2007/3/18 メッセージ

朽ちない冠を得る 1コリント9:19-27

ギリシャはオリンピックの発祥地です。古代オリンピックは預言者イザヤの時代(紀元前8世紀)から始まり4世紀にローマがキリスト教を国教とした時(4世紀)廃止されるまで4年ごとに開催されていました。使徒言行録の時代のギリシャでは、オリンピックのほかにも3つの大きな運動競技会がありました。その中の一つの競技会が、コリントの郊外でも二年に一度行われていたので、コリントの人々にとって運動競技はとても身近な存在でした。そこでパウロは、このテキストで彼らにクリスチャンの生き方をこの運動競技者にたとえて教えています。私たちはどのような競技を行っているのでしょうか?私たちの人生はマラソンよりもはるかに長いレースです。マラソンと違うのは神の国というゴールはわかっていてもそのコースは知らされておらず、一人一人違っているということです。しかもただ進んでゆくだけではありません。所々で特別な課題が与えられ、それを行いながら進んでゆきます。神様はクリスチャンの参加者には特別の課題を与えておられます。

A. イエス様を紹介しよう−そのためには

1) あなたがその人の奴隷になる (19)

それは、あなたが主と信じたイエス様を紹介するということです。いいかえるなら、あなたが受けた神様の恵みをできるだけ多くの人に伝えなさい、という課題です。この恵みとは、神様が私を愛して下さっているということです。愛を伝えるとはどういうことでしょうか?それは、「神は愛です」と説明する事ではありません。愛は、その人を愛すること、その人に仕えることでしか伝えられません。19節には次のように書かれています。

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。(19)

その人に奴隷のように仕えるというパウロの考えを、あなたは受け入れられますか?

人は生まれながらに自由であり平等であるはずです。誰にも人の自由を奪う権利はありません。けれども、パウロは、自由な者が自由な意志で奴隷となる、そういう自由があることを教えてくれています。奴隷となるといっても、その人の言いなりになるべきだということではありません。献身的に仕える、自分の利得ではなく、その人の益となることを行うということです。あなたが接する、出来るだけ多くの人にそうするのです。

2) その人のようになる (20-22)

パウロは、イエス様を紹介するためにもう一つ重要な事を教えてくれています。20-22節を読んでみましょう。

ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。(20-22)

どんなに献身的に生涯を費やして誰れかの為に良い(と思われる)ことをしてあげても、その人の立場に立ってみなければ、その人の本当のニーズに応えることは出来ません。パウロはここで人種の違い、文化の違い、伝統の違い、性格の違いを上げています。もしその人と自分との間でこれらの違いがあるなら、イエス様を紹介するためには、あなた自身がその人のようにならなければならないというのです。

私たちはイエス様を伝えているつもりで、実は自分の文化・伝統・好みを一緒に押しつけてしまっていないか、どうか吟味してみる必要があります。イエス様を主と信じて従うということとは関係のない事柄まで人に負わせるなら、イエス様が嫌われた律法主義になってしまいます。

その人のようになるということは自分の価値観に固執せず、先入観を持たず接するということです。

B. 悔いのない人生を−そのためには

1)福音のためなら何でもしよう。 (23)

福音とは、イエス様が来て下さったので、彼を主と信じ従う者には、神の国は近いという「よい知らせ」のことです。パウロはこの「よい知らせ」をできるだけ多くの人に伝えることが自分のライフワークだと信じていました。私たちも同じです。そしてこのことは、私たちが神様と人を愛する、神様と人に仕えるというイエス様の与えられた戒めに従うことによって実現します。

福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(23)

福音がまだ届いていない人々のために何でもしてみましょう、とパウロは勧めます。私たちはパウロの勧めに従って創造力を働かせましょう。失敗を恐れずにいろいろな事をやってみましょう。ひとりでも多くの人がイエス様を主と知ることができるように。

2)競争のように真剣に走り抜こう (24-27)

パウロは警告しています。「神様はここまでお話しした三つのことに、私たちがもっと真剣に取り組むことを願っておられる」と。24-27節です。

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。(24-27)

私たちが参加しているレースはもちろん運動競技のように勝利者はたったー人ではありません。私たちは団体競技で悪と死の力に対抗して、戦っています。私たちのキャプテンであるイエス様は、すでに死に勝利してゴールされています。私たちのティームの勝利は確定しています。ティームのー員としてゴールまで走り続けるなら栄冠は約束されているのです。しかし、棄権すれば栄冠を受けることはできません。そこで私たちは勝利の約束されたレースだからといって気を抜くことはできません。できるだけ多くの人がこの勝利に与ることができるように、弱っている者を励まし、道を逸れて行く者に声をかけ、共にゴールできるよう全力で戦うのです。他の教会やクリスチャンと戦っているわけではありませんが、あたかも、すべての人の救いが自分にかかっているかのように、ユアチャーチにかかっているかのように、ゆだねられている働きを求められているのです。

どうしたら、このような働きを担える強いクリスチャンになれるのでしょうか?

もし、あなたがボクシングのチャンピオンになりたいと思ったら、まずどんな行動をとりますか?最初からチャンピオンに挑戦する人はいません。まずはジムに行くでしょう。もちろんすぐに打ち合いなどさせてもらえません。基礎体力と基本的技術を身に付けなければなりません。私たちの霊的な競争の基礎体力と基本技術を身に付ける場所は礼拝です。全身全霊を注ぎ出して、神様に向って歌い、神様の心にふれ、聖書を通して語られる神様の言葉に耳を傾ける、という礼拝体験によって霊的な体力はしっかりついてきます。

けれどもそれで、すぐ試合に出られるわけではありません。トレーナーに受けてもらったり、ジムの仲間と何度もスパーリングをして技をみがきます。ミニチャーチや教会のいろいろなミニストリーのメンバーとなることで実際に愛すること仕えることが身に付くのです。ここまでくれば本当の試合に出ること(世界を愛すること、世界に仕える事)が可能となります。でもまだチャンプと対戦する資格はありません。この先は実戦で成長するしかありません。

働き者の農夫や漁師のように、私たちの霊的な筋肉は、与られている働きの中で鍛えられてゆきます。

こうしてあなたは信仰のチャンピオンへの道をかけあがってゆきます。

強いチャンプは、その強さを保つために、基礎練習に手抜きをしません。タイトルマッチの前にもロードワーフを行い沢山のスパーリングをこなします。世界によく仕えたいなら礼拝と交わりにも力を注ぎ続けなければならないのです。

メッセージのポイント

パウロは、クリスチャンの地上での歩みを競走にたとえていますが、私たちは賞金や賞品を求めて真剣に人生を生きているわけではありません。古代オリンピック競技の勝利者も、栄誉のほかに得たものは、つつましいオリーブの枝で編まれた栄冠だけでした。目に見える冠はどんな材質で出来ていようとやがて朽ち果ててしまうものです。朽ちない冠は目に見えるものではありません。それは「わたしは神様の愛する子供」という栄誉です。この身分に相応しく歩みたいと願うなら、わたしたちは「走りきった後にもらえる何かを期待して」という真剣さではなく、ただイエス様から離れずにしっかりとついて行くという、日々の真剣さが大切です。

話し合いのために

1) 誰かにイエス様を伝えたいと思ったら、あなたはその人にどう接しますか?

2) 朽ちない冠とは何ですか?