2007/4/22 メッセージ コリントの信徒への第一の手紙10:1-22 シリーズP

あなたも危ない!偶像礼拝

A. 神の民が陥る偶像礼拝

1) 偶像礼拝が恵まれた民を悲劇の民に転落させる (7-10)

兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。(1-4)

私たちと同様にコリントの教会の多くの人々は民族としてはモーセの民ではありません。しかしイエス様は、何人であろうと彼に従う者こそ、真の神の民であるということを保証しています。そしてクリスチャンはどの民族に属していようと、ここに書かれていることを、自分の事と重ねて読むことが出来ます。私たちは、それぞれに神様から遠く離れたエジプト(苦難の地)から救い出され、イエス様と共に旅立ったのです。しかしイスラエルの民がすぐに約束の地に入ることが出来なかったように、私たちもまたすぐに天国に入るわけではありません。私たちの地上での歩みは、イスラエルの民の荒野の40年のようなものです。イエス様は、私たちが信じる事によって安楽な道程や物質的繁栄を約束して下さったわけではありません。そうではなく、約束の国に迎え入れられるまで、共に歩んで下さる事を約束して下さったのです。4節に書かれているように、私たちの人生の旅では、どんな困難な時にも、必要な糧、水が保障されているということなのです。ところが神の民は、インマヌエル(ともにおられる)である神様を信頼できなかったことが次の部分で明らかにされています。

しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。(5-6)

なんと、神の民の大部分は、そのことが理解できず、荒野の歩みに幻滅し、ただ自分の欲望を満たしてくれそうな偶像を拝んだり、そのような偶像礼拝に伴うみだらな行いを楽しみとしたりし、神様や指導者には文句を言って神様に背を向けてしまいました。私たちが同じ過ちを犯さないように、7節から10節まで、彼らの行った悪と、その結果招いた悲劇が記されています。

彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。(7-10)

私たちが心に留めなければならないのは、それが神の民に起ったという事です。彼らは偶像を礼拝することとして祝宴を開き、踊り狂ったのです。また、淫らな行い、キリストを試みたこと、神様に対して不平を言ったことが記されていますが、いずれも神様に仕えず他のものに仕えるという、偶像礼拝の精神の表れだったのです。

2) 神様に対して誠実に生きる者に用意されている「逃れる道」(11-13)

皆さんの中には、今まで話を聞いてきて、自分は何て厳しい道を歩んでいるのだろうと、今さらのように気付かれた方もいらしやるかもしれませんが、イエス様も予告しておられたことでした。(ヨハネ16:33)

これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(11-13)

イエス様は楽な道を歩ませるために、あなたを招いたのではありません。神の国の働き人として招かれたのです。働きには、喜びや楽しみだけではなく、苦しみや悲しみも伴うのです。しかし、そこには常に神様の慰めがあり、すべてを益と変えて下さる神様が、すべてのことを通して、あなたの愛を成長させて下さいます。

B. 偶像礼拝は

1) 神様との関係を壊す (14-18)

それでは、パウロの警告の続きを読んでゆきましょう。14-18節です。

わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。(14-18)

偶像礼拝を避けなければならないのは、それがあなたと神様との関係を破壊するからです。私たちは同時に二人の主人に仕えることは出来ません。神様を信じていると言いながら神様に信頼をせず他に寄り頼むことが偶像礼拝です。私たちが聖餐に与るとき、私たちはそれぞれ自らの心をさぐるべきです。私はイエス様の他に何かを、あるいは誰かを「主」としていないだろうかと。それがどのようなものであれ、そのような心は、主の血、主の体にふさわしくありません。私たちにとって、偶像に供えられた物を食べるとは、仏段や神棚に供えられた物をいただくということだけを意味しているのではありません。他の何かに寄り頼み、そこから利益を得ようするなら、偶像への供えものを食べていることです。これでは、決して神様と親しい関係を保つことは出来ません。困難の時の、本当の出口も見つけ出すことも出来ません。

2) 偶像の背後にひそむ悪霊 (19-22)

偶像それ自体に意味や力などないことは、2000年前の人々も知っていました。パウロは石や木など人の手で造られた意味のない物を拝むのは無意味なだけではなく、実際には悪霊を拝むことになると警告しています。19-22節を読みましょう。

わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。 (19-22)

私たちが神様ではないものに心を寄せるということは、実はその背後に働く悪霊に、ひいては悪霊をあやつって、人々を神様の祝福から引き離し、滅びの中に転落させることを企むサタンに心を許すことになってしまいます。油断をしないで、日々心を新たにして真の神様にだけ仕える人になりましょう。

メッセージのポイント

偶像礼拝の本質は本当の神様に仕えることをせず、自分の欲望に仕えることです。それは実際の像を拝まないとか、それらに捧げられたものを食べない、というようなことではありません。神様を知らない人が偶像を拝むのは当然ですが、クリスチャンを自認していても、目に見える偶像を避けていても偶像礼拝者となってしまう危険は大きいのです。パウロはここで、旧約聖書に書かれている、神の民イスラエルに与えられた祝福とそこからの転落を、私たちクリスチャン(直接にはコリントの人々)に対する警告として受け取るよう勧めています。偶像礼拝の誘惑に負けず、ただ主を見上げて歩むことは容易なことではありません。サタンがそれを阻止するために、あなたを試みることを神様は許されているからです。けれども神様はサタンに、あなたが耐えられないような試練を与えることを許してはいません。だから、思いがけない試練に遭っても主から目を離さずに、正しい道を歩み続けましょう。

話し合いのために

1) あなたにとって偶像になりそうな危険なものは何ですか?

2) どのようにして、偶像礼拝から身を守ることができますか?