2007/4/1受難週メッセージ
「最後の晩餐から聖餐式へ」
ルカ22:14-20, 1コリント11:23-26, 1ヨハネ5:6-8
私たちは聖餐式を第一日曜の礼拝前に行っています。聖餐式の起源は受難の直前の過越の食事の中でイエス様が、パンとワインを弟子たちに分け与えた出来事です。旧約の過越とイエス様の受難と聖餐式の間には私たちが知っておくべき深い関連があります。今年はちょうど受難週の日曜日に聖餐式を行うことができました。今日のメッセージは、受難と聖餐についてのより深い理解と、過越・聖餐・受難の関連を知ることの助けとなります。
A. イエス様は何のために最後の晩餐をなさったのか?(ルカ22:14-20)
時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
受難と聖餐について知るために、それらが過越と呼ばれたユダヤ教の祭りの時にあったという事から考えてゆきましょう。過越はユダヤ人にとって重要な祭りの一つです。出エジプトの出来事をおぼえて神様に感謝する祭りで、その出来事にちなんで酵母の入っていないパンを食べることから除酵祭とも呼ばれます。出エジプト記12章に、その記念すべき出来事が記録されています。神様が民をエジプトから導き出す時、頑なにユダヤ人を解放しようとしないエジプトに、多くの災いが起こりました。神様はユダヤの民に、傷のない1才の雄羊を屠り、その血を家の門に塗ることを命じられました。ユダヤ人の家の門に塗られた子羊の血のしるしによって、エジプトを襲った災いは、そのしるしのあるユダヤ人の家を過ぎ越していきました。それが過越の名前の由来です。神様はこの出来事をやがてなされるキリストの血による完全な犠牲の前触れとして表されました。十字架の出来事は、すべての人のための過越の最終形、完成形として表されたのです。それは動物の犠牲ではなく、ご自身の苦しみとして表されました。神様御自身が人として歩まれ,すべての人の犠牲となって命を与えられました。今週はイースター前の一週間、受難週と呼ばれるときです。イエス様の受難を深く心に思いながら過ごすときです。エジプトのユダヤ人は家の門の柱や鴨居に子羊の血を塗ることによって難を逃れました。私たちは、十字架の上でなされたイエス様の尊い犠牲によって罪を赦された者です。そこから逸れて行ってしまわない様に、いつも自身の新しい命の原点を確認するために、聖餐を守りつづけるのです。最初の聖餐式である最後の晩餐を、このことを弟子たちにしっかりと伝えるために十字架の出来事の前になさったのです。そして、再臨の時まで行い続けるように命じられました。
それでは、私たちが十字架の原点からそれずに、まっすぐに歩んでゆけるようにとイエス様が定められた聖餐の意味を三つに分けて理解してみましょう。イエス様はこれらのことを伝えるために、聖餐を制定されたのです。
1) 十字架という惨い事件の本当の意味を伝えるため
イエス様が聖餐に込められた願いの第一は、私たちが十字架という惨い事件の本当の意味を知ってほしいという事でした。つまりそれは、私たちが流された血、裂かれた体が自分の罪の赦しのためであったと信じることです。一人一人の罪の赦しの根拠はここにあります。神様の家族、子供たちとして生かされている根拠はここにあるのです。私たちは、イエス様の教えを道徳的守ることで赦されているのではありません。癒しをして下さるとか、経済的に祝福してくださる方だと信じるから神の子供とされているわけでもありません。ただイエス様が神様だと信じることでは足りないのです。私たちが信じるべきことは、イエス様御自身が私たちの罪の赦しのために血を流され、肉を裂かれ、命さえ失うことを惜しまれなかったということです。私たちは、私のために流された血、裂かれた体をおぼえて聖餐に預かります。それはクリスチャンが生涯、自分の原点である十字架の意味を心に留め、まだそれに気付いていない人々のために伝え続けるためです。
2) 教会とは何かを教えるため
イエス様が伝えたかった第二のことは、<教会>という十字架後のご自身の在り方についてです。十字架の出来事のあともイエス様は教会として、信じる者たちと共におられます。教会が『キリストの体』といわれる所以です。私たちは聖餐に与るとき、自分がキリストの体<教会>の一部として生かされていること、イエスキリストの目に見える体の一部であることを自覚するのです。それは、共同体の中で守られていること(聖い交わり)、この社会の中でクリスチャンが力をあわせてイエス様の働きを行い続けるということの根拠です。
3) 私たちとは誰か?を教えるため
イエス様の聖餐にこめられた第三の願いは、私たちが今どのような者として生かされているかを知ってほしいということです。それは、まだ主の戦いが続いているこの世の歩みの中で、血を流し体が裂けるような労苦もいとわないという生き方の決意です。その決意を、聖餐に与るごとに新たにしてほしいということなのです。私たちはあの出来事で、新しい命を与えられただけではなく、キリストと共に十字架につけられ苦しむ者でもあるのです。イエス様は 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(マタイ11:28‐30)といわれただけではなく自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。(マタイ10:38‐39)ともいわれたことを忘れてはいけません。聖餐に与るとき、私たちは、あの十字架で流された主の血、裂かれた体が、聖餐の時に私たちの内に注がれ、満たされたものであることを知ります。それはまた、私たちの内に働く聖霊の存在を確信させ、私達を神様のために労苦をいとわない者に変えるのです。
B. 聖餐の大切さ(1ヨハネ5:6-8,1コリント11:23-26)
1) たった二つの儀式のうちの一つ
キリスト教会、特に私たちがその流れを汲むプロテスタントと呼ばれる教会の特色のひとつは、シンプルで儀式が少ないことです。礼典(サクラメント)と呼ばれる、イエス様自身が命じられたことによって続けられている儀式は、この聖餐と洗礼だけなのです。バプテスマと聖餐は共に、聖霊の働きと切り離しては考えられないことをヨハネは教えてくれています。
この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。 証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています。(1ヨハネ5:6-8)
イエス様御自身がその地上での働きを始めるに当たって、バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けられました。その時に聖霊が目に見える形でイエス様に下ったと、四人の福音書の記者のすべてがあかししています。バプテスマはご自身にとっても、その地上での最後の3年間を宣教者としての新しい生き方を始めるに当たっての出発点でした。それは私たちにとっても、同じように新しい命の始まりを意味しています。そしてこの生き方を続けてゆくためには聖霊の助けが欠かせないのです。
血は十字架の出来事を指しています。イエス様の働きの中心であり、私たちの救いの原点です。しかしこのことを信じ受け入れるためにも聖霊の助けが必要なのです。
2) 記念としてとはどういうことか?
わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(1コリント11:23-26)
記念としてという日本語では、あまりうまくニュアンスが伝わりません。何か過去の出来事を思い出して感謝する、程度のことでしかないように感じられるかもしれません。しかし聖餐は、現在と未来にも関わる大切な時です。このことを忘れるなら、聖餐に与るということが形式的なことになってしまい、そこで得られるはずの恵みを受け取ることができません。聖餐の時、パンとワインはイエス様の血と体に変化するのだという神秘的な考えは誤りですが、決して単なるシンボルでもありません。私たちが聖餐に与る時に,聖霊がそこで働かれ、イエス様の血と体は実際にパンとワインを口にする私たちに与えられるのです。私たちは過去、イエス様の十字架により、神様との関係が修復(過去)されました。私たちは現在、キリストの体の中に置かれています。そして、私たちは未来に向かって、イエス様の血と肉を持つ者として、神の国の完成に向かって歩めます。聖霊は毎回の聖餐において、これらの過去、現在、未来にかかわる保証を与えてくださるのです。
3) クリスチャンであることと、メンバーであること
私たちは尊いイエス様の十字架の死により新しく生かされた者です。それが私たちがおぼえるべき第一のことです。しかしそれはイエス様が私たちに自覚してほしいと願っている三つのなかの一つに過ぎないということを前半でお話ししました。それだけを信じているとしたら、イエス様が与えてくださっている特権と義務を受け取ってはいないことになります。「罪赦された、救われた」だけで満足してはいけません。クリスチャンは主の働き人として地上に置かれている者です。なすべき働きを行う責任があります。この責任を果たすために、クリスチャンは、世にたった一つ置かれた目に見えない教会にだけ属していれば良いのではなく、実際のクリスチャンの集まりである各地におかれた教会に生きた枝として連なっている必要があるのです。十字架は、私たちが外に比べようのない愛で愛されていることを現しています。この愛は私たちに揺らぐことのない平安を与えてくれます。しかし心の平安を得ることは人生のゴールではありません。 むしろ新しい歩みの出発点です。新しい歩み、それはキリストの体の一つとして、互いに愛し合いながら世にキリストの愛と正義を表してゆくという歩みです
メッセージのポイント
聖餐はイエス様が私たちに、守るように命じられた数少ない儀式の一つです。ここに神様がイエス様を通して、私たちに与えてくださった恵みのエッセンスがあります。パンやワインは決して単なるシンボルではありません。これらをいただくことが、実際に体の一部であること、流された血によって赦されていることを保証するのです。2000年前にイエス様が苦しみ死なれた十字架の出来事と21世紀に生きている私たちが確かにつながっているという、目に見える事実が聖餐式です。キリストの恵みに与る者はキリストの苦しみにも与る者でもあるのです。キリストの体、教会は、今も神の国の完成に向かって、ご自身を与えるために肉がさけるような苦しみにも甘んじ、罪を清めるために血を流し続けています。
話し合いのために
1) なぜ聖餐式は洗礼式と並ぶほどに重要なこととして守るように伝えられているのですか?
2) クリスチャンであるということと教会のメンバーであるということとは違いますか?