1/7/2007メッセージ 
狂気の世のなかで正気で生きる マルコ 5:1-20

一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。(1-4)

汚れた霊、悪霊にとりつかれた人をイエス様や弟子たちが解放したことを聖書は記しています。悪霊の追い出しや癒しについて考える時、二つの間違った両極端に陥らないことが大切です。

一つの極端は、悪霊の存在を認めないことです。確かに当時に比べれば、心の病は研究され、当時の人々が素朴に「悪い霊に憑かれた」と考えていたことの多くが、精神医学で説明される病理であることが分かっています。しかしそれは悪霊が存在しないこと、人に悪い影響を及ぼさないことを意味しているわけではありません。サタンが人の罪に付け込み悪霊を働かせて、人々を不幸な状態に縛り付けていることを否定することは、決して科学的な考えではなく、神様を信じないという(逆の意味での)信仰です。悪霊など存在しないと思い込ませることほど、サタンや悪霊にとって都合のいいことはありません。ひとがその存在を認めないなら、悪霊は自分たちが不幸の原因だと知られずに、影響を与え続けることが出来るからです。

もう一つの極端は、悪霊の存在を意識しすぎることです。何でも悪霊のせいにして、悪霊の追い出しをしなければならないと考えてしまうような考え方です。ドアのノブを回しても、なかなかあかないような時でさえ、「イエス様の御名によって命ずる。悪霊、離れ去れ」。物に向かってそれをやっているぶんには、変わった人と思われるだけで済みますが、人に対して「あなたには悪いものが憑いている。追い出さなければ」と言うことは間違っています。

そこで私たちのとるべき態度は、悪霊に対して絶対的な神様の権威の下にある者としての態度です。悪霊の働きがあるという事を認めながらも、神様の勝利を疑わず、起きている事を冷静に吟味します。たいていの場合は、悪霊の追い出しが必要なケースではありません。むしろ医学的なケアや牧会的なケアが重要な場合がほとんどなのです。

サタンは悪霊を派遣して、人間の営みのどんなことにも影響を与えたいと考えていますが、悪霊は「とりついて暴れる」ことよりもっとスマートな方法を好みます。悪霊が最も得意とする方法は、人に互いに傷付けあわせることです。大量虐殺兵器を試してみたくてウズウズしている権力者の心に付け込んで実行させ、多くの市民の命を奪ったり、「民族の純化」といったようなスローガンに酔わせて、他の民族を虐殺させたりします。この個所で悪霊が男に取り憑いているように、本質的には同じように今でも働き続けています。

狂気は、神にそむき続けることによって人間が陥るひとつの典型的な状態です。神様に心を開かない人々の心にサタンは付け込み、配下の悪霊に支配させるのです。狂っているとしか思えない犯罪や騒乱が起るのは、多くの人がいまだに自分の心をサタンの自由にさせているからです。すべての原因は罪にあります。

A. 神にそむき続けるという狂気

1) 人を傷つけ怖がらせ自分をも傷つける狂気(1-5)

彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。(5)

イスラエルの当時の墓場は横穴でしたから、墓ということさえ気にしなければ、寒さや雨をしのぐには良い場所だったのです。彼は本来の自分を見失い、狂気に支配されていました。人を恐れさせたり、迷惑をかけたりしていただけでなく、自分自身をも傷つけていました。狂気はその人自身を無意識のうちに傷つけてしまいます。私たちが多くの事件に際して思わされることは、そんな事をしたら他人ばかりではなく自分もひどく傷つけることになるだろうに、何の得があってそんな事をするのだろう、ということです。人も大事に出来ない、自分も大事に出来ない、その原因を聖書は「神様を大事にしない」ことにあると教えます。神様を大事にしない、それは罪の本質です。神様を信じたくない教育者や親は、「神様を大事にする」ということはスルーしてどうしたら「人を大事にこども」「自分を大事にする子供」を育てることが出来るだろうか?と考え、なかなかそう出来ない事をお互いに、学校や家庭の、また法律のせいだと責任をなすりあいますが、一番大切なところをスルーしていては決して問題は解決できません。

2) 苦しんでいるのにそこから離れられない狂気(6-13)

イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。(6-8)

そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。(9-10)

ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。(11-13)

日本は、これほど神様の助けを必要としているのに、世界中で最も神様の助けを求めようとしない民族のようにおもわれるのは私だけでしょうか?このテキストは、この国の精神状況をよく表しています。それは依存性のあるドラッグの虜になってしまう人の状態によく似ています。そのまま続けていれば何の問題解決もないどころか自分の体をもボロボロにしてしまうのは明白なのに、目先の快楽を諦めることができなくなっている状態です。

現代の狂気は巧妙です。決して墓場の男のような錯乱状態ではないのです。私たちの周りには、一見、何の問題もなく普通に暮らしている人々の心を狂気が支配したとしか思えない出来事が起こります。どうしたらこの社会は正気を取り戻せるのでしょうか?また、私たちが気付くべき正気とは何なのでしょうか?それは、表面的には普通に社会生活が営めるといった程度のものでないことは確かです。聖書によれば、狂気を引き起こす悪霊や悪霊を操るサタンが活動できるのは、その働きを許す人の罪があるからです。イエス様は悪魔の誘惑をきっぱりと退けられました(マタイ4:1-11, マルコ1:12-13ルカ4:1-13)。私たちはできませんでした。私たちは皆、生まれながらに罪人で、サタンの誘惑に負けてしまった経験を持っています。そこで私たちが正気に返ることの出来るたった一つの方法はイエス様を信じ従うことです。

B. 狂気の中で正気に返った人

1) 狂気の中ではむしろ正気の人が敬遠される(14-17)

豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。(14-17)

悪霊たちに取り憑かれた人が解放され、彼が正気になった時、人々はそれを見て喜んだり、神様をほめたたえたりではなく、「恐ろしくなった」という点に注目しましょう。なぜ彼らはイエス様のなさったことを喜ばず、恐れて、悪霊にではなくイエス様に、その地方から出て行ってくださいと言い出したのでしょうか?人の心に働き続けたいサタンにとって、悪霊を追い出されることほど困ることはありません。そのためサタンは人々の心に中に、自分が有利になれるような偽情報を植えつけるのです。

罪人である人間にとって、イエス様を信じる決心をするということは、人生の歩みを180度転換させることです。サタンは、その変化を躍起になって災いだと信じ込ませようとします。身近な人にこの大変化が起る時に、キリスト教についての誤解や偏見で、人は恐ろしくなってしまうのです。「迫害される教えはすべて正しい」というのは間違いですが、「正しい教えが迫害を受ける」ことは確かです。この迫害は、人々を誤解させ、混乱させ、恐れさせるサタンの戦略に載せられた人間によって起こされます。

2) この世界ではたすべき私たちの役割(18-20)

イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。(18-20)

周りの人々とは反対に、正気を取り戻した男は、イエス様について行きたいと願いました。しかし、イエス様は彼に別の歩みをする事を命じました。聖書は、彼がなぜついて行きたいと願ったのかについては明かにしていません。ただ純粋にイエス様の弟子になりたいと思ったのかも知れません。あるいは人々の反応を見てこの地方には居辛いと思ったのかもしれません。いずれにしてもイエス様の答えは彼の期待を裏切るものでした。それは「神様によってサタンの手から解放された私たちクリスチャンの最も基本的な役割を果たしなさい」というものでした。神様が自分にして下さった大きな恵みを、<自分の身近な人々に>伝えること、がわたしたちの基本的な役割です。この役割を与えられていないクリスチャンはひとりもいません。牧師になる者も、宣教師になる者も必要です。しかしイエス様を伝えるのは、牧師でも宣教師でもありません。彼らの仕事は、みなさんが身近な人に伝えられるように整える責任を果たすことです。

メッセージのポイント

狂気は、神にそむき続けることによって人間が陥るひとつの典型的な状態です。神様に心を開かない人々の心にサタンは付け込み、配下の悪霊に支配させるのです。狂っているとしか思えない犯罪や騒乱が起るのは、多くの人がいまだに自分の心をサタンの自由にさせているからです。すべての原因は罪にあります。人が、この罪に気付いて正気を取り戻しイエス様に従って正しく歩もうとする時、他の人々から思わぬ抵抗に合うことがあります。神様に人々の心を向けさせたくないサタンが人々の無意識の内に働いてその人を神様の近づけまいと妨害するのです。神様によってサタンの手から解放された私たちの基本的な役割は、神様が自分にして下さった大きな恵みを、<自分の身近な人々に>伝えることです。

話し合いのために

1) なぜ人々は、悪霊を追放したイエス様に町から出て行ってほしいと願ったのでしょうか?

2) 神様があなたに与えておられる基本的任務は何ですか?