2006/11/26 メッセージ 1イザヤ11:1-10(シリーズL)
預言されていた「イエス様の登場」
1) エッサイの根から育つ若枝? (1, マタイ1章参照)
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち(1)
エッサイはダビデ王の父です。ダビデはイスラエル史上最も信望の厚かった王ですが、ダビデ王朝の栄光は長く続きませんでした。イスラエルでは王国滅亡後、占領者を撃退し王国を再建する救世主(メシア)が待ち望まれていました。そしてメシアはダビデの家系から出ると預言されていました。しかし、エッサイの株・根と植物にたとえるなら、かつてはダビデという芽が出て栄えたものの今は見るかげもなく、生きているのか枯れているのかわからない株のような状態だったわけです。
イザヤはこの古株から新しい希望を預言しているのです。そしてそれは700年後、ダビデの世からは1000年後、イエス様の誕生として成就します。キーパーソンの誕生が長い間、待ち望まれ、やがて成就するというモティーフは、アブラハムとイサク、ハンナとサムエル、ゼカリヤとヨハネなど聖書にはイエス様誕生を暗示する出来事として多く紹介されています。イエス様の誕生が何世代にもわたって待ち続けられていた出来事だった、ということは私たちが、多くの問題を抱えたこの世界で、どのように神の国の完成とイエス様の再臨を待ち望むべきなのかよい示唆を与えてくれます。忍耐することが好きな人はいませんが、神様を信じる人の忍耐を神様は決して無駄にはなさいません。私たちも、神の国に迎え入れられるまで、つまりこの地上の歩みにおいては苦しみ、悲しみ、悩みに付き合っていかなければなりません。しかし私たちにとって耐えられないことは一つもありません。新しい若枝として現れたイエス様は、インマヌエル:共におられる方としてあなたを常に導いていてくださるからです。
2) 神様の霊に満たされた方として (2、ヨハネ1:32-34)
その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。(2)
そしてヨハネは証しした。「わたしは、"霊"が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(ヨハネ1:32-34)
救い主をさすメシアという言葉の元の意味は「油そそがれた者」です。イスラエルの王は即位する時、その頭に油そそぎを受けるのです。ともし火の燃料である油は働きの力となる聖霊を象徴しています。王として世を救うことは、神様の霊に満されていなければ出来ない困難な役割です。ダビデもサウル王の後継者として預言者サムエルに見出され、油そそぎを受けて王となりました。
イザヤはここで、やがて来る救い主が単なる地上の権力を握る王以上の存在であることを預言しているのです。その方は型式的に油がそそがれるのではなく、油が象徴する霊が、彼の上にはっきりとどまると言ったのです。もちろんバプテスマのヨハネもこの預言を心に留めていました。だからイエス様に水のバプテスマを授けた時に聖霊が注がれるのを見て、イエス様が神の御子であることを認めました。
この主の霊は「知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊(2) 」です。この霊に満されてイエス様は十字架に至る困難な道のりを歩みとおされました。
そして今聖霊は、キリストの体としてこの世界に遣わされている教会、私達一人一人と共におられます。イエス様は、はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。(ヨハネ14:12)といわれました。そのことは、イエス様が父のもとへお帰りになるときに遣わされた聖霊を受け入れなければ実現しないのです。このことは不思議な霊に包まれている、という感覚的、感情的なことだけを意味しているのではありません。父や御子同様に人格を持った神様として信じ、礼拝すべき方なのです。今の世においては聖霊がインマヌエルという現実を私たちに保証しておられるのです。
3) 正しい裁きをなさる方として(3-5、ヨハネ5:30、ヨハネ9:39)
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。 正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。(3-5)
わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(ヨハネ5:30)
イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(ヨハネ9:39)
この世界に不公平はあふれています。イエス様が来られる前はもっと酷かったのです。女性や子供の人権はないに等しいものでした。使徒言行録で話題となる、パウロが持っていたローマの市民権というのは庶民には持てない特権だったのです。ローマ市民といっても、町田に住んでいる人は皆、町田市民というのとはわけが違います。彼らは貴族のような一握りのエリートだったのです。イスラエルでも一握りの上流階級が富と権力を独占し、そしてそれ以外の人々には十分な人権が認められてはおらず、神様が求める正義はどこにも行われてはいませんでした。イエス様が正義をもって正しく裁く方として来られてから、世界は変わり始めています。しかし完成までには遠い道のりのように見えます。なぜ人は正しい裁きをすることが出来ないのでしょうか?それはすべての人に利己心があるからです。個人的利己心、集団的(家族、民族、国家)利己心が正しい裁きを妨げ、そのしわ寄せは社会的弱者にやってきます。けれども正しい裁きをなさるイエス様の心を受け継いで、主の正しい裁きを担ってきた人々が、少しずつ神の国を前進させています。アメリカなら公民権運動や日本の廃娼運動の中心を担ってきたのはクリスチャンたちでした。
福音は人々の魂にだけ救いを与えるものではありません。心も、体も救う力があるのです。私たちがどんなにイエス様の素晴らしさを宣べ伝え、人々の魂に心を砕いても、正義に無関心であるならイエス様の弟子とはいえません。今ある不公平に対して、私たちは発言し、働き、ささげる責任があるのです。
4) 平和をもたらす方として(6-9、ヨハネ14:27、ローマ5:1-2)
狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。(6-9)
平和は今までお話ししてきた正しい裁きと深く関連しています。正しい裁きがなければ平和は訪れません。正義が損なわれれば平和は崩れてしまうのです。つまり正しい裁きに服さなければ真の平和はありえないということです。正しい裁きをなさるのは神様以外にはおられません。だからイエス様は「世のものとは違う、私の平和を与える」とおっしゃいました。
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネ14:27)
それはどのような平和なのでしょうか?平和は力のバランスではありません。ローマの信徒への手紙5章でパウロは次のように紹介しています。
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。(ローマ 5:1-2)
まず求めるべきは神様との平和だということがわかります。それが魂の平和です。これがあって初めて私たちは家庭に、社会に世界に平和をもたらす人になれるのです。
イエス様は、わたしたち一人一人の魂に神様との平和を与えるために2000年前の世界で最初のクリスマスに来てくださったのです。
5) すべての人の王として (10、ヨハネ 12:13-15、黙示録17:14)
それでは最後の10節を読みましょう。
その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。(10)
敵に勝利した王は首都に凱旋します。イエス様もエルサレムに入城なさいました。しかしそれはおかしな風景でした。王のための特別な軍馬ではなく、ろば、しかも子ろばに乗って入城する王など今まで一人もいませんでした。
なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」 イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」 (ヨハネ 12:13-15)
イエス様は、王としてといっても、地上の権力者とは全く違った方としてこられました。それが地上的な王を期待していた人々を失望させ、一時は多くの人々がイエス様のそばに群がっていたのに、最後はまた弟子たちだけになってしまいました。神の国は目に見える国とは違います。目に見えないだけに軽んじられてしまうのですが、実は地上のどんな強国も神の国に勝るものではありません。神の国は地上の国境を軽々と越えて人々の心の中に増殖してゆくのです。誰がこの勝利に与ることが出来るのでしょうか?誰が勝利の人生を送れるのでしょうか?今日取り上げる最後のテキストです。
この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」(黙示録 17: 14)
人生に勝利を収めるのは、小羊と共にいる者です。2000年前に来られ私たちのために十字架にかかり、神様との和解を与え、死に打ち勝った方があなたの王です。あなたが仕えるべきただ一人のお方です。むなしいプライドや欲望に仕えてはいけません。ただ主イエス・キリストにお仕えしましょう。どうか聖霊に満たされ、正しい裁きで平和をもたらす主の弟子として歩み続けてください。
メッセージのポイント
イエス様がお生まれになる700年ほど前にイザヤによってなされた救世主(メシア)預言は、イエス様の歴史への登場によって現実となりました。2000年前、イエス様はメシアとしてこの世界に来てくださいました。神ご自身が人として、歴史を完成するために来てくださったのです。クリスマスはその出来事の始まりでした。イエス様はその地上での生涯を、愛によって正義と平和をもたらす戦いに挑まれ、十字架と復活によって、王としてその勝利を宣言なさいました。地上に残された主の体である教会は、今、この戦いの最終局面、サタンに囚われていた者の救出作戦を続けているところです。主が再びこられるとき、完全な平和は完成します。私たちはその時を待ち望みつつ、今与えられている働きに忠実に仕えてゆきましょう。
話し合いのヒント
1) エッサイとは誰ですか?それがイエス様とどう関係するのですか?
2) その日(10節)はいつ来るのですか?もう既に?いまだに?