2007/7/22 メッセージ イザヤ書17章 シリーズ20

その日は来た?来ている?まだ来ない。

人間は過去を思い返すことと未来を思い描くことによって今を生きています。一つ一つの感覚や運動能力なら人間より優れた動物は沢山います。それでも創世記1章の神様の命令に応えて世界を治めることができるように、人はいくつかの他の動物にはない資質を与えられているのです。過去を記憶し、未来を思い描き、それを統合して行動する能力もその一つです。しかもそれは個人がそれぞれに持つだけではなく、言葉や文字によって共有し、過去の人々から受け継ぎ、未来の人々に伝えることのできる人類の共有財産です。そしてこの過去・未来・現在という視点は神様の言葉である聖書を理解するためにも重要です。聖書は遠い過去に書かれましたが、過去の教訓としてだけでなく預言という形で未来を教えてくれます。旧約聖書の教える過去と未来を結ぶのが、新約聖書が伝えているイエス様の十字架の出来事なのです。

A. その日?

1) 旧約の民にとっては未来の出来事(1-6)

ダマスコについての託宣。「見よ、ダマスコは都の面影を失い/瓦礫の山となる。 アロエルの町々は見捨てられ/家畜の群れが伏し、脅かすものもない。 エフライムからは砦が/ダマスコからは王権が絶える。アラムに残るものは/イスラエルの人々の栄光のようになる」と/万軍の主は言われる。(1-3)

「その日が来れば、ヤコブの力は弱まり/その肥えた肉はやせ衰える。 刈り入れる者の集めた立ち枯れの穂/その腕に集めた落ち穂/レファイムの谷で拾った落ち穂のようになる。 摘み残りしかないのに/オリーブの木を打つようなものだ。梢の方に二つ三つの実/豊かに実っている枝でも、四つ五つ」と/イスラエルの神、主は言われる。(4-6)

ダマスコという地名は聞きおぼえがありますか?今のシリアのダマスカスのことです。新約聖書の著者の一人であるパウロが、イエス様に声をかけられ彼のクリスチャンとしての生活が始まった場所です。イザヤの時代にはアラムという国の首都で偶像礼拝がさかんに行なわれていました。エフライムは北王国のことをさしています。元来は一つの部族の名前ですが、ここでは北王国全体を指してこう呼ばれています。最初の王がエフライム出身だったからです。どちらもが滅びる。という預言はやがてアッシリアという国の侵略によって現実のものとなるのです。やがては南王国も滅び、それから永く第二次世界大戦の終るまで殆どの時期を、領土のない民としてすごさなければなりませんでした。

2) クリスチャンにとってはすでに始まっているがまだ完成していない現在

その日には、人は造り主を仰ぎ、その目をイスラエルの聖なる方に注ぐ。 もはや、自分の手が作り、自分の指が作った祭壇を仰ぐことなく、アシェラの柱や香炉台を見ようとはしない。 その日には、彼らの砦の町々は、イスラエルの人々によって見捨てられた木の枝や梢のように、捨てられて廃虚となる。(7-9)

 イエス様がこの世界に来られて、十字架におかかりになったということは、イエス様を主と信じない人にとっては、アジアの西の端の小さな国で2000年前に新興宗教の教祖が処刑された、ローカルな出来事にすぎません。しかし聖書は、それが全人類にとって歴史上最も需要な出来事であると、私たちに呼びかけているのです。ユダヤの民イエス様が来ても神様と認めず、まだ未来の事として待ち続けますが、十字架の主を目撃し、復活された主に出会った人々は、このことこそが預言されていた日、新しい時代の始まりだと悟ったのです。新しい日は始まりました、そして今も続いています。私たちの感覚でいえば「時」と言った方がいいのかもしれません。それはイエス様が再び来られる日まで続きます。それがいつであるか私たちには知らされていません。もう何百年何千年も待つのかもしれないし。今日、イエス様が来られるのかもしれません。そのどちらでも良いように、心備えをしておきましょう。遠い先でも良いように、信仰を次の世代に伝えます。次の瞬間に主が来られても良いように、その時その時を主の愛に生きましょう。

B. その日々をどう生きるか

1) やめたはずの虚しい偶像礼拝をさけよう (10-11)

お前は救い主である神を忘れ去り/砦と頼む岩を心に留めていない。それなら、お前の好む神々にささげる園を造り/異教の神にささげるぶどうの枝を根付かせてみよ。 ある日、園を造り、成長させ/ある朝、種を蒔き、芽生えさせてみても/ある日、病といやし難い痛みが臨み/収穫は消えうせる。(10-11)

イスラエルの苦しみの原因は偶像礼拝です。もう何度もお話ししたように、偶像礼拝の本質は何かを拝むという行為ではなく、神様に背を向け、神様以外のものに心を寄せるという心にあります。だから実際に何かを拝んでいなくても、心が何かを、誰かを偶像にして拝んでいる状態におちいっていることもあるのです。

しかしそれは、幸せを求めてであったにしてもむなしい努力にすぎません。そのむなしさを何度も味わったイスラエルの民に学ぶことができることは、どんなに多くの恵みを神様からいただいていても、偶像礼拝の傾向性は無くなりにくいものだということです。

神様だけに心を向けて歩む事以外に、どんなことがあっても揺るがない平安はありません。私たちはこのことを信じ、クリスチャンとして生きています。しかし偶像礼拝の誘惑も、絶えず私たちの心を揺さぶります。礼拝する事を生活の中心にしなければ、私たちはイスラエルと同じ過ちを犯すことになるのです。せっかく主に出会い、主とともに歩む決心をしたのに、主が来られるとき心は他のものに向いていたなら、どんなに主を悲しませることになるでしょうか?

2) 何が起こっても希望を持ち続けよう (12‐14)

災いだ、多くの民がどよめく/どよめく海のどよめきのように。国々が騒ぎ立つ/騒ぎ立つ大水の騒ぎのように。 国々は、多くの水が騒ぐように騒ぎ立つ。だが、主が叱咤されると彼らは遠くへ逃げる/山の上で、もみ殻が大風に/枯れ葉がつむじ風に追われるように。 夕べには、見よ、破滅が襲い/夜の明ける前に消えうせる。これが我々を略奪する者の受ける分/我々を強奪する者の運命だ。(12-14)

ここには直接、名前は出てきませんがアッシリアの来襲について述べられています。確かにアッシリアはイザヤの晩年に猛威を振るい、奪い尽くしました。しかし、その支配も長く続くものではありませんでした。もちろんアッシリアが滅び、つかの間の平和が来ても、それもまた長続きはしませんでした。

終わりの時代は、悪魔の最後のあがきの時でもあります。最後のチャンスとばかりに、様々な方法で私たちの心を勝利者から引き離し、敗北する側に引き込もうとしています。神様を信頼し、目の前に起こる事におびえたり絶望しないで歩むのです。

メッセージのポイント

クリスチャンにとって「その日」とは、既に来てしまった、あるいはいつか来る「或る一日」の事ではありません。「その日」はイエス様の十字架と復活から始まり、イエス様が再びこられて神の国が完成することで終える時代のことです。私たちはそのような時を生きているのです。「神様の勝利が十字架で確定しているのに、なぜこのようなことが起こるのだろうか」と思ってしまうような出来事が起こります。残念ながらそれはイエス様が再び来られる日まで続くでしょう。だから、神様の勝利は決まっているのに、あなたが脱落してしまわないように、主が再びこられる完成の日まで手を抜いてはいけないのです。

話し合いのために

1) その日とはどんな日ですか?いつ来るのですか?

2) 終末の時代に生きる私たちは、どのように生きるべきでしょうか?