2007/8/5 メッセージノート マルコによる福音書6:45-56

あなたは本当にイエス様を知っていますか?

誰かの事をよく知らないのに、とてもよく知っているつもりになっている人がいます。ところが、その相手に聞いてみると、実は全然わかっていない、ということがあります。この質問は言い換えれば、あなたはイエス様をどのような方として信じていますか?ということです。

このエピソードの時点では弟子たちもイエス様をよく知っていたとはいえませんでした。イエス様の行くところ行くところに押しかける群集もイエス様が来て下さった本当の目的を理解してはいませんでした。

さて、あなたはどうですか?イエス様を本当に知っていますか?

A. 心が鈍ければ、イエス様を理解することはできない

1) 弟子を先に行かせるイエス様 (45-47)

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。(45-47) 

 イエス様は<強いて>弟子たちを先に行かせました。弟子たちはイエス様と行きたかったのです。これは私たちが皆持っている傾向です。イエス様の後をついて行けば、困難や危険や面倒もなく正しい道を行くことができるからです。神様の御心を知るにはどうしたらいいでしょうかと、よく尋ねられます。私たちは人としてのイエス様とともに歩んでいるわけではないので、当時の弟子たちのように直接聞いてみることができません。祈るべきですが、そこではっきりと答えを聞く事はまれな事です。ですから私たちは、弟子たちのようにイエス様の後ろをついてゆけたらいいのになあと思うのです。でも、人として地上を歩くイエス様は期間限定の存在です。弟子たちもやがて、私たちと同様に、霊的な存在としてのイエス様に従う事になるのです。ですからイエス様は事ある毎に、弟子たちがイエス様を離れて歩む訓練をなさいました。教会はイエス様に派遣されてこの地上で歩んでいるのです。それは、イエス様の後ろ姿を見ながらついてゆくよりずっと困難な事です。派遣された者たちとして、正しく歩むには、祈りながら、自分の心を確かめながら、よく考えながら、一歩一歩、慎重に、かつ大胆に歩む事が求められます。教会のリーダーたちは神様ではありません。それなのに誰かの後ろを見ながらついてゆくのが簡単だからと、何も考えずについてゆくなら、教会はカルト集団になってしまいます。失敗をすることがあっても、困難に直面することがあっても、一歩前に進みましょう。一歩足を進めたら、祈り、考え、次の一歩を最善と考えられる方向に踏み出すのです。

2) イエス様が超自然的存在であることを認めよう (48-52)

ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。(48-52)

弟子たちが心細く思っている事を、イエス様はよくご存知でした。彼らは逆風に悩まされ、疲れてもいました。そこにイエス様は湖の上を歩いて彼らに近づかれ、通り過ぎようとなさいました。それは彼らがもう一つ深い次元でイエス様を理解するためのテストでした。しかし弟子たちはイエス様に気付き、幽霊だと思って大声で叫びました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」弟子たちはイエス様が単に、知識を与えてくれる「先生」ではなく、人間を超え、自然を超えた存在であることを知らなければなりませんでした。そうでなければ姿の見えなくなる昇天後のイエス様に従ってゆくということはできません。この出来事を体験しても彼らは十分理解したわけではなかったようです。幽霊のように見えた人影がイエス様だと知り、声をかけられ、船に乗り込んでこられても、事態を飲み込めてはいませんでした。彼らは「心の中で」非常に驚きました。それを表現できるほど理解できてはいなかったのです。 弟子たちは、立て続けに二つの奇蹟を見さられても、種の分からないマジックを見せられたように感じられただけで、イエス様に対する認識が根本的に変えられたわけではなかったのです。 皆さんは聖書が完成した後の時代に生きているので、イエス様が超自然的存在である事を、弟子たちよりは知っていると自負しているかもしれません。しかし、心が鈍くなっていれば、聖書でイエス様の事を良く読んでいたとしても、今イエス様がなさっている事を理解できずに、事態を正しく受け取ることはできません。イエス様は私たちをこの世界に先に使わされた方ですが、「後は知りませんよ」とおっしゃっているわけではありません。必要とあれば、あなたがどこにいてどんな状況におかれていたとしても助けて下さる方です。そのことを知識として知っているだけではなく、経験として実感していれば、どのような困難の中でもイエス様に信頼をおいて、しっかりと歩み続けることができます。私たちはこの信頼を小さな体験を積み重ねて行くことにより、確かなものとすることができます

B. イエス様の一面だけを見ていてはいけない (53-56)

こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。 一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。(53-56)

1) 今でも多い、イエス様を癒す方としてしか理解しない人

 人々はなぜイエス様を追いかけ回したのでしょうか? それは病を癒して頂きたかったからです。奇跡をみたかったからです。そしてよいお話を聞きたかったからです。またイエス様が革命を起こしてローマを追っ払う事を期待していた人もいました。彼らの共通点はイエス様に「わたしのために」何かをして下さいと求めているという事です。多くのクリスチャンがこのレベルにとどまっています。イエス様はわたしのために何かをして下さるため来られた方、という認識です。確かにイエス様は憐れみをもって、いやして下さる方です。イエス様に癒しをはじめとして、様々な恵みを求める事は正しい事です。けれども、そこにとどまっていては、イエス様のことを本当に知っている事にはなりません。本当のイエス様を知らなければ、イエス様が本当に与えようと願っているものを受け取ることができないのです。その人の信仰はイエス様の一面だけを見ているバランスの欠けた信仰です。キリストの体の中には、癒しを強調する部分、預言を強調するグループ、社会的な活動を強調する教派、聖めを強調する教会というように様々な部分があります。しかしそのどれもが自分は一つの体の一部分にすぎない事を認めなければいけないのです。イエス様が来られ多目的については共通の認識をもっていなければなりません。そうでなければ同じ一つの体でありながら、自分たちだけがキリストの体としての唯一のあり方であって、他を認めないという、イエス様の意志に反した存在になってしまいます。

2) 癒しや奇跡はイエス様の最終目的ではない

 イエス様は病を癒やして下さる方、奇蹟を起こす方ですが、それをするために来て下さったのではありません。イエス様が来られたのは、神の国を完成させるためです。癒やしや奇蹟はその表われにすぎないのです。人々の心の中に神様の権威が回復される時、その人は神の国の市民となります。人間は本来、神様の被造物ですから、神の国の市民であれたはずなのです。しかし人類はその初めから、神の国の市民権を捨ててしまいました。その歴史の初めに神様に背いた人間の子孫は本当の神様を知らずに生きてきました。神様が御自身を積極的に表わされたイスラエルの民も、結局のところ神様に従い通すことは出来ませんでした。イエス様の十字架の出来事から2000年たった今でも、多くの人々が困難に直面しながら誰に救いを求めたらいいのか知らずにいるのです。皆さんの周りにも、そのような方がたくさんおられます。なぜあなたがそのような人々よりも先にイエス様を知ることができたのか?それは、彼らのために派遣する者として、神様があなたを選んだからです。神様は世の終わるまでこの連鎖を通して神の国を建てあげるのです。イエス様はあなたを癒されたかもしれません。奇跡を見せてくださったかもしれません。しかしそれはあなたが強められ、成長して、神の国の働き手となるためなのです。どうか自分が日々の歩みの中で恵まれることで満足しないで、働きのために用いられることを願ってください。神の国の働きのために、富や時間を使い、汗と涙を流して、神様に派遣されている者として歩みましょう

メッセージのポイント

イエス様は弟子たちに先に行かせたように、私たちにも「先に行け」と命じられます。先に行くということは、イエス様の背を見ながら行くわけではないので、道を間違えたり、苦労したりすることがあるということです。乗り越えられそうもない困難や、恐怖に襲われることがあるということです。しかし本当に乗り越えられない出来事はひとつもありません。イエス様は必要をご存知で、与えてくださるからです。 イエス様は私たちを、この世界に派遣されているのです。それは、多くの人が、自分の恵み、自分の癒しだけを求めている世界に、神様との正しい人格的な関係を築くことを伝えるためです。

話し合いのために

1) 心が鈍くなっていたとは、どのような状態だったのでしょうか?

2) イエス様は何のためにこの世界に来られたのでしょうか?