ではないあなたの言葉や行いは、あなたの根本的な生き方から出てくるものだからです。たとえば「わたしの全てをあなたに捧げます」と歌ったとしても、心からそう思っているのでなければ、むなしい言葉でしかありません。良い行いをして人に誉められても、それが自分の誉れのためであるなら、それは偽善です。イエス様が教えられた信仰の姿勢の根本を学びなおしてみましょう。

A. クリスチャンの生き方についてのたとえ

1) ライトは照らすためにある (21-23, ヨハネ8:12)

始めに21―23節を読みましょう。

また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」(21-23)

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネによる福音書8:12)とご自身についてあかしされたように、イエス様は闇のように希望のない世界を照らす、希望の光としてこられました。そして信じる者も神様の愛にふれて、闇の世に希望の光を届ける配達人となったのです。マタイ5:14ではイエス様はもっとストレートに「あなた方は世の光です」と告げています。

あなたの光は誰かに届いていますか?人を恐れて、自分がクリスチャンであることを隠してはいませんか?あなたの光は、立派な外見でも、お金でも、キャリアでもありません。学力でも体力でも精神力でもありません。それらの全てがなくてもあなたは輝いています。いえ乏しければ乏しいほど、無力であればあるほど、そこに満たされる神様の愛が輝くのです。あなたが人々を愛し、赦し、受け入れる時に、あなたを通して神様の光は輝き人々に希望を与えます。

2) 求めれば貧しく、与えれば豊かになる (24-25, マタイ25:24-30)

次の2節を読んでみましょう。

また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(24-25)

こう聞くと自分はあまり豊かではないのに、才能もないのに、神様は貧しい私をもっと貧しくさせ、ありあまっている人にはもっと与えるひどいお方だと思う人がいるのではないでしょうか?神様が与えたり、取り上げたりするのは、お金でも能力でもありません。それは、あなたが世で輝くための燃料です。さて私たちは何を燃やして光となるのでしょうか?それは神様が与えて下さる、賜物や知恵、勇気などの恵みです。マタイ25:24-30を開いてみましょう。

ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」(マタイ25:24-30)

この部分も神の国についてのたとえです。神様は私たちが光となって活躍できるように、それぞれに必要な恵みを豊かに満たして下さいます。この人は1タラントですが10タラントの人、5タラントの人もいました。与えられる恵みは一人一人異なるので量や大きさも異って見えたのです。この人は人に与えられた恵みを見て、自分に与えられたものはなんて小さいのだろう、神様は不公平だ。これじゃあ何の元手にもならない。と考えたのです。5タラント与えられた人は1夕ラントの人と違って、10タラントの人をうらやむことなく、与えられたものを十分に活用しました。成果は10タラントの人の半分でしたが、全く同じようにほめられたのです。

もしあなたが、ただ自分の喜び、満足のために恵みを求めるなら、求める動機が間違っているので、神様はあなたにさらに多くを与えようとはなさいません。それどころか、使わない道具が錆び付いて使えなくなるように、与えられている恵みも人々を愛するために用いていなければ、役立たないものになってしまいます。それが、「持っているものまでも取り上げられる」ということなのです。

B. 神の国についてのたとえ.

1) 神様が成長させて下さる(26-29)

それでは、乏しく思えてしまう(本当は十分与えられているのですが)恵みという元手を、私たちはどう用いたらよいのでしょうか?神の国についての二つのたとえから学びましょう

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(26-29)

ここで「成長させて下さるのは神様だということをしっかりと心に留めておきましょう。

間題は、自分に何が出来るかではなく、神様に対する信頼なのです。聖書には多くの人々の失敗例が出てきますが、ほとんどの場合、能力の欠如ではなく、神様に対する信頼の欠如が問題なのです。私たちは人々の心に福音の種をまきます。水をやったり、草をとったりの世話もします。しかし成長させて下さるのは神様御自身です。どうか小さな自分をみつめずに神様の恵みに期待して小さい。

2) 小さな信仰の種が大きな木のような神の国をもたらす (30-32, ヨハネ12:23-26)

もう一つのことは、大きな木も一粒の種から、その成長が始まったように、神の国も小さな種である私たちの一歩から始まるということです。30-32節です。

更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(30-32)

どのような事でも最初の一歩を踏み出すには、勇気や決心が必要ですが、特に私たちの、神の国への第一歩には、はっきりした決意が必要です。イエス様のこの言葉を聞いて下さい。

イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 (ヨハネ12:23-26)

種の第一歩は、地に落ちて死ぬことです。イエス様は、自分を捨て、自分の十字架を負って私に従ってきなさい、ともいわれました。神様はこのことを特別な人に求めておられるのではありません。イエス様を信じて従う者すべてに、クリスチャン全てに求めておられると、私たち、ユアチャーチは信じています。だからユアチャーチのメンバーの誓いであるユアチャーチカヴェナントで、自分の十字架を負った者に相応しい歩みを、署名する人に求めているのです。今日は午後、メンバーになることを希望する人のためのクラスがあります。ユアチャーチのメンバーとなり、自分のためではなくイエス様に従って神の国の働きのために生涯を捧げたい、と思っている方はぜひ出席してください。

C. イエス様のコミュニケーション(たとえを用いて語る) (33-34, マタイ13:11-13)

今日のテキストの最後の部分を読みましょう。

イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。(33-34)

イエス様は人々に神の国の奥義をたとえで語り、弟子たちに対するように全てを説明することはなさいませんでした。イエス様は、マタイによる福音書では、その理由をもう少し詳しく述べておられます。

イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。(マタイ13:11-13)

気付かれた方がいると思います。ここに25節で出てきた「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」 とほとんど同じ言葉がたとえで話す理由として記されています。 イエス様は、恵みの消費者ではなく、自分を捨てて従う恵みのディストリビューターつまり弟子を求めておられたのです。そうでなければ神の国は前進しません。信じた者が自己満足で終わるなら、教会は閉ざされた社交クラブでしかありません。

今、私たちにはたとえだけではなく、聖書のよって全てを説明されています。それは、神様が私たちを弟子として招いておられるということです。私たちは「持っている物まで取り上げられる者」ではなく「さらに与えられて豊かになる者」です。そのために私たちに必要なことは、たった一つ、求めるライフスタイルから、与えるライフスタイルで生きることです。

メッセージのポイント

「イエス様を信じて生きる」ということは闇の中に輝く光のように、人々の心に希望を伝えることを使命として生きるということです。神様が私たちに豊かに恵みと賜物を満して下さるのは、この目的のために他なりません。もしあなたが、ただ自分の喜び、満足を求めて生きるなら、神様はあなたに、生存に必要な最低限の恵みしか与えることができないのです。この社会では生涯をイエス様に捧げて生きる者は多くはありません。大地に蒔かれた からし種のように、たよりなげで心細い気がするかもしれませんが、後半のたとえで語られているように、神様は私たちがこの世界で主の愛に生きようと決心(そこで私たちは世にまかれた者となります)するなら責任をもって成長させて下さり、豊かなみのりをお与え下さいます。成長は生涯を通して続き、からし種を地にまくような私たちの献身のー歩が、大きな木のように存在感のある神の国の現れとなるのです。

ミニチャーチのために

1)ともし火を寝台の下におくとはどのような生き方を指していますか?

2)イエス様はなぜ弟子以外の人々にはたとえでしか語らなかったのでしょうか?