2006/12/31 メッセージ
ディズニーランドに住みたいか?
−クリスマスの喜びと現実とのギャップ マタイ2:13-18
今日取り上げた聖書の箇所は、喜ばしいクリスマスの出来事の直後に起こった悲劇が記されています。
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。(13-15)
さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」(16-18)
クリスマスの礼拝ではあまり読まれることのないテキストです。この出来事を取り上げているのは福音書記者の中でもマタイ一人だけです。楽しいクリスマスの印象に水をさすような話ですが、このテキストは、神様が私たちをどのようなものとして造られたのか、どのような世界に生かされているか、どのような働きに召されているかをあきらかにしてくれます。
またこのテキストは聖書の信頼性を証している場所でもあります。聖書が人の手による宗教の宣伝文書なら、イエス様の誕生にけちがつくようなことは書かないほうがよかったのです。しかし聖書は人間の小さな思惑を超えた神様の言葉であることがよくわかります。
A. なぜ神様は悪意の人と痛ましい犠牲者の存在を許すのか?
1) 事態は悪くなっているのか?良くなっているのか?
私達の心にふと浮かんでくることは、神様はなぜ喜ばしいクリスマスの直後にこのような痛ましい出来事が起こることをお許しになったのか?ということです。このことで神様に怒りを覚える人もいるでしょう。神様が全能なら、なぜこのようなことをお許しになるのか?それはいつの時代においても起こる恐ろしい出来事についての疑問です。人はこのような災いに会うとき「神も仏もあるものか」といって嘆くのです。
年の暮れになると一年を振り返って、今年の印象に残った主要なニュースランキングが発表されたりします。皆さんは明るいニュースの印象と暗いニュースの印象と今年はどちらが多く心をしめているでしょうか?現代では、多くの人は時代がだんだん悪くなってゆくという印象を持っていますが、世界は本当に悪い方向に進んでいるのでしょうか?それとも反対にだんだんよくなっているのでしょうか?それともその他に答えがあるのでしょうか?
ある人々は戦争の頻発、愛が冷え切っている世界を見て終末は近いと預言します。恐ろしい出来事はいつの時代にもありました、理不尽にも命を奪われた人はどの時代にも例外なくいたのです。人は社会を長いスパンで見ることが出来ませんから、その時々の印象で、世界は良くなりつつある、あるいは悪くなりつつあると決めてしまいます。しかし事はそれほど単純ではありません。
ただこれだけははっきりと言えることが出来ます。イエス様が永遠の希望をもたらされた。イエス様が来られなければ、どこに希望を見出せるのか?ということです。世界が良い方向に進んでいるのか、悪い方向に進んでいるのかは、何を基準にして測るかによって結論は反対になります。世界は単純に進化したり退化したりするものではありません。しかし、それが何時かは誰にもわかりませんが、目に見えるこの世界に終わりが来ることは確実です。確かな保証のないこの世界ではもちろんのこと、この世界が滅びても、自分の命が尽きても、変わることのない「永遠の命=神様と共に歩む平安」を与えるためにイエス様は来てくださいました。
2) 神様は不公平な方か?
とはいえ、イエス様が来られたとたんに、大きな悲劇が起こったというのはショッキングな事です。イエス様の誕生が原因となって多くの子供が殺されてしまったというのです。神様を信じたくない人、イエス様を主と受け入れたくない人にとっては、背を向け続けるための良い口実となるような出来事かもしれません。そのような人々からよく問われることは「全能の神様というのなら、なぜ世界をこのような悲惨な状態のままにしておくのか?ご自身が来られることで虐殺が起るなら、なぜ敢えて来られたのか?」ということです。あなたはこの問いにどう答えますか?
ここに私たちが用意しておくべき二つの答えがあります。第一に、悲惨の原因は神様に背き続ける人間の罪にあるということです。クリスマスのあとに起きた悲劇は、救い主の誕生を自分の王座を脅かす王の誕生と誤解したヘロデ王の心の中から生まれたのです。人が自分の罪から離れようとしない限り、イエス様が来られようと、来られまいと悲劇は起ります。罪から離れようとしない全ての人の罪が影響しあって、世界を罪の闇で覆っているからです。神様は良い世界をお造りになりました。人間を罪深い存在としてお造りになったわけでもありません。むしろご自身の似姿として、意思ある者として造られたのです。そしてその意思で罪を選び取ったのは私たちのほうです。
神様を受け入れたくない人は、「それではなぜ悲劇のない世界を保つために、罪のないものとして人を創造されなかったのか?」と問うでしょう。二つ目の答えは、その疑問に答えるものです。神様は世界をそのようにお造りになることも出来たでしょう。しかしそれは人間を、ロボットのような意思のないものとしてつくるという事を意味しています。
あなたは子供の頃にディズニーランドのような遊園地に住みたいと思ったことはありませんか?今はどう思いますか?もしディズニーランドが年間パスポートと無制限の食事券と休むための小さな部屋を提供してくれるとしたらディズニーランドの住人になりたいでしょうか?そこでは一日中楽しく遊んでいることができます。犯罪者もいなければ酔っ払いもいない。掃除をしてくれる専門のスタッフがいてゴミ一つ落ちていないきれいなところです。働く必要もなく、飢え渇く心配もないとしたら・・・・
ディズニーランドは神様が造られたわけではありませんが人工的な悲劇のない世界です。機械だけではなく多くの人々が働いています。彼らがそこにいる目的はゲストを快適に楽しませるためで、それぞれ役割のマニュアルがきっちり決められていて、それ以外の事をすることはできません。いつも笑顔で優しく親切ですが、それはいわば、そう演じているのであって、あなたを愛していてくれるわけではありません。自由な意思のない世界には、憎しみや争いもない代わりに、本当の愛の関係も存在しません。そんなところには誰も長く住めはしません。
あなたは神様に自分の意志を取り上げてもらいたいですか?そうすれば、人は良いことだけをするロボットとして生きることはできますが、苦しみも悩みもないかわりに、愛することもない存在となる事を意味しています。神様はご自身の遊園地をお造りになったのではなく、それぞれの意志を働かせて愛し合うことのできる者、善を選び取ることのできる者として人を造られ、世界を私たちに委ねられたのです。
B. 私たちに神様が期待しておられる働き(イザヤ書60章1-5節)
イエス様が夜明け前の闇に輝く星のようにご自身を表されたのは、ただご自身が輝き人生の道標になるためだけの理由ではありません。イザヤ書の60章を読みましょう。
起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。 国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。 目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。 そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。(イザヤ60:1-5)
1) 罪人に神様を紹介する働き
光を放てと書かれていますが、私たち自身は光ではありません。主の栄光、恵み、憐れみ、いやしを受けて輝くことです。クリスマスのイルミネーションがイエス様を象徴していると先週お話ししましたが、私たちクリスチャンはイエス様の光を浴びて輝く存在なのです。主の栄光、恵み、憐れみ、いやしの素晴らしさを伝え、神様に立ち帰る事を勧めるために輝いているのです。私たちがするべき事は説得でも洗脳でもありません。あかしすることです。時が良くても悪くても、いただいた恵みを感謝し、私の輝きの源である主を指し示すことです。あなたのあかしにふれた人の中には、それによって自分の意志で主に従う人が起こされるでしょう。明日からはじまる新しい年も、神様の大きな恵みを宣べ伝えてゆきましょう。
2) 人の罪のために苦しめられている人のための働き
私たちの働きは、神様を信じなさいと勧めることだけではありません。いただいた主の栄光は、見せることだけではなく用いることも出来るのです。私たちは、苦しんでいる人、悲しんでいる人に、いただいた恵みを惜しみなく与えることが出来ます。神様は見返りを求めずに、一方的に私たちに与えてくださった方です。悪魔は人の罪に付け込み、今も変わらず不幸を撒き散らしています。私たちはそれを見て嘆いたり、神様に文句を言っている暇はありません。悪と罪に対して憤り、時間と労力と財を捧げて、傷ついた心と体を主の愛で癒し、強め、永遠の神の国の希望をあたえることに全力を尽くします。さあ、新しい年も皆さんがイエス様の大使として、与えられた務めを忠実に果たすことが祈りましょう
メッセージのポイント
喜ばしいクリスマスの出来事の直後に起った悲劇は、神様が私たちをどのようなものとして造られたのか、どのような世界に生かされているか、どのような働きに召されているかをあきらかにしてくれます。神様は私たちに神の似姿として世界を正しく治めるという使命を与えられました。私たちがこの使命を果たすために、他の被造物と異なり、意思を持つものとして造ってくださいました。神様は私たちを、季節ごとに花を咲かせ、実を実らせる植物や、無邪気な鳥たちのように、悪いことは決してしないようにお造りになることも出来たのです。しかし、それでは意思を持たないロボットと同じで世界を治めることはできません。人に意思を与えることは神様にとっては大きな冒険です。なぜなら意思があるということは、神様に背を向けるという選択も可能だからです。クリスチャンは、神様に従って正しく歩もうと決意をした者です。私たちはこの意思を人々に伝える働き、罪のために苦しみを受けている人々を助ける働きに召されているのです。
話し合いのために
1) 事態は悪くなっているのでしょうか、それても良くなっているのでしょうか?
2) 神様は不公平という人にあなたはどう答えますか?