2006/11/5 メッセージノート 

<神様の恵みによる出会いによって今の私がいる>

序:私はなぜ今この牧師の話を聞いているのだろう?

クリスチャンは礼拝で新しい一週間を始めます。日曜日の礼拝の中には、ほとんどの場合『説教』があります。古く硬い言葉なので最近は『メッセージ』という言い方をされるが多くてユアチャーチでもそう言っていますが、きっと神学校の先生が知ったら、私は軽薄だと怒られると思います。神の言葉の説教は礼拝の中心だと教えられてきました。神の言葉の説教は聖日の礼拝に欠かせない大切な要素だと思いますが、それを中心と言ってしまうとたとえば、今まで過ごしてきたワーシップタイムはメッセージを聴くためのウォーミングアップということになってしまいます。しかしそうではありません。ワーシップは私たちから神様への表現であり、メッッセージは神様からの語りかけです。どちらも礼拝の大切な要素として欠かすことの出来ないものなのです。ですからワーシップについて、特に歌うことについて礼拝で何度もお話ししてきました。メッセージについては一年前、正確に言うと去年の11月13日に『説教についての説教』というメッセージをしたので、興味があったらウエッブサイトで読んでみてください。今朝はメッセンジャー・説教者について、お話しします。あまり考えたことはないと思いますが、ユアチャーチの日曜礼拝に来るとたいていこの人が前に立って誰よりも一番長く話すのはなぜでしょう?限られた人生、毎週のようにこの人の話を聞いて一週間を始めるのです。自分が神様の計画でここおかれたとはいえ、この人がどういう人か知っておいた方が良いのではないでしょうか?本当にこの人が私の牧師でいいのか?最近、教会に通い始めた方も多いですから、今朝は皆さんに確かめるチャンスを差し上げたいと思います。

A.彼の頭と心の中をのぞいてみよう

1) 彼と神様との関係はどのようなものなのだろう?

神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。 わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。 わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。 あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。 喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。 わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。 御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。 わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。 神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。 主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。 もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。 御旨のままにシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。 そのときには、正しいいけにえも/焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ/そのときには、あなたの祭壇に/雄牛がささげられるでしょう。(詩編51:3-21)

牧師は普段何をしているのだろう?皆さんの素朴な疑問です。定休日はいつですかと聞かれることがありますが、定休日はありません。土日が座っている暇がほとんどない牧師の休養日は平日のどれかです。私は平日礼拝やミーティングのないどれかの日を、一日中、牧師としては何もしない日を作ります。波乗りに行ったり、中古のCDショップや楽器屋やヨドバシカメラなんかでふらふらしています。この1日を例外として私はいつもユアチャーチのことを考えユアチャーチのために働いています。つまりイエス様から委ねられた群、皆さんのことを考え、皆さんのために働いています。といっても、毎日、礼拝や集会があるわけではありません。キリストの体の一部であるこの教会がどのように歩んでゆくのか?どこに向かって進んでゆくのか?そのために働いている皆さんに何を提供すればよいのか、を考え、祈り、聖書を読み、メッセージやセミナーを通して実際に提供できるように準備をしています。孤独な仕事ですね、とかボスがいなくていいですね、と言われますが、イエス様というボスとふたりでの作業です。よく礼拝のあと、私の情況にぴったりのメッセージをありがとう、と感謝されますが、私は決して皆さんの日常生活を隠しカメラでモニターしているわけではありません。神様がこのように語りなさいと教えて下さるのです。私が勝手に考えているわけではありません。わたしは毎週新しいお話を頭の中で造り出せる程、クリエイティヴな人間ではありません。神様がその憐れみによって、毎週ここに立たせて下さるのです。

2) 彼はどのようにして牧師になったのか?

すこし昔ばなしをさせて下さい。今から37年前のことです。私は中学2年生になったときに、一人の女の子を好きになりました。彼女はクリスャンで、しかも牧師の娘でした。私はそれまでクリスチャンと出会ったこともありませんでした。彼女に教会にさそわれましたが、一度だけ行きましたが、それから7年の間教会に行くことはありませんでした。その7年目というのは、大学3年の時のことです。それまで、国の権力に反対する学生運動をしていましたが、運動にも、自分自身にも幻滅していました。生きている意味も目的も分からなくなってしまったのです。そんなときにイエス様のことを思わされたのです。あの人が信じているというイエス様はもしかしたら本当に生きる意味を与えてくれるかもしれないと考え、もう一度今度は自分の意志で教会に行ってみたいと思ったのです。教会に誘ってくれた彼女は、私が教会に行かなくなってからも、祈り続けました。「どうかこの人を救ってください。そして神様の働きに用いてください」神様は彼女の祈りを聞きいれ、私の願いに応えて、イエス様が道であり真理であり命であることを信じることができました。21歳のクリスマスのことです。

私には二つのしたい仕事がありましたジャーナリストのなること、音楽産業で働くことです。神様はまずその一つジャーナリストになる道を開いてくださったかに思えました。大学を出てすぐにクリスチャン系の新聞社に職を得ました。が、私はそこで完全に浮いていました。クリスチャンになったばかりの私にとって、クリスチャンばかりの職場はカルチャーショックで、いろいろな人とぶつかって、いたたまれなくなって一方的にやめてしまいました。一ヶ月もいなかったのではないかと思います。そのあとすぐにクリスチャンミュージックのレコード会社に入ったのですが、どうもしっくり来なかったのです。私は自分の興味のあることでしかも神様の働きに関係している会社だから神様が祝福してくださるだろうと考えていたのですが、そうではありませんでした。私が好きなことを通してというのなら、それはイエス様にしたがっていることにはなりません。私は好きなことをしますから、イエス様それを用いてくださいねという自分中心の態度です。それではうまく行くはずはないと思い返して、あなたがさせたいことを私にさせてくださいと祈り始めました。その祈りに対する答えが、牧師になるということだったのです。中学二年生のときの出会いが、後に私の人生を大きく変えることになりました。

3) 彼は教会をどこに向かわせようとしているのか?

昔話はここまでです。牧師として20年、私はあと9年の間(60歳になったら、リタイアして後進に道を譲るつもりです)に次の世代の牧会者たちを出来るだけ多く育て上げたいと願っています。それはユアチャーチが、新しい教会を生み出す教会に成長するということでもあります。この国にはもっともっと教会が必要です。人口に対して1%以下のクリスチャンがせめて10%になるのを見て世を去りたいと思っていますが、10%になるということは、単純に言って教会の数が今の10倍になるか、今の教会が全て10倍のサイズになるかということです。教会を大きくしたい、沢山生み出したい、クリスチャンを増やしたいということは、それ自体が目的ではありません、それは出来るだけ多くの人がクリスチャンに出会い、皆さんや私がそうであったように、キリストに出会い、新しい、そして永遠の命に与るためです。このことのために働くことが私の生きがいであり、神様に対して果たすべき責任だと思っています。

B. これからあなたと出会い人生が変わる人々のために

そこで皆さんには、誰かと出会った時、その人の人生を変えるような(決して狂わすようなではなく!)人となっていただきたいのです。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」 (ヨハネによる福音書15:1-17)

1) 生きている意味を知ろう

あなたとの出会いが、人にとって幸いなものとなることを願うなら、あなたが知っていなければならないことが三つあります。

一つ目はあなたの人生にはどんな意味があるのか?あなたは何のために生きているのか?を自覚することです。

人生最大の出会いは誰にとっても救い主イエスキリストとの出会いです。私はいままでも多くの人々との出会いを経験しましたが、今はっきりといえることは、どれだけ多くの素敵な出会いがあったとしても、イエス様に会うことが出来なかったなら、私の人生は不完全だったということです。クリスチャンとなった方は100%同意してくださると思いますが、クリスチャンではない方にもぜひこのことを知っていただきたいのです。5000ピースのジグゾーパズルに挑戦して4999枚をうまくはめ込んだ時に、最後の一枚しかも真ん中の一枚がなくなっていたことを発見したらあなたはどんな気がするでしょうか?ジグゾーパズルは普通わかりやすいコーナーや直線を含む外側をそろえることから始めます。真ん中の一枚がどれであるかなんてことは最初から気にはしません。それでも全く問題なく進めてゆくことが出来ます。満足な気持ちでほぼ完成というときに中心がないことを知ったらひどくがっかりするはずです。皆さんの周りにもそういう人がたくさんいるはずです。イエス様を知らなくても結構自信満々に、楽しげに生きている人々です。しかし、人生はジグゾーパズルのセオリーどおりには行きません。自分の生きている意味を知らなければ乗り越えることの出来ない困難に遭遇する時があるのです。だからパズルと違って、人生においては要となる一枚を最後まで無視していてはいけないのです。出来るだけ早く見つけておく方が良いのです。一つ一つの出会いは神様の恵みです。しかしイエス様と出会うと、いままでの全ての出会いがもっと美しい色に輝き始めます。救い主イエスキリストとの出会いは、それ以外の全ての出会いの本当の価値をあなたに教えてくれます。それはイエス様との出会いがあなたの人生に確かな意味を与えるからです。あなたの生きている意味、それは愛です。私たちは皆、愛するために生きています。ヨハネの3:16に「神は愛です」と書かれていますが、神様を信じるということは、神様の無限の愛を受けて、それを人々に表し続ける人になるということです。愛するために、あなたは存在します。「愛されるため」ではありません。既に愛されているのです。神様はあなたのために十字架の死を身代わりに引き受けるほどにあなたを愛しておられます。だから、直接相手から報われなくても、愛し続けることが出来ます。愛されるために生きる、言い方を変えれば、何かを手に入れるために生きることです。そしてそれは不安や不満、苦しみ、かなしみ、怒りをもたらします。いつまでも満足を得ることはできません。人間の欲望には際限がないからです。

 しかし、『愛するために生きている』という本当の自分の存在の意味を知っている人は、平安、満足、喜びのうちに歩むことが出来ます。神様という枯れることのない愛の泉を知っているので生涯愛し続けることが出来るのです。

2) 自分の人生の目的を確信しよう

二番目は自分の人生の目的を確信していることです。愛するためにここにいる私たちにとっては、置かれている場所がどのようなところであれ、地上の歩みを終えるその瞬間まで『愛し続けること』

が人生の目的です。私は25年前に牧師という役割を通して、愛し続ける人のなりなさいと、神様がお命じになったと確信して今日まで歩んできました。ある人は教師として、ある人は会社員として、ある人は主婦として愛し続けるのです。天国に帰ったとき、神様があなたに、あなたは何をしてきたので自分が天国に相応しいと思いますか?とお尋ねになるかもしれません。牧師が「わたしは沢山の立派な教会を作り、多くの人にバプテスマを授けました。」と答えたら神様に「お前はまだ何もわかっていない」といわれてしまいます。みなさんが「高い地位に上り詰め、高い収入を得て、沢山献金しました」といっても満足されません。「子供たちを立派に育てあげました」と言っても同じです。「オリンピックで金メダルを取りました。」「ノーベル賞を受賞しました」と言えたとしても神様を満足させることは出来ません。つまりそういったことは、本当の人生の目的ではないのです。そこで皆さんの牧師として模範解答を教えてあげたいと思います。それは「私は、愛し続けました。失敗も沢山しました。あなたを悲しませたことも沢山ありましたでもあきらめずに愛し続けました。私が地上でして来たことはそれだけです。」

3) 愛によって人々に影響を与えよう

そうです、神様はあなたに愛し続けてもらいたいと願っておられるのです。人間の弱さを神様はよくご存知です。それでも見捨てずに、滅ぼさずに、導いていてくださいます。がっかりすること、すべてを投げ出してしまいたくなることは起りますが、最後まであきらめずに愛し続ける人が天に帰る時、神様は祝福をもって迎えてくださるでしょう。多くの出会いは全て愛することの出来るチャンスです。そしてあなたの愛はその人をイエス様との出会いに導くのです。さあ、地上の歩みを終えるその日まで、愛し続けてゆきましょう。

メッセージのポイント

教会の牧師とは、キリストの体の一部である一つ一つの目に見えるその教会の責任者です。この権威は神様によって委ねられたものでその人の資質によるものではありません。彼/彼女はまたあなたと同じように赦された罪人であり、欠けのある人間です。クリスチャン一人一人が属する教会の使命は神様がお与えになるものです。牧師はその使命をできるだけ正確に、誠実に理解し、託された人々とともにその使命を果たすことを求められています。彼/彼女が重い責任を正しく果たせるように日々祈ることはメンバーの責任です。クリスチャンは皆、職としてという意味ではありませんが牧師-羊飼いです。あなたと出会うことによって、神様と出会い、神様と共に歩む人生を送り始める人々を養う責任が与えられています。この重い責任を果たすために必要なことは、神様と自分との関係をより強固なものとすることと、祈りに支えられていることです。お互いに祈りによって支えあいましょう。『互いに愛し合いなさい』の原点は、『互いに祈りあいなさい』です。

話し合いのために

1) ユアチャーチの牧師は神様からどのような使命を与えられているのでしょうか?

2) 今までの人生を変える最大の出会いは?(イエス様以外で)