2007/3/25 メッセージ
神の国の完成を先取りする信仰
イザヤ書12章(シリーズ15)
新約聖書をよく理解したいなら旧約聖書を学ぶことは不可欠です。同様に、新約聖書も旧約聖書の理解に欠かすことが出来ません。私たちは先週、コリントの信徒への手紙(1)から、「神の国」というゴールに向かうレースの途上にあることを学びました。今朝は月間のスケジュールに従って、イザヤ書の12章を取り上げますが、先週第一コリント9章からお話しした「朽ちない冠を得る」というメッセージと、今日の「神の国の完成を先取りする」という学びは、それぞれ互いの理解に助けになるものです。今週、聖書を読み返すときには、先週の個所も合わせて読んでみてください。さて、私は先週のメッセージを次のように締めくくりました。
『朽ちない冠は目に見えるものではありません。それは「わたしは神様の愛する子供」という栄誉です。この身分に相応しく歩みたいと願うなら、わたしたちは「走りきった後にもらえる何かを期待して」という真剣さではなく、ただイエス様から離れずにしっかりとついて行くという、日々の真剣さが大切です。』
みなさんの中には、「こんな大事な一回勝負の人生なのだから、節制に節制を重ね、苦難に耐えて走りぬきなさい。」そのように受け止めて聞くだけでなんだか疲れてしまった人もいるかもしれません。けれども今日のテキストをあわせて読むならば、先週聞いた人生レースをあせらず楽しく、自分のペースで走るコツを得ることができます。また先週の譬えは、今日のイザヤの預言が、現在の私たちの歩みに対しても大切な預言であることを、わかりやすく理解させてくれるものです。
A. 感謝と信頼
1) 悔改めた者への慰め (1)
その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。 (1)
イザヤは終わりの日を、「その日」という表現で何度も用いています。創世記から始まり、黙示録で終わる聖書は、歴史には始まりがあり終わりがあることをはっきりと教えています。私たちの一生に比べればその長さはあまりにも永いので、「世界の終わり」ということは考えにくいかもしれませんが、今世界が抱えている環境問題や政治経済の状況は、終末を身近なものに感じさせます。地球の温度がもっと上がることになれば、今地球上に存在する兵器を集中的に使ってしまうなら、少なくともこの星は終わりです。科学はビッグバンと名付ける世界の終わりを考えますが、それはこの星や太陽系のみならず宇宙全体の規模のもので、それこそ何もかもなくなってしまう時です。
ところが聖書は、終わりが来るとはっきり宣言してはいても、世界の終わりは決して「全ての終わり」ではないと教えてくれます。聖書の見方では、終末は「神の国の完成」だからです。私たちの目に見えるこの世界で、人間がどんなにひどい過ちを犯し、破壊を重ね、平和に背を向けても、神様は希望を提供することをおやめにはなりません。造り主に背を向け、欲望の赴くままに生きるという、その愚かさ、その罪に気付く人々を、滅びから救い出すために、歴史のただなかにご自身を投げ込んでくださいました、イエスという一人の人として。この時世界に「その日」は始まりました
このことを通して、神様は私達に、希望を与えてくださっています。現在の苦しみ、悲惨は最後の滅びの予告編です。創られた者が創り主にそむき続けるなら、終末は滅びの時です。しかし、私たちが心の向きを変えるなら、神の国の完成と共にそこに入れるだけではなく、今、不満は感謝に、不安は平安に、どんな困難の中でも慰めを得ることができます。クリスチャンの歩みは真剣なもので、また困難が伴うものであると同時に、それは神様からの慰め、喜び、ユーモアに満ちた道程でもあるのです。
2)信頼と平安の根拠(2-3)
心の向きを神様に向けるなら、神様がどのようなお方であるかということをもっとよく知ることが出来ます。神様の存在に全く気付かない人、信じない人は神様を全く知りません。神様の存在に気付きながら背を向けている人の中には様々な神様についての誤解があります。神様は恐ろしく、また意地悪な方。あるいは自分に対して無力な役に立たない存在。人間が、必要なときだけ呼び出して何かを頼む存在・・・・・。ここには、信じて従うものにとって神様がどのような存在であるかが記されています。
見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。(2-3)
神様こそがあなたの生きる力の泉。心に歌がわきあがるほどの喜びの泉。行くあてを知らない迷子のように自分に、自分の人生に意味を見出せないでいる人に生きる意味、目的を与え、導き続けてくださる方。それがあなたの信じている神様。あなたが知るべき神様です。この泉は、他の人と奪い合いをしなければならないほど限られている地上の資源とは異なり、決して朽ちることのない泉です。イザヤの預言は、イエス様が来られたことによって実現しています。まだ完成してはいないけれども、彼を信じる者のただなかには、もう既にこの泉はあるのです。
B. 宣教と譛美
1)人々に主を告げ知らせよう(4-5)
その日には、あなたたちは言うであろう。「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し/気高い御名を告げ知らせよ。主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ。(4-5)
私たちは、いわば神の国のセールスパーソンです。誰にとっても必要なもの、素晴らしいもの。文句のつけようのない素晴らしい恵みを紹介しています。しかも自分で手に入れて見て100%満足しているものです。普通なら、誰もが奪うようにして、あなたから受け取ろうとするはずです。なぜ人はもっと積極的に受け取ろうとしないのか?それは非常に高価だからです。どんなお金持ちでも、持っているお金では十分ではありません。神様は、「あなたが『私のもの』と思っている全てを差し出して、この恵みを買い求めなさい」とおっしゃっています。誰もが自由を求めます。本当はこの『私のもの』がその人の自由を奪っているのですが、おおくの『私のもの』から自由になりたいとは思わないのです。
だから私たちは声を上げなければなりません。パウロがそうしたように、ひとりでも多くの人を振り向かせるために。一人でも多くの人が、神様との契約書にサインするように。
町を歩くと、高額な商品を買わせるために、あるいは怪しい宗教に取り込むために、人々に誘いの声をかけている人々を見かけます。騙したり、脅したり、洗脳したりすることによって、何かにコミットするサインを何とかさせようとがんばっています。
私たちは、そんなやり方をまねる必要はありません。神の国は、言葉で説得して受け取ってもらうものではないのです。まして騙して、脅して洗脳しても与えることは出来ません。私たちができることは、誠実な証言です。言葉を飾ること、大袈裟な言い回しは必要ありません。ただ与えられた恵みを、喜びを、今度はあなたが<与えることによって>伝えるのです。
2)声の限りにほめ歌え(6)
シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。」(6)
神様は私たちのただなかにおられます。「教会の交わりの中に住む者よ」と、私たちはこの一節を読み替えて受け取ります。主は私たちの中に、ここに臨在しておられる。この喜びの表現、叫び声を上げ、心から喜び歌う礼拝の中に主は住まわれるのです。主はもちろん、いつもあなたと共におられます。しかし神さまは、週の始めの日に、人々が一つに集い、神の国の宴会に私たちを招き共に楽しむことにしようとお決めになったのです。日曜日の礼拝は、私たちが神様に招かれている宴会なのです。ここでは何の遠慮もいりません。思い切り歌い、叫び、聞いて楽しむことが、生きる大きな力となるのです。
メッセージのポイント
神の国は近づきましたが、私たちはまだ完成を見てはいません。私たち自身も道の途上にあります。それでも私たちは「その日」を仰ぎ見つつ、感謝と信頼、宣教と讃美を先取りして歩み続けます。
話し合いのために
1)神の国の完成を先取りする信仰の4つの要素とは?
2) 直接的にはユダとエルサレムについてのこの預言を、なぜ私たちは自身のこととして受けとめるのですか?