2007/2/4 メッセージ

その日は必ずやってくる イザヤ11:11-16(シリーズ14)

A. 私たちにとってその日とは?(11-12)

その日が来れば、主は再び御手を下して/御自分の民の残りの者を買い戻される。彼らはアッシリア、エジプト、上エジプト、クシュ、エラム、シンアル、ハマト、海沿いの国々などに残されていた者である。 主は諸国の民に向かって旗印を掲げ/地の四方の果てから/イスラエルの追放されていた者を引き寄せ/ユダの散らされていた者を集められる。(11-12)

1) 現代の残りの民

残りの民とは、イスラエル民族の神様に対する不信仰によって国が滅亡した結果、捕虜として、奴隷として、難民として国外に散らされた人々のことです。彼らは、困難の中で、むしろ国内の民よりも神様に信頼をおき、回復を待ち望んでいました。

イザヤはそのような回復が神様によってなされると預言しているわけです。この預言はいつ成就したのか?と考える時に、私たちと旧約聖書を共有するユダヤ教と、新約聖書も聖書として信じるクリスチャンとのあいだに決定的な違いを知ることになります。

ユダヤ人にとっては、文字通り海外に散らされた民が国に帰ってくるという預言として、受け止めてこられました。民族の歴史の中で何度かその成就と思われる事を見てきました。バビロニアからの捕囚の帰還、現代のシオニズム運動などです。しかしそのたびに更なる問題が持ちあがり、完了したとは言い難い状態です。イザヤは神様が全世界に対する計画をお持ちであることを知っていましたが、その言葉の表現は当時彼の生きた時代、文化、地域の制限を受けていることは仕方ありません。しかし、新約聖書は旧約のイザヤのこの預言が、単に一つの民族に対する預言ではなく、神様に立ち返るべき全ての人間に対する希望の約束である事を明らかにしてくれたのです。つまり、クリスチャンにとっては、この預言はイエス様の登場によって現実となったのです。少数のユダヤ人より、むしろ圧倒的に多くの異邦人がイエスキリストの下に呼び帰された事を、私たちはこの預言の成就と信じているのです。イエス様によってこの働きは2000年前に始まりましたが、まだ私たちにとっても完了してはいません。イエス様が約束に従って再臨されることがまだなのは、神様の救いの計画のリストに載っている人が、世界に残されているからです。

私たち教会は、世界中に残されている現代の残りの者たちの帰還のミニストリーを続けているのです。

2) 神様が人々を買い戻す?

1節に、「主はご自分の民の残りの者を買い戻される」 と書かれています。何で元々ご自身の民なのに代価を払って買い戻さなければならないのでしょうか?神様が私たちを誰かに売り渡してしまわれたわけではありません。アダムとエヴァの物語が象徴しているように、私たちが自分自身をサタンに売り渡してしまったのです。すべての人が造ってくださった神様に従うのではなく、自分の欲望に従って生きる者、神様に背いている存在、つまり聖書で言うところの「罪人」として生まれるのです。奴隷制度の下で、奴隷夫婦の子供が自動的に両親の所有者の所有となるように、私たちは皆罪の奴隷として生まれてきたのです。神様はその代価として御子イエスキリストの命を十字架で支払われたのです。先ほど、この預言の成就が「始まった」といったのは、この支払いがなされたということです。 もちろんその救いの計画のリストは私たちが持っているわけではありませんから、私たちは誰にでもイエス様を紹介します。私たちの方で勝手に、この人は救われそうにないとあきらめてはいけないのです。

B. 神様の与える平和

1) 地上の権威が与えることの出来ない平和

エフライムのねたみは取り去られ/ユダの敵意は断たれる。エフライムはユダをねたまず/ユダはエフライムに敵対しない。 彼らは、西のペリシテを側面から襲い/共に、東の民を略奪する。彼らはエドムとモアブを支配し/アンモンの人々を服従させる。 主はエジプトの海の入り江を干上がらせ/御手を大河の上に振って、強風を起こし/それを打って七つの流れとし/サンダルのまま渡れるようにされる。(13-15)

これを文字通り読めば、神様は好戦的な方だと誤解をしてしまいます。しかし私たちは神様が地上のすべての民を造られ、愛しておられる方だということを知っています。新しい契約の民である私たちは旧約聖書の表現を新約のコンテキストで読み解かなければなりません。神様は、どの国の民族主義にも肩入れなさる方ではありません。もしすべての人が神様に従っているなら、神様の造られたこの世界には敵はいないはずです。人の罪が敵を作り争いが起こります。ここに書かれていることは、神様だけが真の平和をもたらすことのできる方だということです。私たちをねたみや敵意から解放できるのは、罪の力を打ち砕く力を持った神様だけなのです。しかし、この真の平和について考えるにつけ、目の前の現実がそこから何と遠いのか、という思いに打ち負かされそうになってしまうのではないでしょうか?それでも決してあきらめてはいけません。神様はこのような世の中であるからこそ私たちが使命を果たす事を願っておられます。

2) ユアチャーチは神様のもとに立ち帰るハイウェイになろう

私たちの役割は、出口のない迷路のような人々の生活の現状のなかに、神の国へと続くハイウェイとなり、その入り口を出来るだけわかりやすいところに建設して人々を招き入れることです。

エジプトの地から上った日に/イスラエルのために備えられたように/アッシリアに残されていた/この民の残りの者にも、広い道が備えられる。(16)

言うまでもなく、人が神様のところに帰る道は、御自身を「道・真理・命」と教えられたイエス様以外にはありません。そして、教会はこの世界におけるキリストの体です。つまり、教会はこの社会の中の目に見える「神様につながる道」なのです。広い道とは、そこを多くの様々な人々が通ることができるということです。出来るだけ多くの人が来られるようにオープンな場所になりたいと思います。

また、道はそれ自体が動いて人々を運ぶものではなく、その上を一人一人が歩くもの。広い道には車線が沢山あって一人一人は自分に相応しいスピードで安全に、成長してゆくことが出来るものです。みんなで楽しめるプログラムも必要ですが、もっと大切なことは、みんなが成長してゆける場であることです。肉体の成長は20代で止まり、そこからは老化の一途だそうですが、心の成長、魂の成長は永遠に続きます。ここにいる全ての人は主にあって成長を続けることができるのです。

メッセージのポイント

旧約の預言者イザヤの預言はイエス様が地上に来てくださって最終段階を迎えました。しかしまだ完了したわけではありません。イエス様の救いの働きは今もなお続いているのです。この働きは世の終わるときまで続けられます。終わる時、それは完成の時です。私たちは伝道の困難さについ悲観的になり、もうクリスチャンになるべき者は皆クリスチャンになってしまったのではないだろうか?これ以上の伝道は無駄ではないのか?と思ってしまうことがありますが、イエス様の働きは依然として続いています。私たちには終わりの時は知らされてはいません。それは最後の最後まで私たちがあきらめずに、宣べ伝えることができるようにとの神様の深い配慮でもあるのです。キャプテンであるイエス様が走り続けているのに、弟子である私たちが時計を気にして戦意を失ってはいけません。

話し合いのヒント

1) 現代における残りの者とは?

2) クリスチャンはどのように平和を実現するのですか?