2007/1/21 メッセージ
知識は人を高ぶらせ、愛は造り上げる
コリントの信徒への手紙1 8:1-13
A. 偶像の本質
1) 偶像の本質は虚無
始めに1‐3節を読みましょう
偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。(1-3)
そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。 現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。(4-6)
このパウロの手紙はコリントの教会の人々の疑問に答える形で書かれています。コリントは神話で知られるギリシャの都市です。コリントも日本の都市同様に、様々な神が祭られていました。始まったばかりのコリントの教会には、「偶像礼拝やそれに関する物事についてどう考えたらいいのか」という問題とそれに伴う混乱があったのです。表面的には、偶像に供えられた物を食べる、食べないといった問題だったのですが、問題の本質は、コリントの教会で影響力を持つ人々の中に「知識を重んじ愛を軽んじる」人が存在していた、ということだったのです。かれらは、神様についての自分の知識を誇っていました。そして確かに彼らの知識は正しいものでした。偶像自体は人の手によって作られたもので、神様に対抗するような力のある、霊的な存在ではありません。偶像自体には何の実体も本質もないのです。彼らはそのことを知っていたので、偶像に備えたものを食べても良いのかいけないのか、問題にする必要もない、そんなことを心配する人は愚かだと思っていたのです。
2) 文字通りの偶像より厄介な現代の偶像
この偶像に供えられた肉の問題は、偶像礼拝それ自体の問題ではありませが、まず偶像礼拝の危険についてお話しします、そして後半で「知識と愛」の問題についてお話します。
偶像礼拝の問題は私達の社会にもあります。むしろ現代のほうが深刻かもしれません。
偶像礼拝とは、「神様だけを礼拝する」という戒めにそむく罪です。皆さんはそれが形式的なことを指しているわけではないということをご存知だと思います。「私は神社仏閣に行き偶像を拝まないから偶像礼拝の罪を犯してはいない」とはいえません。目に見える、木や石の像を全て取り除いたとしても、偶像礼拝の危険はなくなるわけではないのです。神様よりも人間関係、神様よりもお金、神様よりも、仕事、趣味を大切にすることが偶像礼拝の本質です。実際のところ、自分は偶像礼拝には関わっていないつもり、神様に仕えているつもりで、それ以外のものに仕えているクリスチャンはたくさんいます。
また、自分は偶像礼拝を注意深く避けていると自負している人の中には、偶像礼拝を形式的に避けることを重要に考え、人にもそれを強いる人がいます。神社仏閣には入ってはいけない、異教のお葬式には出ないようにしなさい。家のお墓が仏教式なら、死んだ時にそこに入れられないように遺言を書きなさい。家の仏壇や神棚に水や花を添えるのがあなたの仕事だったとしても、クリスチャンになったらそれは拒否しなさい。日本の教会は福音の素晴しさによって多くの人をイエス様に導きました。しかし、それらの福音の本質とは関係ないこと命じて、受ける必要のない迫害を招き、少なくはない「キリスト教嫌い」を生み出してしまったことも事実です。それはイエス様がもっとも嫌われた律法主義で人を裁くことにほかなりません。
さてここまで、偶像礼拝を形式的に避けることの誤りについて話してきましたが、後半では、形式だからといって軽く見てはいけないという、ここまでとは矛盾するように思われることをお話したいと思います。「偶像にとらわれない」ということと「偶像礼拝に関連することに気を使う」というのは、対立する相容れない態度のように思えますが、イエス様が教えてくださったもっとも大切な教え=愛すること、「神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する(大切にする)」ということを基準として考えるなら、どちらも神様の愛を表すために必要な大切なことだと言うことがわかります。
B. 愛が振る舞いの基準
1) 知識は人を高ぶらせ、愛は造り上げる
それでは残りの部分を読みます
しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。(7-9)
知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。 そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。(10-12)
それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。(13)
私の家にメシアニックジュー(ユダヤ人でイエス様を救い主と信じ、クリスチャンになってもその律法を守るべきだと考えている人々)の方をお招きしたことがあります。その時私たちは、今まで考えたことのないコーシャフード(ユダヤ人のための律法にかなった清い食事)を用意するために、よく考える必要がありました。私達が何も考えないで食べている物の中には、ユダヤ人が食べてはいけないとされているものが沢山あります。私達は新約聖書の伝統に従って、何も考えずに自分達の食べられるものを出して、「どうぞ食べられるものだけ食べてください。私たちは、どれもかまわず食べますから」と言うことも出来たでしょう。でも彼が食べられるものだけを出し、一緒にそれを楽しみました。それが彼にとってこの訪問と会食を快適なものにするのに相応しい方法だと思ったからです。お招きした私たちにとっては、一番食べたい好物のない物足りない食事であったとしても、「愛」という基準からすれば、それが正しい態度です。
偶像礼拝はいけないということを、狭い視野で追及すると律法的に人を裁くことになってしまいますが、律法に対して繊細な心をもって避けている人に、食べることを強いるなら、その人は後で後悔の念で悩むか、反対に偶像礼拝に対する警戒心を一気に解いてしまい、形式的に守ることをしなくなるばかりか、神様に背を向けてしまう−実質的な偶像礼拝に陥ってしまうことになるかもしれません。
ここで弱いと表現されているような人々は、律法的に人を裁くためではなく、神様を愛しているがゆえに形式的なこともしっかりと守るべきだと考えている人々です。このような人々の信仰のあり方を尊重しなければ、キリストの体は分裂し一つではなくなってしまいます。
2) W.W.J.D.のためにW.W.P.F.
この国では、様々な宗教的儀式に触れる機会が多いので、自分がどのような態度でそこに臨めばいいのか、その時その時、判断しなければなりません。判断の具体的な基準は、多くの場合聖書にはっきり書かれているわけではありません。人に意見を聴くことは出来ますが、誰の答であれ正しいとは限りません。同じ問題であっても、聞かれた人によって答は違っています。もっと迷ってしまいます。そこで思い起こすべきことは、「主の愛」という基準です。別の言い方をすれば、イエス様ならここで、どうなさるだろうか?(What Would Jesus Do?)ということです。そして、それを行うのです。それは神様に対しても、自分の良心に対しても正しいことです。そこで、どうしたらWWJDのセンスを磨くことができるかという事ですが、それはW.W.P.F.(礼拝・御言葉・祈り・交わり)を大切にするということです。500年前キリスト教会は大きな転換期を迎えました。マルティンルターやジャンカルバンなどの指導者の名前で知られる宗教改革です。教会は1500年の歴史の中で構造疲労に陥っていました。聖書の言葉自体より教会の伝統が重んじられ、庶民にとって神様との交わりは聖職者の仲介をとおしてしか出来ず、神様は遠い存在になっていました。宗教改革の功績はクリスチャン一人一人が直接、神様を礼拝し、自分で聖書を読み、自分で祈り、他の全てのクリスチャンと対等な交わりをもてるようになったことです。これはクリスチャン一人一人に与えられている特権であり、責任です。教会の頭はイエス様です。牧師ではありません。牧師、指導者はキリストの体の一つの機能に過ぎません。牧師の言葉は絶対ではありません。教会が御心にかなって進んでいるのかどうか?一人一人がよりよく知ることが出来るように、いつも心から礼拝をささげ、聖書に親しみ、よく祈り、ミニチャーチを大切にして下さい。
メッセージのポイント
偶像自体は人の手によって作られたもので、神様に対抗するような力のある、霊的な存在ではありません。だから、私たちが生活の中で直面する事にいちいち、それは偶像礼拝に関連してはいないかと気に病む必要はないのです。ただ私たちの周りには、このことがとても気になりできるだけ避けたいと思っているクリスチャンや、クリスチャンは偶像にはけっして近づかないと考えているクリスチャンではない方もいるのです。そのような人の前であからさまに、偶像とそれに関連する物事に注意を払わずに行動するなら彼らを傷つけてしまうかもしれません。それが正しい事であっても、瑣末な事で意地を張るのはクリスチャンとして大人気ないことです。心には確信がないのに、あなたに付き合ってしまい、あとで悩んでしまうようなことを強いてはいけません。
話し合いのヒント
1) あなたはどのような偶像礼拝に関する問題に直面したことがありますか?
2) なぜ実際には存在しない偶像とそれに関連する問題を注意深く取り扱うべきなのですか?