10/29/2006 メッセージ

権威と力

序 権威とは?力とは?

権威または力という言葉に、あなたはどんな印象を持っていますか?多くの場合、権威や力は間違った形で乱用され、人々を苦しめるので、マイナスの印象を持つ人が多いのです。ところが聖書は、権威や力を否定するのではなく、正しい権威を持ち、それを正しい力として発揮することを勧めています。

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。(マルコによる福音書 12:28-34)

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(ルカによる福音書 10:25-38)

ここに書かれていることは、神様を信じて歩む者にとって一番大切な戒めは何かということです。ルカの方では、それはまた永遠の命を受け継ぐ、つまり永遠に神様とともにいられるための条件でもある、ということがわかります。ここで見逃されやすい言葉は『力を尽くす』です。神様に従い、主と共に歩むということは、心や思いを尽くすだけではなく、力を発揮することでもあるということがわかります。力を尽くして神様を愛するとはどういうことなのでしょうか?このことは、信じる者の『権威』と関連付けて考えるとわかりやすいのです。

権威というものは目に見えるものではありません。権威は力として現されます。交通量の多い交差点でも信号が故障すると、警察官が十字路の真ん中に立って交通整理をしなければなりません。たった一人の人間が、笛を吹いたり、手を動かしたりするだけで、多くの車や人を止めたり、進めたりできる力は、従わなければ罰せられるという権威によって表されるのです。それはその人が何か不思議な力を持っているからでも、その人自身に権威があるからでもなく、その人に権威が委ねられていることが制服によって誰でもわかるからです。

クリスチャンは神様の権威を委ねられています。しかし警察官の制服のように誰にでも見える権威の印はありません。それはイエス様も同じです。着飾って王のように支配することもせず、きらびやかな法衣をまとうこともなさいませんでした。しかし人々はイエス様に大きな権威があることを認めました。何故でしょうか?それは、イエス様が力を発揮なさったからです。イエス様が天にお帰りになった今、教会が、私たちクリスチャンが、イエス様のように力を発揮していかなければ、この世界に神様の権威はあきらかにならないのです。イエス様は、人々を癒し、悪霊を追い出し、罪から解放し、重荷を取り除くという力を現され、その権威によって「私に従ってきなさい」といわれました。私たちもまたこのような力を現すなら、私たちに神様の権威があることが人々に認められます。そして私たちは「あなたもキリストに従いなさい」と大胆に勧めることが出来るのです。そこで、私達にゆだねられている権威はどのようなものなのか?その権威をどのように力として発揮することが出来るのかということを知っておく必要があります。それではまず、全ての権威の源がどこにあるのか、ということから学んでゆきましょう。

A. 神様の権威と力

1) 権威と力の源

創世記の第一章から見てゆきます。まず、この聖書全体の最初の言葉である第一節に注目しましょう。

初めに、神は天地を創造された。(創世記1:1)

さりげなく短い言葉ですね。しかし、この言葉に同意するか、しないかで人生は全く違ったものになります。この世界を創った方を認めるのか、全くの偶然と考えるかの選択です。世界を神様が創ったと認めるなら、最高の権威は創られた方にあることを認めなければなりません。創られたものは創った方のものだからです。あなたが世界を神様の作品と認めないなら、誰の権威に従う必要もありませんが、あなたも誰かに権威を主張することは出来ません。また、誰かの権威の下で保護してもらうことも出来ないということです。そこで、27-28節を見ておきましょう。

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:27,28)

ここで、聖書はあらゆる権威の源が、世界をお造りになり、世界の主であるということをはっきりと宣言しています。人間は、この世界を正しく治めるために、神様の似姿に造られ、その権威を委ねられたのです。問題は多くの人々が、その権威の由来を忘れ、人間自身に権威があるかのように振舞っていることです。神様は新約聖書でもパウロを通して語っています

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。(ローマの信徒への手紙 13:1)

この節は誤解されやすいので、コンテキストを説明しておきましょう。パウロはあらゆる時代のあらゆる権威について述べているわけではありません。終末が近いと感じられていた、ローマ帝国の支配下の地域にあった諸教会の中には、もう終りの時代なのだから、地上の権威には全く従う必要がないという過激な考え方があったのです。それは今まで、積み上げてきた教会の形成を台無しにしてしまう恐れがあったので、パウロはこう警告したのです。今、世界には神様に由来しない、むしろ敵対して権威を主張する、様々な勢力があります。今、パウロがここにいるなら彼はこう言うでしょう。「真の権威とは神様に由来する権威なのです。人は皆、神様に由来する権威に従うべきです」

2) イエス様の権威と力

旧約の時代、神様は信じる者を通して、その権威を様々な力として表わされました。しかし、人々はすぐにそれを忘れ、神様に従うことをやめ、そむき続けました。イスラエルは、心を尽し、思いを尽し、力を尽して従う信仰を捨ててしまったのです。そこに残ったのは、形式的に戒律を守る信仰つまり律法主義でした。政治的には、異国ローマの支配下にある望みのない、旧約の時代に幕を降ろすためにイエス様は来られました。ルカによる福音書4:31-37を読みましょう。

イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。 ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。 「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」 こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。(ルカによる福音書 4:31-37)

このように力を表わして神様の権威を帯びていることを表わされたイエス様の登場は旧約聖書でも預言されていました。イザヤ書の9章5節です。

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。(イザヤ書 9:5)

イエス様は神様の権威と力を帯びて世に来られました。しかし、それは地上の歩みのうちに、権威と力を表わすだけではなく、彼に従う者たちに分け与えるためでもありました。だからイエス様は力のデモンストレーションを御自身でなさるだけでなく、弟子たちにもさせたのです。ルカによる福音書にはこう書かれています。

B. 権威を力として表しなさい

1) 信じるものに与えられている権威と力

イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。(ルカによる福音書 9:1)

この権威と力は信じるものに与えられているのです。最初にお話ししたことをくりかえしますが、イエス様が天に帰られた今、私たちが与えられている権威にふさわしい力を発揮しなければ、今神様を知らない人々は神様の恵みに与ることが出来ないのです。私たちは、もっと大胆に力を表すべきではないでしようか?与えられている権威は地上のどんな権威よりも大きいのです。それにふさわしい力を発揮するできではないでしょうか?ルカの次の章、10:18-19にあるように、私たちに害を加えることができるものは何一つないのですから。

イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。(ルカによる福音書 10:18,19)

神様が、忠実に従う民にその権威と力を下さることは旧約聖書にも記されています。詩編68編から見てみましょう。

地の王国よ、共に神に向かって歌い/主にほめ歌をうたえ いにしえよりの高い天を駆って進む方に。神は御声を、力強い御声を発せられる。 力を神に帰せよ。神の威光はイスラエルの上にあり/神の威力は雲の彼方にある。 神よ、あなたは聖所にいまし、恐るべき方。イスラエルの神は御自分の民に力と権威を賜る。神をたたえよ。(詩編 68:33-36)

それでは最後に、私たちがどうしたら大きな権威にふさわしい力を発揮できるか、二つの事をお話しします。ひとつめは、聖霊に満されていなければ、力を発揮することはできないということです。使徒言行録1:8を読みましょう。

2) 聖霊に満たされて力を発揮する

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)

霊に満されることは、一回限りのことではありません。満され続ける必要があるのです。皆さんにはそのことのためにミニストリータイムや、今月始った、第二日曜午後の、聖霊に満されるための集会を活用していただきたいのです。

3) 力は弱さの中に発揮される

もう一つは、弱さの中にこそ神様の力が宿るということです。コリントの信徒への第二の手紙12、13章から見てゆきましょう

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(コリントの信徒への第二の手紙12:9)

私たちは自分の弱さをもどかしく思いがちですが、パウロは「自分の弱さを誇りましょう」と勧めています。ですから、自分の弱さに注目するのではなく、キリストの力が宿ることを求めてゆきましょう。13:4を読みます。

キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。(コリントの信徒への第二の手紙13:4)

人々に、神様の力を発揮して仕えるために必要なことは弱さを自覚し、しかしその弱さにとらわれずに、イエス様に一心に従って大胆にやってみることです。

メッセージのポイント

権威自体は目に見えるものではありません。権威は力として現されます。世界を支配する権威は世界を造られた神様のものです。それは神様の力となって私たちの目に明らかになります。イエスキリストの言葉と行いを通して、信じる者の言葉と行いを通して、神様の権威を力としてこの世界に現されるのです。神様はこの権威を(信じる者の集まりである)教会に委ねるために、まずご自身がイエスキリストとして来てくださいました。イエス様は、神様の権威を帯びた地上で最初の者として、信じる者に神様の権威を分与したのです。与えられている権威は力として用いなければ意味がありません。聖霊に満たされ、神様を信頼して与えられている権威を力として発揮しましょう。

話し合いのヒント

1) 私たちはどのような権威を与えられているのですか?

2) どうしたら力を現すことができますか?