2007/4/15 メッセージ マルコによる福音書6章1-6節 シリーズP

イエス様がナザレで敬われなかったように 

イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。(1-2)

この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。(3)

イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。(4)

そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。(5)

そして、人々の不信仰に驚かれた。(6a)

野球やサッカーのティームならホームゲームの方がアウエーより戦いやすいものですが。イエス様にとってはそうではなかったようです。それは私たちが、神様の働きをするときも同じです。なぜイエス様にとって、また私たちにとって、ホームゲームは戦いにくいのでしょうか?

1) イエス様は故郷でも同じように振舞われた(1-2)

イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。(1-2)

イエス様は各地で神の国の福音を宣べ伝え、癒しと奇跡を行い、人々に大きな衝撃を与えました。生まれ故郷ナザレでも同じようになさろうとしましたが、そこでは目覚ましい働きをすることはできませんでした。イエス様は地元だからと手を抜いたのではありません。イエス様が安息日に会堂で教え始めたとき、人々はびっくりしました。今までに聞いたことのないような知恵と力にあふれた言葉だったからです。またその手で奇跡がおこったからです。しかし、故郷の人々は、イエス様の権威ある言葉を聞き、奇跡をみても、素直に喜ぶことができませんでした。彼らは聖霊に満たされる前のイエス様の少年時代、青年時代を知っていたからです。3節を読んでみましょう。

2) 偏見が人を見る目を曇らせる(3)

この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。

人々は、イエス様の言葉を聞き、奇跡をみて信じるべきでした。しかし彼らは見るところを間違っていました。このように、その人の過去の行いとか、家柄とか、表面的な部分を見て、本質を見誤ることを「偏見」といいます。イエス様は王宮に生まれたのでも、立派な学者や宗教家の家に生まれたのでもありませんでした。その村の、おそらく母子家庭に育った青年を、民族の新しい霊的なリーダーとは認められなかったのです。

3) 人があなたにつまずく理由(4)

4節を読みます

イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。

人々は、イエス様の言葉を聞き、奇跡をみて信じるべきでした。しかし彼らは見るところを間違っていました。このように、その人の過去の行いとか、家柄とか、表面的な部分を見て、本質を見誤ることを「偏見」といいます。イエス様は王宮に生まれたのでも、立派な学者や宗教家の家に生まれたのでもありませんでした。その村の、おそらく母子家庭に育った青年を、民族の新しい霊的なリーダーとは認められなかったのです。私たちのなかにも、身近な人々に福音を伝えるということが困難だと感じている人がおられるのではないでしょうか?両親、家族、夫、妻、それに比べれば子供はまだ伝えやすいかもしれません。彼らはイエス様を信じる前のあなたをよく知っていて、そんな風(どんな風?)だった自分が伝えるのだから、簡単に信じてくれないだろうと諦めてしまっているのでしょうか?それどころか、もっとまずいケースで「信じる前も後も生活態度がほとんど変わらない私が、新しい人生なんていっても誰も信じてくれない」と絶望している人もいるかもしれません。人々は、あなたの指し示すイエス様ではなく、あなた自身を見てしまいがちなのです。それはイエス様を信じたことによってどんなに劇的に変えられても避け

ることはできません。そして、私たちの方も、そのような人々の反応を恐れて、いつの間にか立派なクリスチャンとしての自分を見せなければならないと思ってしまいます。しかし忘れてはいけません。私たちは、自分ではなくイエス様をさししめすために用いられているのです。私たちはいわば器です。パウロが自身を土の器と表現していますが、イエス様は私たちがどんな器であっても用いて下さり、御自身をそこから表わして下さいます。

4) 不信仰がもたらすもの (5)

そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。

ナザレはイエス様にとって地理的にはホームタウンでも霊的にはアウエーでした。イエス様はどのようなところでも癒しや奇跡を起こすことはお出来になるでしょう。しかし前回とりあげた少女を生き返らせた奇蹟について学んだように、期待と信頼のないところでは、無理に癒しや奇跡を起こすことをなさいません。イエス様にとって、癒しや奇跡は人を驚かせ、賞賛を得るためのショーではありませんでした。それは動機がどのようなものであれ真剣に神様に求める者のための、恵みであり、神様は確かにあなたと共におられるというしるしなのです。残念ながら、故郷ナザレでは、家族・親類の中には、イエス様に対する期待も信頼もほとんど見られなかったのです。

5) この困難の中で私たちが出来ること(6a)

それでは最後の6節前半を読んで、私たちの霊的アウエーでの戦い方を考えてみましょう。 

そして、人々の不信仰に驚かれた。

イエス様が驚くほどの不信仰に支配された雰囲気の中に、私たちもおかれることがあります。イエス様は、十字架に至るまで、家族の理解を得ることは出来ませんでした。しかし、母マリアも兄弟も、イエス様の十字架と復活を通して、自分の息子、兄弟を主と信じることが出来、初代教会の中心的な役割を担いました。私たちがすべきことは、人々に無理やり宗教的転向を迫ることではなく、その人が神様の愛と憐れみにより、主を知ることが出来るように祈り、期待して祈り続けること。どんな反応が返ってこようと私たちが神様にいただいた愛で愛し続けることです。あなたのいろいろな面を知っているだけに、時には残酷な言葉、傷つける言葉を聞かせられることにもなるでしょう。しかし、私たちがそこで居丈高になるのも、反対に卑屈になるのも、イエス様の願いではありません。イエス様は、その不信仰に驚かれましたが、いつものように普通に振る舞われました。私たちなら、そこを避けて近づかないとか、逆にひどく力が入ってしまって、反発を受けたりもするでしょう。

イエス様はナザレを避けることもなさらず、そこで重点的に働こうともなさいませんでした。

私たちは皆、完成途上のクリスチャンです。その時、その時、背のびすることも、うしろ向きになることもなく、人にではなく、神様に期待してゆきましょう。

メッセージのポイント

様々な偏見が人を見る目を曇らせます。イエス様でさえ、郷里では預言者としての尊敬を得ることは出来ませんでした。子供の頃からのイエス様を知っている村人たちにとっては、メッセージによって、奇蹟によって、特別な人だと直感しても、素直に聞くことが出来なかったのです。

あなたのことを、特にクリスチャンになる前のあなたや子供の頃のあなたを知っている人に対して、イエス様を伝えるとき、あなたはイエス様が受けられたと同じ偏見の目にさらされることになります。 

 イエス様は、十字架に至るまで、家族の理解を得ることは出来ませんでした。しかし、母マリアも兄弟も、イエス様の十字架と復活を通して、自分の息子、兄弟を主と信じることが出来、初代教会の中心的な役割を担いました。

私たちがすべきことは、人々に無理やり宗教的転向を迫ることではなく、その人が神様の愛と憐れみにより、主を知ることが出来るように祈り、期待して祈り続けること。どんな反応が返ってこようと私たちが神様にいただいた愛で愛し続けることです。

話し合いのために

1) なぜイエス様の故郷ナザレでは奇蹟がほとんどなされなかったのですか?

2) このことは、私たちの宣教にどのようなヒントを与えてくれますか?