2006/12/24  クリスマスメッセージ

ほんとうの・・・ ヨハネ1:1-18

A. ほんとうの言葉

1) 溢れる偽りのメッセージ

最初に1-3節を読みます。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(1-3)

ヨハネはイエス様を「言」と表現しています。イエス様がすべてのものの前におられた神様御自身であることが、はっきりと記されています。そして世界のすべては、この神様がお造りになられました。

聖書も「神様の言」と表現されますが、ここでイエス様を表わす「言」とは言語という意味ではありません。「私たちにわかる形で御自身を表わす方」という意味です。神様は、イエス様という私たちが聞くことも、語りかけることもできる姿で世界に来て下さいました。このことがクリスマスの出来事なのです。すべての良いもの与え手である方がこられたのに、彼を主と認めない人が多くいるのは、この世界に偽りの言があふれていて、それらに信頼して本当の言に近づこうとしないのです。偽りのメッセージはたえず人々の心に語りかけます。占い師は「あなたの未来を教えましょう」と語り、政治家は「もっと強い国となって繁栄しよう」と語ります。多くのメディアが「人より多く持ちなさい、欲望を満たしなさい、それがあなたの幸せです」というメッセージを流し続けています。

多くの人はそれが偽りであることに気付いて始めてほんとうの言を求め始めるのです。

2) 探し出そう、本当の言葉

この残念な状能をヨハネは次のように表現しています。10-13節です。

言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。(10-13)

しかし、多くの人々が救い主に心を向けない中で、始めにごく少数の人がイエス様を救い主と認めました。 

あなたは、自分が1900年代後半に生まれ、今この時代に生きているのは何故だろう?何でこのタイミングで、この国なのだろう?この家に生れたのだろう?考えてみたことはありませんか?神様を信じない人は、おとうさんとおかあさんが結婚したので今の私がここにいるとしか考えません。自分を、いわば偶然に生れ、生きている者と考えているわけです。そうであるならば、出来るだけ自分の思い通りに生きようと考えるのは自然なことでしょう。しかし、誰もが思い通りに生きることは出来ません。そこには争いが起き、勝者と敗者、強者と弱者が生じます。だから自分を競争の勝者にしてくれるような「言」や自分の状態を慰めてくれる「言」によりたのんで生きてゆこうとするのです。しかし本当の幸せは人と争って奪い合うものではありません。世の与える富は勝者と敗者を生みますが、天の与える富は、それを得ようとするすべての者に満足を与えてくれます。私たちは、真の「言」として来られたイエス様の教えについて聖書から多く受けとることができます。紹介したいイエス様の言葉は沢山ありますが一つだけお伝えします。これは私たちの生き方の方向を180度変える言葉です。マタイ6章31-34節です

だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

これは信じるに値する言葉です。こう信じられれば、これほど平安なことはありません

B. ほんとうの光

言・命に比べると、イエス様が光、というのが感覚的にはー番わかりやすい表現かもしれません。

1) 偽りの光に惑わされてはいけない

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(4-5)

イエス様が光と表現されるのは、イエス様が私たちの心に希望を与えてくれるからです。この光に目を向けるなら、変わることのない希望を胸に歩み続けることが出来ます。それなのに,多くの人がこの光に来ようとしないのは「言」同様、世界に「偽りの光」が溢れているからです。

闇の中に輝く光を見るとほっとしますが、その光が本物かどうかを見極めなければ成りません。中には、ある魚のように光を発して獲物を誘い食べてしまうような「光」もあるのです。

素晴らしそうに見えるもの、楽しそうに思えることの中には、私達にとんでもない災難をもたらすものがあるのです。それらは希望をもたらすどころか、魂をとりこにし、荒廃させてしまいます。クリスマスには美しいイルミネーションが目立ちます。町のイルミネーションは恋人同士で眺めているならロマンティックな気持ちにさせてくれるでしょうし、ショッピングモールのイルミネーションはお買い物ムードを高めるのに役に立ちます。でもクリスマスに光の飾りを始められたのは立った一本のキャンドルだったのではないかと私は想像するのです。そしてそれは、唯一つの世を照らす真の光・クリスマスの主人公、イエス様を表すものだったはずです。

2) イエスキリストのうちにある真の希望

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(6-9)

明るい希望を持ちにくい世の中だと言われます。悲しいニュースが目に付きます。でも、クリスマスはイエス様が確かな希望を与えるために来られた出来事です。イエス様は、すべての人を照らすまことの光なのです。クリスチャンとは、このことを信じイエス様に従って歩み始めた人のことです。この光の内を歩み続けるなら希望を持ち続けることが出来ます。どんなことが周りに起ってきても、あなたがこの光の導きを信じ従って歩み続けるなら、あなたから希望を奪うことの出来るものは誰もいないのです。

C. ほんとうの命

1) 知っているつもりの命の意味は間違っていないか?

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」(14-15)

あなたにとって一番大切なものは?という質問して、命と答えなくても、ではそれとあなたの命とどちらが大切ですかと聞けば大ていの人は命と答え直します。そしてそれはたいていの場合、長く健康に生きられるという事を意味しています。肉体の命は長くても百年ほどで終わりです。もし長く生きられることが大切で一番幸せなことだとしたら、日本人が世界で一番幸福な国だということになります。ちなみに平均寿命は男(約78年)と女(約85年)で世界一です。実際にはこの数字は衛生面で恵まれていて乳幼児の死亡率が少ないことを意味しているに過ぎません。

けれども聖書は、命のほんとうの意味は、医学的に生存している、ということではないのだと、私たちに教えてくれます。ほんとうの命とは神様に魂がしっかりとつながっていることなのです。肉体は滅びても、魂は滅びません。古来、人はこの魂が肉体の滅びたあとどうなるのかを考え続けてきました。聖書が教える命とは、私たちの魂に与えられる永遠の命です。それは肉体が土に帰ったあと、時間や場所という制約から解放され神様と共にある永遠です。

本当の命を知らない人は、神様を大変不公平な方だと思います。長生きする人もいれば、子供でも死ぬことがあるのです。けれども、この地上での歩みは、永遠の魂の歩みから見れば、ごく最初の期間に過ぎません。永遠を信じる人は、愛する人に先立たれても、再会の希望を持ち続けることが出来ます。

2) ほんとうの命を得よう

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(16-18)

私たちは肉体の死について、その時期を自分で決めることは出来ません。しかし、その先に続く永遠の命の約束を今日受け取ることはできるのです。イエス様は、この永遠の命を与えるために2000前のクリスマスの世界に来られたのです。

まだイエスを主として心に受け入れていない皆さんにお勧めします。どうか今朝あなたも、神の言であるイエス様を信じ、永遠の命をいただき、変わることのない人生を始めてください。

クリスチャンとしての歩みをはじめられた方にお勧めしたいことは、この真理から目を離そうと思えば簡単に出来てしまうほど、偽りの言葉、偽りの光は巧妙だということです。どうかイエス様を見上げて歩み続けてください。

メッセージのポイント

ヨハネは彼の福音書の一章をイエスキリストの誕生について、マタイやルカのように起こった出来事の記録ではなく、来られた方が私たちにとってどのようなお方であるか、ということに焦点を当てて著しています。ここでのキーワードは言・命・光です。イエスキリストがこの世界に来てくださったのは、あなたが歩んでゆくために本当に必要なこの三つのものを与えるためでした。世界には、これらの代用品、偽物が溢れ返っていますが、それらは本当に必要なときには役に立ってはくれません。言とは、人に伝えるメッセージ、という意味で使われています。イエス様御自身が神様からのメッセージとして私たちにご自身を表されたので、言と称されるのです。その言は、聖書に記録され「命のほんとうの意味は、息をしているとか、脈があるとか、脳波があるとかではなく、神様とつながって生きていることだ。そこにこそほんとうの光(希望)があるのだから、イエス様の救いを受け入れて、彼に従いなさい」と私たちに勧めています。

話し合いのヒント

1) なぜイエス様は言と称されるのですか?

2) 聖書は命の本質をどのように教えていますか?

3) イエス様が光である、というのはどういう意味ですか?