2007/2/11 メッセージ マルコ5:21-34(シリーズ15)

神様の憐れみ×あなたの信仰=癒し

A. 神様に癒しを求めよう

1) 神様は願いに応えてくださる

神様は私の病をどう思っておられるのだろうか?病を得た者やその家族にとっては、深刻な疑問です。ある人は、その人の罪や問題の結果と考えます。またクリスチャンの中には「自分が病に倒れるのも、神様の意思だから仕方がない」と考える人もいます。しかし今日のテキストのイエス様の態度を見るならば病が神様の意思ではないことが明かです。21-24節です。

イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。(21-24)

「罪によって死が入り込んだ」と、パウロはローマの信徒への手紙5章で述べています。その死の引き金となる「病」についてイザヤは53章で、イエス様が私たちの「病」を負って苦しまれると預言しています。「病」は「罪」と深く関連しています。しかしそれは、その人の罪の報いとして病となったということではないのです。もちろん神様に背いた生活の結果として病気になること、怪我をするという場合もありますが、それは例外的なことです。罪を赦されたクリスチャンも病気をするのです。罪といっても、人類全体の罪、神様に背いた社会の在り方が病を生んでいるのです。それはアダムとエバから始まったことで、人間であれば皆、例外はありません。ですから、一つ一つのかかった病気に霊的な意味付けをすることは意味がありません。神様は何かの罰としてあなたを苦しめるようなお方ではないのです。

イエス様は病のメカニズムを答える代わりに、こう答えられました。

弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネ9:2-3)

神様は、病に限らず、どのような原因であれ苦しんでいる者に深い憐れみをもたれ、解放してやりたいと願っておられるのです。ですからイエス様は、求める者の願いに応えて癒しをなさったのです。私たちに必要なことは、「この癒しが神様の意思だろうか?」と考えることではなく、願い求めることです。癒しを祈っても、結局その病によってその命を終えるということはよくあることです。結果として癒されなかったということもあるのです。しかし、だからといって癒しを求めるべきではないとは聖書のどこにも書いてはありません。私たちは願い求めなければなりません。そうでなければ、癒されるチャンスを逃すことにもなるからです。

2) 罪の世は苦しみを増し加える

さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。(25-26)

この世界に悪の力が間違いなく、働いていることがこの部分で良くわかります。この時代も現代も同じです。「苦しんでいる者が、さらに誰かの欲望の犠牲となって、もっと苦しい目に合う」ということが起るのです。医療が悪だといっているのではありません。しかし医療に携わる者の中には、その仕事の尊い意味を忘れて、沢山儲けて自分の欲望を満たすための仕事にしてしまっている者がいるのです。それは医師だけではありません。宗教家も、政治家も、法律家も、教育者も、あらゆる職業において当てはまることです。職業に貴賎はありません。しかしそれに携わるものの罪が解決されていない限り、苦しんでいる者、弱い立場にいる者が、裕福で社会的地位も高い者から、さらに苦しみを受けることになるのです。誰が彼らを助けることが出来ますか?それはイエス様と彼の弟子の仕事です。私たちの仕事です。クリスチャンは、愛する者、仕える者として、この世界の不正義に立ち向かう者です。

私たちは、聖書の個所は違い、説教者は違っても過去2週間にわたって、同じ大切なメッセージを聞いてきました。今朝もう一度、聞きたいと思います。私たちにとって最も大切な戒めは何ですか?「神様を愛し、隣人を愛すること」です。愛するというのは好きだという感情ではありません。愛することは仕えることです。クリスチャンとは「神様に仕え、互いに仕え合い、この世界に仕える者」なのです。

先週大変興味深い本を読みました。「牧師は教会をあまりにも複雑で判りにくいところにしてしまってはいないだろうか?」という問題が提起されています。ユアチャーチは何のために存在しているのか、みなさんはシンプルに答えられますか?この本は、教会のあるべき姿をイエス様の戒めに見出しています。ユアチャーチはもちろん改善の余地は沢山ありますが、シンプルチャーチだと思います。ユアチャーチ(わたしたち)は神様を愛し互いに愛し合い世界を愛するために、神様に仕え互いに仕え合い世界に仕えるために存在します。そのような者として成長していくために私たちはここで学び、成長してゆきます。愛すること、仕えることは実際にやってみることでしか身につきません。ユアチャーチにバイブルスタディーという集会がないのはその理由です。私たちは礼拝で神様に仕え、ミニチャーチで互いに仕え合い、それ以外の日には人々に、世界に仕えています。私たちの存在理由であると同時にさらに成熟したクリスチャンになるためのOJT、プロセスでもあるのです。

B. 信じてイエス様に近づこう

1) 信仰の原点

人が母の体から生まれ成長するように、クリスチャンも主を信じて新しく生まれ霊的に成長してゆきます。体の病気をすることもあれば、霊的に弱くなる時もあります。そのような時には、たとえ自分の使命を知っていてもそれどころではありませんね。今神様を信じている人が、主のもとに来たのは、どうしようもない罪という病気を自覚したからです。この方なら、自分の根本的な問題を解決して下さると信じたのです。どんな苦しみ、問題でもイエス様のところに持ってくれば、解決が与えられます。そこが信仰の原点です。この女性も、この信仰、イエス様に対する信頼を持っていました。長い間の苦しみで、目に見える財産はなくなっていましたが、イエス様は癒すのにお金やささげものを求める方ではありません。イエス様が求められるのは「信仰」(信頼)だけなのです。27-28節です。

イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。(27-28)

信仰の原点は、罪、十字架、救いという教義ではありません。信仰の原点は「私を助けてください、健康にしてください。」という叫びです。あなたはこの女性と違って、体は申し分なく健康かもしれません。しかしあなたの魂はどうですか?弱く、小さく、苦しんでいる隣人より自分の欲望を満たすことの方が大切に感じられるなら、あなたの魂は癒される必要があります。そのような思いがあってもなかなか実践できないなら、成長させていただく必要があります。

2) 信仰の結果

29節を読みます。

すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。(29)

彼女はイエス様に触れたとたんに、癒されたことを実感しました。はじめにもお話ししたように、残念ながら全ての病が癒されるわけではありません。奇蹟的な癒しを自分でも体験し、多くの人を癒した、あのパウロでさえも癒されなかった経験をしています。癒されなかったのは彼にとって、一番苦しい持病だったようです。しかし、パウロのこのハンディーキャップも、「神様に仕え、人々に仕え、世界に仕える」という彼にとって最も大切な働きを弱めることはありませんでした。

神様はなぜ癒してくださるのか、それはその時のあなたの嘆きに応えることですが、神様の究極の目的はあなたが霊的な健康を取り戻し、愛の人、仕える人として成長させるためなのです。

体の症状は変わらないかもしれません。パウロは、祈り続け、最後には体の症状は無くならないと悟った時、あきらめたのではなく、もっといい答えを得たと納得したのです。そして健康な人以上に、仕える人としての生涯を歩みました。

祈り続けるべきなのです。しかし神様が心の中にもう祈らなくてもいいと語りかけてくださり、もっと別の解決を神様が与えてくださることもあるということです。

どちらにしても神様は、あなたの信仰に応えて、納得の結果を示してくださいます。

C. イエス様のアフターケア

それでは残りの30-34節を読んでゆきましょう

イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(30-34)

1) 癒しに働く神様の意思

イエス様は、彼女の信仰に応える形で癒しを与えました。今回の癒しは普通のイエス様による癒しとは様子が違っています。彼女はイエス様に癒してくださいと願うのではなく、イエス様の衣の房に触れて癒されました。試しに触れてみた、というのではありません。それは言葉でたのむより、もっと強くストレートな彼女の願いの表現でした。イエス様の服に力があったのではありません。イエス様は彼女が触れた瞬間、力が出てゆくことを感じられたと表現されていますが、それはイエス様の意思と関係なしに自然と起こったことではありません。彼女は「いやして下さいという願いを言葉ではなく衣にふれるという行動として表現しました。イエス様も「いやされなさい」という言葉を省いて、彼女の願いに応えたのです。

いやすことは、神様の意志です。しかし神様は、私たちが信仰をもって求める、ということを重視し、求めておられます。だから彼女に「あなたの信仰があなたを救った」とさえおっしゃったのです。私たちも主に求めることがあるなら、彼女のような真剣さと主に対する信頼をもって願い求めましょう。

信仰に応じてという言葉を誤解しないで下さい。ロサゼルスのある教会で説教をたのまれた時、私はいやしについて話しました。会衆の中に、引退された老牧師がいらっしゃいました。彼は大きな聖書事典を著した神学者で私が神学生の頃から、お名前だけは知っていた有名な方でした。この方が礼拝後、私に「私はいやしの祈りはしません。私のためにも祈ってほしくありません」とおっしゃったのです。「もしいやされなければ、私の信仰がたりないということになってしまうから」 と。神学者でさえ誤解してしまいやすいことですが、神様は、信仰の強弱、大小、多少によって、癒やしたり、癒やさなかったりするのではありません。それではパウロも信仰の足りない人ということになってしまいます。もしかしたら、あなたは、症状と一生つきあってゆかなければならないでしょう。でもそれはあなたの信仰がいやされた人に劣るからではありません。それがとり去られるよりもっとよい計画があるからなのです。

2) イエス様が彼女を探し当てて声をかけられた理由

ここで私たちが気付くことは、神様が私たち一人一人の出来事を大切に考えていてくださるということです。この女性は、ただ癒されたことを喜ぶだけではなく、それが確かに神様の恵みによる癒しであることを知る必要がありました。

イエス様は、「いやしたのは私です」と伝えたかったのです。それは感謝してほしいからでも、見返りを求めるためでもありません。ただイエス様こそが、彼女のいやし主、救い主であることを知ってほしかったのです。彼女はいやしを喜んで帰るでしょう。新しい日常生活が始まります。すぐに彼女はやまいのいやしがすべての問題の解決ではなかったことに気付きます。別の病にもなるし、別の問題もやってくるからです。だから彼女は病のいやしよりもっと大切なことを知らなくてはなりませんでした。それを伝えるために彼女を見付け出し語りかけられたのです。それは、イエス様がいやされるだけではなく、信じる者といつも共にいて下さる方でどんな時にも必要に応えて下さる方だということです

メッセージのポイント

癒しは、神様の憐れみとあなたの信仰が出会っておこる奇蹟です。神様の憐れみは分け隔てなくすべての人に注がれています。ポイントは私たちの信仰です。ここで言う信仰とはキリスト教の体系的教理を信じるということではなく、イエス様ならきっと癒してくださるという確信と期待を持つということです。イエス様を知らない人は、イエス様に確信を持つことはできません。しかしその人のためにクリスチャンが代わりに期待し確信して願い求めるなら、主を信じない人の上にも癒しは起ります。<神様の憐れみ×あなたの信仰=癒し>の公式は肉体の癒しに限らず、心の癒し、関係の癒しに適用できます。あなたが求めている癒しを見たいなら、するべきことは唯一つ「信じてイエス様に近づく」ことです。

話し合いのヒント

1) 神様の癒しと人間の医療との関係を考えてみましょう?

2) イエスが言われた「あなたの信仰があなたを救った」とはどういう意味でしょうか?