2007/7/8 メッセージ
神様に向かって歌い続けよう
多くの教会ではキリスト教の礼拝の中心は神様の言の説教だと教えられています。私の卒業した神学校では、4年間の学びの総まとめとして、最終学年で説教学を学びました。それがすべての神学の集大成だと考えられているからです。しかし、なぜ歌うのか?どのように歌うのかを学ぶことはありませんでした。現代のほとんどの教会は歌うことの意味を深く考えて来ませんでした。しかしそれは教会にとって大きな損失でした。私たちが主に向って正しく歌うときに得られる大きな恵みを得られずに来てしまったからです。主に向って歌うことは説教と同等に礼拝に欠かすことのできない重要なことなのです。私はこのことを知らずに牧師になりました。私が牧師として仕えた最初の教会は神学的に正しく、聖霊の賜物にもオープンで新しく生れてくる歌を積極的にとり入れる教会ですらありましたが、私は何かが足りないと思い始めたのです。何が足りないのか答えを与えてくれたのはヴィンヤードという当時はじまったばかりの教会の牧師やワーシップリーダーたちでした。それまでの教会はどれも、主に向って歌うことを賛美すると表現していましたがヴィンヤードでは礼拝すると表現したのです。礼拝は賛美することを含む、より広い概念です。私たちのなすべき大切な礼拝それ自体として歌い始めた時、神様とのより深い交わりがそこで可能となり、ヴィンヤードの群は神様からの大きな恵みを受け急速に成長しています。たった30年ほどの間に、アメリカ全土、ヨーロッパ、オセアニアに数千の教会ができました。こんな事は教会の歴史上、他に例を見ることができません。それまでの教会が見逃してきたものがいかに大きかったか、ということを表わしています。ですから私は教えられた恵みをみなさんに伝える義務があります。繰り返し、お話ししてきたことですが、いつの間にかまだお話ししていない人が多くいらっしゃるようになったので、今朝このことを取り上げることにしました。
A. なぜ歌うのか?
1) 感謝・賛美・願い(出エジプト記15:1-2、詩編40:13-14)
モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。 主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。(出エジプト記15:1-2)
これは聖書に初めて記録された、人々が神様に向かって歌の最初の部分です。エジプトの軍勢に海辺に追いつめられた時、神様は海の水を分け逃れる道を造られ、さらに追って来た軍勢は海に飲み込まれてしまいました。イスラエルの民はこの時の感謝と賛美を今でも歌い続けています。詩編40編には神様に対する様々な思いが込められています。私たちはただ賛美だけではなく、感謝、願い、嘆きといった思いのすべてを歌うことができるのです。
悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ/何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く/わたしは心挫けています。主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。(詩編40:13-14)
感謝も賛美も願いも祈ればいいのではないか、と思うかもしれません。しかし神様は歌声をお聞きになりたいのです。特に、私たちが集まり心を合わせてささげる礼拝では、歌うことによって、より正直に、率直に、そして豊かに神様に向かって表現をすることができるので す。そのような礼拝では、私たちも主が共におられて私たちのささげる礼拝を喜んで下さることを実感できます。この体験が礼拝をより豊かにしてゆきます。
2) 礼拝の最も大切な要素の一つ (コロサイ3:16)
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。(コロサイ3:16)
新約聖書も礼拝のあり方について多く触れています。ここでもキリストの言葉を豊かにいただくこととともに、私たちが歌うことを強く勧められています。私たちは普通メッセージの前に歌いますが、それは決してメッセージを聞くための準備運動ではありません。ワーシップは日曜礼拝の中で、'刺身のツマ'のようなものではないのです。
B. どのように歌うのか?
私たちは主に向かって正しく歌わなければなりません。それは決して、美しく歌うということでも、立派な楽器を使って歌うことでもありません。ましてや譜面通りに間違えずに、ということでもないのです。正しさが求められるのは私たちの心の態度です
1) ありのままで主の前に進み出て (2サムエル6:14-16、詩編42:1-5)
主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。 ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。 主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ。(2サムエル6:14-16)
ダビデ王は神様の前にとても素直な人でした。神様の前に素直であることは大切なことです。それは時々大人ぶった常識には反するように見えるものです。ロックコンサートに行けばみんな立ち上がり、手をたたき、耳だけではなく全身で楽しみ、また楽しんでいることを表現するのが自然なことです。クラシックコンサートでは演奏中はじっと静かに聴いていなければいけません。私たちの礼拝はどちらに似ているでしょうか? ダビデはロックコンサート感覚で神様の臨在を楽しみ、ミカルはクラシックコンサートの常識でダビデをさげすみました。
一方この時のダビデとは正反対の気持ちで礼拝に臨む人もいます
涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/「お前の神はどこにいる」と。 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす/喜び歌い感謝をささげる声の中を/祭りに集う人の群れと共に進み/神の家に入り、ひれ伏したことを。(詩編42:2-5)
一週間の歩みの中で、ある人は喜びにあふれて、ある人は傷つきつかれて、日曜日に教会に足を運びます。足取り軽く来る人もいれば、やっとの思いで、できれば人には会いたくないな、でも神様の前に進み出ようと、自分に言い聞かせてくる人もいます。全く違う心の準備をして礼拝に望んだ人々が、共に歌う中でそれぞれのニーズを満たされ主の前に心を整えられ満たされてゆく。それが私たちの礼拝の前半のワーシップタイムの素晴らしさです。
どのような気持ちであれ、その時の自分の思いを素直に表現して歌えば良いのです。あなたがユアチャーチにはじめて来たとき、座っておとなしく歌っている人もいれば、立ち上がって手を叩いている人もいる、中には床にひざまずいている人や後ろに方で踊っている人までいて驚いたかもしれませんが、それぞれが自分なりに心を表すならそれは当然の事です。あなたも周りを気にせずに、神様の霊に促される通りに振る舞って下さい。どのように表現しても良いのです。しかし私たちが皆同様に求められている事が二つあります。それは次にあげる二つの態度です
2) 心をつくし、思いをつくし、力をつくして(申命記4:27-29、6:5)
主はあなたたちを諸国の民の間に散らされ、主に追いやられて、国々で生き残る者はわずかにすぎないであろう。 あなたたちはそこで、人間の手の業である、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐこともできない木や石の神々に仕えるであろう。 しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。(申命記4:27-29)
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5)
一つは、自分自身のすべてを尽くして全身全霊で歌うという事です。心を込めて、力の限りに、他の事、他の人の事をすべて忘れてあなたと神様だけの世界に入って歌ってほしいのです。もし、あなたがスマップのファンだったら、苦労して手に入れたチケットでコンサートにいったなら、どんな態度で時を過ごすでしょうか? 声を合わせて歌ったり、狭くてもかまわず踊ったり、時には耳を澄ませて静かなバラードを聴いたり、一番好きなメンバーの名前を叫んだりしていつの間にか会場は一体となってゆきます。神様はスーパースターを遥かに超える存在です。そのような神様の祝宴に私たちは毎週招かれているのですから、それがどのような表現になるにせよ、 心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に向かって歌いましょう
3) 期待をもって (詩編40:6)
わたしの神、主よ/あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいを/わたしは語り伝えて行きます。(詩編40:6)
もう一つの大切なことは、期待を持って歌うという事です。主は礼拝の中で新しいことをなさいます。どのような気持で礼拝の中に身を置いていても、主に期待する事をやめてはいけません。悲しい人は慰めを求めて下さい。苦しみのうちにある者は解放を、そして恵みを受けて喜んでいる者はさらに大きな恵みを求めていいのです。
メッセージのポイント
私たちの礼拝の特長の一つは、多くの時間をさいて歌うことです。楽しく、リラックスできる時ですが、私たちはそれだけの理由で日曜日の礼拝の半分の時間を費やして歌っているわけではありません。私達が主に向かって歌うことは、私たちのささげる礼拝そのものです。心をつくし、思いをつくし、力をつくし、神様に大きな期待を寄せて歌うところに、神様は共にいて下さり、新しいことをなされます。状況を変え、私たちの心に変化を起こされるのです。私たちは礼拝の前半にもっと大きな期待をもってのぞみましょう
話し合いのヒント
1) 私たちはなぜ主に向って歌うべきなのですか?
2) 今週の日曜日の礼拝の中であなたはどのような事を期待して歌っていましたか?