2007/3/11 メッセージ
奇蹟をおこせ!
マルコ5:35-43 シリーズO

前回のマルコによる福音書シリーズのメッセージを覚えていらっしゃいますか?イエス様がヤイロというユダヤ教の会堂の管理をしていた人の娘の癒しを依頼されて彼の家に向かう途中の道で、長い間病に苦しんでいた女性を癒されたことについてお話ししました。

ところがまだこの女性と話しているうちに、ヤイロの娘は息絶えてしまったのです。ヤイロの気持ちを想像してみてください。イエス様ならきっと癒してくださるだろうと信じて必死にお願いしたら、イエス様は自分の家に一緒に来て手を置いて祈ってくれると、実際に家に向かい始めたのです。「もうこれで大丈夫だ。イエス様が癒してくださる」彼は喜びに包まれ、イエス様を案内して家に向かいます。ところがその道の途中でヤイロにとっては思わぬロスタイムとなる、前回お話した癒しの出来事が起こったのです。そしてやきもきしているうちに、娘は死んだという使いがやってきてしまいました。喜びもつかの間、彼は再び絶望の淵に突き落とされてしまいました。

A. 奇蹟を見られない人、見られる人

1) 絶望しやすくあきらめの早い私たちと、決して絶望なさらないイエス様(35-36)

イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。(35-36)

ここに、人々のあきらめと、それとは対照的なイエス様の態度が見られます。人々は、死んでしまったからには癒しはもう意味はない、死には誰も勝つことは出来ないのだから、イエス様に来ていただく必要はないと告げます。ヤイロは何も言うことが出来ず絶望に打ちひしがれていたようです。そんなヤイロにイエス様は、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。ヤイロはこの言葉に望みを託して、イエス様と共に家に向かって再び歩き始めることが出来たのです。もちろん内心では悪い知らせを受ける前とは違い、気が遠くなりそうなくらいの怖れが彼を襲っていました。しかし彼は他の人々のように、もうお帰り下さいとは言わなかったのです。彼がどんなに絶望的な状態に置かれても傍らにいてくださるイエス様の「恐れることはない。ただ信じなさい」という言葉に頼りました。そして彼は奇蹟を見ることになります。ここに神様の奇蹟を見ることが出来る人と出来ない人の境界線があります。聖書には最後まで神様の言葉を信じてあきらめなかった人が奇蹟を見ることが出来た例が数多く記されています。神様を見たいと思うなら、イエス様の「恐れることはない。ただ信じなさい」ということばをあなたも心に持ち続ける必要があるのです。この言葉はもちろん「自分の願いをイエス様が必ずかなえてくださる」と‘信じる’ということではありません。期待した奇蹟は起こらなかったということだってあるのです。信じるべきなのは「私達の想像を超えて最も良いことを神様はして下さる」ということです。

2) 神様を心から信頼できない私たちと、どんな時でも信頼を求めるイエス様(38-40a)

38-40節を読みましょう。

一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 人々はイエスをあざ笑った。(38-40a)

イエス様が世にこられたのは、肉体の死が全ての終わりではないことを教えるためでもありました。たとえその時に生き返ることがなくても、魂は滅びることなく神の国に迎え入れられるのです。その意味で、人の死は眠りと表現されます、しかし私たちに与えられているのは永遠の眠りではなく永遠の命です。 まだあきらめる必要はない、という意味を込められてイエス様は眠っているとおっしゃったのです。しかし人々はイエス様が、もう確かに死んでいるのに眠っていると言い張っているのだと思いあざ笑ったのです。無理もありません。彼らはイエス様のように考える人に会ったことがなかったのですから。

しかしイエス様はちょっと魅力的な新宗教の教祖でも、預言者でもありません。死に決して勝つことの出来ない被造物ではなく神様ご自身です。イエス様は、ご自身が死に勝つ力を持っておられるだけではなく、私たちを肉体の死という限界から解放してくださいました。もちろんすべての人には神様の定められた、肉体の滅びる時があります。イエス様が死んだ人をよみがえらせるという奇蹟は実際のところ、そう多くはなされませんでした。肉体が滅びることは、私たちの本当の死ではありません。神様が信じる者に与えたのは永遠の命です。肉体の滅びは終わりではなく、第一章の終わり、第二章の始まりなのです。

彼らは、イエス様に病を癒す力くらいはあっても、死者をよみがえらせることはできるわけはないと信じ込んでいました。皆さんはイエス様にどのくらいの信頼をおいていますか。イエス様には出来ないことは何もない。自分に最善を与えてくださると信じていますか?そうであればあなたは奇蹟を見る資格があります。

B. 神様の奇蹟をもたらす人になるために

1) なぜペトロ、ヤコブ、ヨハネだけがついてゆくことを許されたのか?(37)

そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。(37)

イエス様には12人の弟子がいましたが、ペトロ、ヤコブ、ヨハネはその中でも特別な存在でした。このテキストの他にもいくつかの場面でこの3人だけが同行を許されていた事がありました。この3人だけが同行した場面の共通点はイエス様が神様との非常に深い交わりに集中しなければならない状況だったということです。なぜこの3人なのか?イエス様は答えておられません。イエス様に従う前には漁師だった三人は、弟子の中でも特に優れた才能があった人々ではありません。しかし彼らは、他の弟子たちよりももっと純真無垢な信仰を持っていました。それはイエス様に従うのに最も大切なことです。世の中では、人の価値はどれほどの能力があるかで決ります。神の国の価値観はそうではありません。どれほどひたむきに主を愛し、主に従うかがポイントなのです。現代の教会の中にも、この世の能力主義は簡単に入り込んできてしまいます。完全な愛である方を愛し、彼につかえることが出来ること、それだけが私たちの誇れる唯一のものです。自分たちが無学な者であることを全く気にせず。ただまっすぐに主を見つめてついて行く、イエス様はそんな人々を奇蹟の場へと導かれます。

2) 否定的、懐疑的な人を巻き込んではいけない(40b-42)

しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。(40b-42)

神様は、否定的な考え、懐疑的な態度の中では積極的にご自身を現そうとはなさいません。大胆な信仰と、純粋な期待に満ちた場所で神様は奇蹟を起こすのです。この時、この場所にいる資格を持っていたのはイエス様と三人の弟子、そして少女の両親だけでした。イエス様はそれ以外の人々を外に出して、ミニストリーを始められました。教会も同じです。ここが大胆な信仰と期待に満たされてこそ、神様はここに奇蹟を起こされます。皆さんはここのどのような奇蹟が起きることを期待していますか?私は、今まで神様に心を向けなかった人が、ここに来て主に向かって心を開き、神様と隣人と世界に対して、愛する人、仕える人に変えられるという奇蹟を常に期待しています。皆さんの家族が、友人がそうなることを。人は人の心を変えることは出来ません。しかしイエス様に出来ないことは何一つないのです。ここで奇蹟を期待しましょう。

3) 癒しや奇蹟は伝道の手段ではない(43) 

イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。(43)

イエス様が癒しや奇蹟をなさったのは、その人や周りにいる人々に対する愛からでした。神様の愛は、時に人間的な常識を超えて現されるので、私たちはそれを奇蹟と受け止めて喜ぶのです。イエス様はご自身の権威と、彼を心から信じる者たちを用いて奇蹟を起こします。あなたがイエス様と共に歩いているなら、あなたは人々の人生に奇蹟をおこすことが出来るのです。奇蹟とはただの不思議な現象ではありません。奇蹟とは神様の愛によって、人には不可能と思われるような素晴らしい変化を人々の上におこることです。めざましい癒しなどの奇蹟は結果的に人々を集めることになります。しかし奇蹟は決して人を集めるため、自分の名声を高めるための手段ではありません。それが手段となってしまえば、奇蹟はもはや愛ではなくなってしまいます。本質が愛でない奇蹟は神様の奇蹟ではないのです。さあ、あなたも出て行って人々の中に奇蹟を起こしましょう。モーセのように杖を高く掲げて海を二つに分けることが出来なくても、あなたは奇蹟を起こせます。心から愛すること、仕えることによって奇蹟は起るのです。

話し合いのために

1) なぜペトロ、ヤコブ、ヨハネだけがついてゆくことを許されたのでしょうか?

2) なぜイエス様はこの奇蹟を誰にも知らせるなとおっしゃったのでしょうか?