2007/6/17 メッセージ 1コリント11:2-16 シリーズ19

聖書は神の言葉?人の言葉?それとも・・・・

-聖書の言葉を正しく受け取るために知っておくべきこと

A. コリントの問題に対する的確な指示 (2-10, 14-16) 

あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。 ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。 男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。 女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。 女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。 男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。 というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。 だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。(2-10)

男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。 この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。(14-16)

1) 背景にあった混乱

コリントの教会は混乱していました。守られるべき秩序が守られず、与えられている自由の意味を履き違えている人々が絶えず問題を起こしていました。聖霊の働きが豊かな教会だっただけに、その精神的な、霊的な開放感は行き過ぎをおこしていたようです。そしてその中に女性が問題を起こすケースがいくつかあったのです。当時の社会は、現代よりずっと女性の地位が低くかったのです。イエスキリストの教えは、女性を隷属状態から解放するものでもありました。コリントの女性たちはこの自由を得ましたが、それまでがあまりにも地位が低かったので、その反動として教会の秩序を壊すような出来事になってしまいました。パウロはこの事態を収拾するためにこのように書いているのです。コリントの教会にはその教会の文化がありました。それはコリントの教会があったギリシャ社会の文化、ユダヤ教の背景からの文化などからの影響を受けて出来上がったものです。それはまだ十分に男性中心文化でした。イエス様の教えは「誰でも神の下に平等」です。しかし、もしコリントの教会が、当時の規範をすべて破棄して21世紀型の教会になってしまったら、コリントでは教会は反社会的なものとみなされてしまうでしょう。パウロ自身がどれほど自覚していたかはわかりませんが、教会はひとつの社会文化時代に存在している限り、発展途上の不完全なものであることを認めなければならないのです。教会は神の国の理想を追い続けて進みますが、終末の時まではそれを見ることはできません。教会は確かに率先して社会を変えてゆくものです。しかし、乱暴にそれをするなら、人々はついてくることができません。パウロはその時代のコリントの教会にとって、益になるのはどういうあり方かを考えて、こんな風にブレーキをかけたわけです。

2) クリスチャンであっても文化や時代を超えて共有できない価値観がある

「聖書は文字通り読まなければいけません」とよく言われます。勝手な解釈をしてはいけませんという警告です。しかし、それは実際には不可能です。言葉(文字)はその時代、文化の制約を受けることを避けられないものだからです。聖書のある部分を文字通り読むなら、他の部分と整合しないことが必ず出てきます。それは聖書が長い時間にわたって、また様々な文化の背景で記されたものだからです。今の私たちの時代とも違います。また私たちは同時代のクリスチャンであっても文化的な背景によってずいぶん違った受け取り方をしているのです。

 パウロがここでコリントの教会に具体的に教えているように私たちもするべきなのでしょうか?14章にはもっと驚くべきことが書いてあります。「女性は教会では発言してはならない、質問してもいけない、聞きたいことがあれば家に帰って夫に聞きなさい。」 それは間違っていると誰もが思うでしょう。かぶりものについても現代の教会に適用する必要はないと誰もが思うでしょう。文化の問題は微妙です。とらわれ過ぎてもいけないし、無視することもできません。クリスチャンがクリスチャンの文化と思っていることでも信仰の本質ではないことはいくらでもあります。

 日本人には、くちづけの挨拶の習慣はありません。しかし、ローマでもコリントでも口づけの挨拶をしなさいと勧められています。現代の多くの地域でもくちづけの挨拶の習慣があります。それでは日本人もそれに従わなければ聖書の教えに反するということになるのでしょうか?日本人の挨拶は、頭を下げるお辞儀です。TPOによって角度も使い分けなければなりません。ちゃんとお辞儀ができなければ一人前の大人ではありません。でもこの習慣のない人にはそれが偶像礼拝的に見えてしまうのです

 女性の地位の問題は、今でも解決してはいません。教会の中ででもそうです。たとえば、女性が牧師になれるかということは、今でも教会によって意見が分かれるところです。ちなみに私はまったく問題はないと思っています。

文化の問題は、信仰の本質ではありません。しかし、クリスチャンは愛という基準から文化の制約の下に、自ら進んで身を置くことができる特権を与えられています。

B. あらゆる時代、文化で普遍的な真理 (11-13)

いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。 それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。 自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。(11-13)

1) 神の下の平等

11節と12節が時代や文化に左右されない真理であることは、誰もが同意できることでしょう。パウロが発言の根拠としたのは創世記2章ですが、それは単に創造の順番を形容しているだけで、創世記には男女の優劣を言っている箇所はどこにも見出すことはできません。むしろ聖書は、神の下に人は性別や人種、階級などによって差別してはならないことを多くの箇所で教えています。

聖書の中には、この11-12節のように何の説明なしにすっと心の中に入ってくる箇所もたくさんあります。聖書全体は、そのような箇所を手がかりとして正しく解釈しなければ、自分勝手な解釈で自分の考えをあたかも聖書の教える真理のように、人に押し付けることになってしまいます。

2) 聖書を読むということは解釈すること (13)

私たちは、聖書が誤りのない神様の言葉だと信じています。しかしそれと同時に、聖書はその時代の人の言葉で書かれていることも事実です。そこで私たちが心掛けなければならないのは、文字通り読もうとすることではなく、できるだけ正しく解釈することです。それが人の言葉で書かれた聖書から、普遍的な神様の言葉を受け取るために最善の方法です。ある時代のある地域で書かれた言葉を、今自分のおかれているコンテキストのなかで「神様の言葉」としてどう受け取るか、その作業を解釈といいます。正しくといっても私たちは不完全です。だから教派教団によって、異なった解釈がなされます。クリスチャン一人一人、微妙に受け取り方が異なるのです。皆不完全なのですから仕方ありません。それはもちろんみんなで自分勝手な解釈をすればいいということではありません。ただ自分の解釈だけが絶対と思わず、謙虚に他の解釈に耳を傾け、より聖書の真理に近づけるように努めることです。

メッセージのポイント

「聖書は文字通り読まなければいけません」とよく言われます。勝手な解釈をしてはいけませんという警告です。しかし、それは実際には不可能です。言葉(文字)はその時代、文化の制約を受けることを避けられないものだからです。聖書のある部分を文字通り読むなら、他の部分と整合しないことが必ず出てきます。それは聖書が長い時間にわたって、また様々な文化の背景で記されたものだからです。今の私たちの時代とも違います。また私たちは同時代のクリスチャンであっても文化的な背景によってずいぶん違った受け取り方をしているのです。私たちが心掛けなければならないのは、文字通り読もうとすることではなく、できるだけ正しく解釈することです。それが人の言葉で書かれた聖書から、普遍的な神様の言葉を受け取るために最善の方法です。

話し合いのために

1) なぜ聖書を文字通りに読んでは不都合なことがでてくるのでしょうか?

2) パウロのコリントの人々への教えから私たちが受け取るべきことは?