2006/12/3 メッセージ   

旧約聖書の中のイエス・キリスト

今日は待降節の最初の聖日です。与えられているテキストに深く心をかたむけ、この人類にとって最も喜ばしく大切な出来事の意味をしっかりと受けとりましょう。イエス様がお生れになる前に書かれた旧約聖書には、もちろんイエス・キリストという名は出てきません。しかし、預言や詩の型でイエス様の登場が予告されています。先週はイザヤ書のメシア預言を取り上げましたが、今日は旧約の他の書からイエス様を捜しましょう。

1) 創世記の中のイエス・キリスト(49:8-12)

ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。あなたの手は敵の首を押さえ/父の子たちはあなたを伏し拝む。 ユダは獅子の子。わたしの子よ、あなたは獲物を取って上って来る。彼は雄獅子のようにうずくまり/雌獅子のように身を伏せる。誰がこれを起こすことができようか。 王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。 彼はろばをぶどうの木に/雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。彼は自分の衣をぶどう酒で/着物をぶどうの汁で洗う。 彼の目はぶどう酒によって輝き/歯は乳によって白くなる。

救い主がどのような方として来られるかという事が、早くも旧約の最初の書、創世記(49:8-12)に見出すことが出来ます。ここでは究極の王がユダ族の中から出ることが記されています。子ロバに乗ったイエス様がエルサレムに入られた時、イエス様が捕らえられ鞭打たれ、その衣が血に染まった時、この言葉は現実となりました。しかし、その場でそれを真のメシアのしるしと理解できる人はいませんでした。十字架上のイエス様の姿は誰の目にも敗北者、失敗者でしかなかったのです。けれども主は死からよみがえられました。イエス様は遅かれ早かれ死に敗北する、地上的な王ではありませんでした。マタイによる福音書第一章は、イエス様がダビデの系図に連なる者として生れるという亊と、しかし本当はその血のつながりとは関係なくマリアが聖霊によって身ごもった事を両方記しています。救い主は人々の願いを遙かに超えた特別な方、真の神であり真の人として来られたのです。

2) ヨブ記の中のイエス・キリスト(19:23-27)

ヨブは正しく豊かな人でした。しかし、大きな災いに見舞われ、自分の命以外の全てを失います。何故こうなってしまうのですか?という疑問を神様にぶつけ、見舞に来た友人たちとも大論争になります。けれどもヨブの神様に対する信頼はなんとかもちこたえました。

どうか/わたしの言葉が書き留められるように/碑文として刻まれるように。 たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され/いつまでも残るように。 わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。 この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。 このわたしが仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。

皮膚が損なわれても、この身をもって神を仰ぎ見る時がくる。事故や病で肉体を失ったとしても定められた時に体のよみがえりを与えられる、永遠の命を信じるというのです。ヨハネによる福音書第一章は、イエス様が地上の歩みを始められる前も、最初からおられた方であることを教えています。しかし、ついに地の上に立たれる時が来ます。それがクリスマスです。今の世に生きる私たちには新しい約束−天に帰られたイエス様が再び来られるという−が与えられています。この私たちの期待はヨブの期待と似ています。どんな苦しみの中にあってもヨブと同じように「わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。」と言うことのできる根拠が私たちには与えられているのです。

3) ミカ書の中のイエス・キリスト(5:1-5)

創世記ではユダ族の中に救い主が生れる事が記されていましたが、ミカはさらに地域を限定し、ベツレヘムで生れると預言しました。

エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。 まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。 彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。 彼こそ、まさしく平和である。アッシリアが我々の国を襲い/我々の城郭を踏みにじろうとしても/我々は彼らに立ち向かい/七人の牧者、八人の君主を立てる。 彼らは剣をもってアッシリアの国を/抜き身の剣をもってニムロドの国を牧す。アッシリアが我々の国土を襲い/我々の領土を踏みにじろうとしても/彼らが我々を救ってくれる。

この預言が成就するために出産予定日を間近にして、百数十キロの旅をするという大変な体験をすることになりました。ガリラヤ地方に住んでいたヨセフとマリアはローマ帝国の人口調査のために、ヨセフの出身地ベツレヘムで登録しなければならなかったのです。何も知らされないまま二人は神様の計画に導かれ、あの夜ベツレヘムにいたのです。神様は彼らに対すると同様にあなたにも計画をお持ちです。というより、神様の計画に、私たちは、知らず知らずのうちにでも用いられるのです。神様の意思はわからなくてもー歩を踏み出さなければならないことは多いのです。その時、その時、最善と思われる選択をしながら一歩一歩進んでゆくなら、時にまちがうことがあっても神様が修正して下さり、神様の計画から大きくそれてしまうことはありません。

4) ゼカリヤ書の中のイエス・キリスト(9:9)

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。

この部分は、先週とり上げたヨハネの福音書に引用されたイエス様がエルサレム入られる預言のオリジナルです。神の民であるイスラエルの王は、異国の王とは違うあり方が神様に期待されていました。高ぶることなく、ろば、しかも子ロバに乗られるような謙遜がイスラエルの王の基準でした。何とか合格点をあげられる王は何人かいましたが、理想の王は現われませんでした。イエス様の時まで待たなければならなかったのです。しかし、高ぶることなく柔和な王は、マチョでゴージャスな王のような人気はありません。イエス様に従うということは、広い門から入りゴージャスな王の道を沿道の喝采を受けながら、意気揚々とパレードするようなものではありません。狭い門から入りゴルゴタに続く折れ曲がった細い道を自分の十字架を負いー歩一歩、先を行くイエス様の背を見つめながら歩いてゆくことです。それが真の王に続く者のための王の道です。

5) マラキ書の中のイエス・キリスト(3:1-3)

見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。 だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。 彼は精錬する者、銀を清める者として座し/レビの子らを清め/金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を正しくささげる者となるためである。(マラキ3:1-3)

マラキはイエス様の登場だけでなく、その直前のバプテスマのヨハネについてもふれている貴重な預言ですが、私たちにとってより重要な事柄は2-3節です。イエス様は「私は裁くために来た」とか「平和をもたらすために来たわけではない」と言われたかと思えば別の場では正反対に「裁くためではなく救うために来た」とか「私が与える平和」といった言い方もなさるので、とまどう方もおられるかもしれません。総合して言うなら「私は人が裁くようには裁かず正しい裁きする。私は偽りの平和を壊し、本当の平和を与える」ということになります。

問題は、私たちの誰も神様の正しい裁きに耐えることはできないということです。私たちが裁かれるなら、ふさわしい刑は、いばらの冠の痛み、無数のむちによる苦しみ、十字架の死です。イエス様は、ご自身がその身代わりとなることを私たちに「提案」なさったのです。そして私たちを「私に従ってきなさい」と招かれました。

イエス様の提案を信じ、イエス様に従う、という歩み方をしている限り、私たちの礼拝であれ、献げ物であれ奉仕であれ神様は喜んで受け入れ私たちを祝福して下さるのです。

メッセージのポイント

イエス様の誕生はすでに旧約聖書の最初から暗示され、預言され、待ち望まれていました。聖書の全体は、彼が地上に来られる前も後も、イエス様が神と人の和解を実現する唯一のお方、すべての人の唯一の希望、決して信頼を裏切らない方、唯一人仕えるべきお方であることを証言しています。

話し合いのために

1) それぞれの書は、やがて来られる主のどのような特徴を強調していますか?

2) 私たちは旧約のメシア預言からどのようなことを学ぶことができるのでしょうか?