2007/8/19 メッセージ コリントの信徒への手紙1 12:1-11
ぜひ知ってほしい「聖霊の賜物」
A. 賜物についての原則
1) イエス様の体の全体の益となるために与えられている(1-3,7)
兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。 あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(1-3)
一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。(7)
コリントの教会は聖霊の賜物の豊かに働いていた教会でしたが、問題の多い教会でもありました。コリントという都市自体が偶像礼拝や性的な不品行が満ちていたので、教会は豊かな賜物の働きなしには社会に影響力を持つことはできなかったのですが、党派心や功名心からイエス様を主と信じる信仰からそれてゆく人々が多く現れたのです。しかも、そのような人々は自分たちの方が霊的に優れていると自負していました。彼らは霊的なキリストを強調するあまり、地上におけるイエス様、特に十字架のあがないを無視するために「イエスは神から見捨てられよ」とさえ言っていたようです。「イエスは神から見捨てられよ」は「呪われよ」と訳した方が分かりやすいでしょう。異教徒の中でも、奇跡や癒し、預言などの霊的な力の現れが見られ、教会の中でも一見それに似た霊的な力の現れが見られ、しかもそれが混乱の元になっていました。パウロはそのようなコリントの霊的情況を健全にするために、この部分を書いたのです。今の世界においても、聖霊の賜物を無視するなら、教会は十分な働きをすることはできません。聖霊の賜物を強調しすぎることによって陥る危険もあるのです。それは、「賜物の現われ」自体に関心が集中することによって、イエス様とイエス様の体である教会全体の益とはならないことになるという危険です。主イエスキリストの十字架と復活以上に聖霊の賜物が強調されているとしたら、それは健全な教会とはいえないのです。
私たちは皆「イエス様はわたしの主です」と告白してクリスチャンとなりました。それは人間の決断ですが、聖霊の働きなしにはできない告白です。聖霊の助けによって神様を信じることができたのですから、この霊の促しに素直の従うべきです。自分には賜物を豊かに与えられていると思っている人は、それが全体の益になっているかどうかを反省しなければいけません。反対に霊の賜物は自分には関係ないと思っている人は、自分に与えられている賜物を自覚して用いなければ、神様があなたに期待している働きを行うことができないのです。
2) ただお一人の神様が、望まれるままに一人一人に分け与えて下さる(4-6,11)
賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 (4-6)
これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。(11)
すべての事をなされるのは神様お一人です。聖霊もイエス様もたったおひとりの神様の異なった現れ方なのです。すべての賜物は神様が私たちに下さるのです。教会において種々多様な賜物が豊かに現されることは大切なことですが、コリントの教会では、自分の賜物を誇り互いの優劣を競い合うような状態になっていて、教会は分裂の危機に陥っていたのです。ただお一人の神様が与えて下さるものであるなら、それがいくら多種多様であっても混乱の原因にはならないはずです。それなのに混乱が起こるのは、賜物のせいではなく、それを用いる人間のせいです。神様は望まれるままに与えて下さるのですから、著しい賜物や多くの賜物を与えられているからといって自分を誇るのは誤りです。賜物はクリスチャンをクラス分けするためにあるのではありません。組み合わせて用いられるために、一人一人に別々の賜物が与えられているのです。「実るほど頭の垂れる稲穂かな」ということわざとなっている俳句があります。内容が豊かな人ほど謙虚といった意味ですが、賜物についても同じ事がいえます。
B. 賜物の種類
賜物のリストはこの箇所以外に同じ12章の後半、ローマの信徒への手紙12章、ペトロの手紙1の4章に記されています。賜物の数や種類については、教会の確定した教理があるわけではありません。このコリントの教会に示されたリストにある賜物は、9つの霊的な賜物ですが、他の箇所はもっと広く、奉仕の賜物や施しの賜物などなども紹介されています。賜物の数や種類といった詳細について争う事は意味がありません。同じ賜物であっても、用いる人によって現され方は異なるのです。今日は、テキストに記されている9つの賜物をできるだけ分かりやすく紹介します。皆さんにそれらが与えられているかどうか大胆に試みてみる事をお勧めしますが、あくまでも前半でお話しした原則を忘れないでください。そうでなければ霊的高慢に陥るか、キリストの体を傷つける者になってしまう恐れがあるからです。
1) 知恵の言葉と知識の言葉(8)
ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、(8)
知恵と知識と訳されている原語(ソフィア・グノーシス)の違いはあまりはっきりしてはいません。どのように区別されていたかいろいろな説があります。知恵は実際生活においての洞察力、知識は特に神様との関係においての洞察力と考えるのが自然だと思います。
限定することはできませんが、例えば、大雑把に言ってカウンセリングには知恵の言が必要であり、礼拝メッセージのためには知識の言の賜物が必要なのです。
2) 信仰、癒し、奇跡(9-10a)
ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、(9-10a)
ここでの賜物としての「信仰」とは、クリスチャンの誰もがもっている信仰の事ではありません。13章2節で「山を移すほどの信仰」と表現されている教会の特別な働きを担うための信仰です。それは誰もが与えられているものではないのです。教会は時として、この賜物をもつ少数の人によって、停滞を打破したり、新しい領域の働きを始めたり、危機から逃れたりすることができた歴史を持っています。それらの人々は、はじめは周りの人々から理解されずに、無謀であるとか、間違っているとか、不可能であるとか非難されましたが、後になってその真価が認められました。異邦人伝道も、宗教改革もそのような人々無しには起こらなかったはずです。
癒しの賜物については、親しみをおぼえる人も多いのではないでしょうか?わたしは皆さんに、この賜物があろうとなかろうと、癒しのミニストリーに加わる事をお勧めします。多くの人に多かれ少なかれこの賜物が与えられている事を体験として分かっているからです。まれに、この賜物を著しく現す人が起こされます。それは私たちが癒しのワンマンショーを楽しむためではありません。神様はむしろ、多くの人にそれほど大きくはない癒しの賜物を与え、私たちに力を合わせ用いるように求めておられます。この賜物を豊かに与えられている人は、謙虚に感謝して、教会の癒しの働きのリーダーとして責任を果たして下さい。
奇跡を起こす人は現代の教会にはほとんどいませんが、もし神様が必要と思われるなら誰かにそれをお与えになるでしょう。私たちは、この可能性を否定するわけにはいきません。
癒しや奇跡は、人々の注目を集めやすいだけに、人々の関心の中心になってしまいがちです。それは宣教の中心がずれてしまったり、賜物を持つ人をヒーローにしてしまったり、人の目を引くために偽の奇跡や癒しが行われたりするという結果をもたらします。
3) 預言、異言、霊の見分け(10b)
ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。(10b)
霊的な賜物は既に廃れ現代の教会では現れるはずがなく、従ってそれらの現れは熱狂主義であって、正しい信仰ではないという立場を取る教会も多くあります。
ユアチャーチは聖書に記されている事は、すべて今でも起こりうるという考えに立っています。しかし、教会にはそれらを神様の秩序のもとに現すようにコントロールする権威を与えられています。そこでユアチャーチにおいては、日曜礼拝ではすべての人に開かれている福音の入り口として、大声をあげて異言で祈るような事はふさわしくないと考えます。2、3人が理解できる言葉で預言することは適切だと思います。
これらの賜物を用いたり、求めたりしたい方は、第2日曜午後の「力の時間」に出席して下さい。
預言や異言、またその解き明かしが賜物であるという事は、すべての人に与えられるものではないという事です。これらの中では異言が最も多くの人に与えられ、その次に預言、そして霊を見分ける力となりますが、異言にしてもすべての人に与えられるわけではありません。
ところで預言と予言は違います。予言というのは、未来の事を言い当てる事ですが、預言は神様の与えて下さる言葉を預かってその人に伝えるという事です。ですから預言は未来の出来事に限定されない慰めや励ましのことばでもあるのです。預言をする者には大きな責任が伴います。特に人の将来について軽々しく預言してはなりません。
そこで、聖霊の賜物が健全に現されるために必要な要となる賜物を最後に紹介します。「霊を見分ける力」です。今日紹介した霊的な賜物はどれも不思議な能力ですが、同じような力をクリスチャンでなくても現すことができる事も事実です。出エジプト記には、エジプトの魔術師がモーセに対抗して、モーセと殆ど同様に奇蹟を起こせたことが記されています。異言は多くの宗教で見られる現象です。不思議を起こすことが大切なのではありません。大切な事は、それが本当に神様から来ているものである、ということです。そうでなければ、どんな不思議でも、唯一の神様を知ることや、神様によりよく仕える働きの力とはなりえないからです。神様ではない者の声を神様の声と思いこんで預言すれば、その人は悪意がなくても偽預言者になってしまいます。パウロは同じ手紙の14章で預言はよく吟味されなければならないと警告しています。その吟味をする人には「霊を見分ける力」が必要です。2コリント11:14 には、サタンでさえ光の天使を装う。とあります。敵はもっともらしく聖書の言葉さえ用いて、人を惑わし、教会を混乱させようとたくらんでいるのです。ですから、この賜物は託された羊を守るために、教会のリーダーにとって、知識の言とならんで重要です。
来月の第三週は今日の続編として、賜物が正しく用いられ教会が健康に成長してゆくための「一つの体、多くの部分」としての私たちのあり方について12の後半を学びます。
メッセージのポイント
聖霊の賜物とは、神様の働きを行うために仕える者に分け与えられる特別な能力の事で、生来の能力や学習によって得られるものではありません。従って、祈り求める事、確かめてみる事は大事ですが、私たちには選ぶ権利はありません。個々の賜物について知るよりも、賜物についての原則を知る事の方が重要です。この原則から逸脱する時、教会は混乱してしまうからです。どんなに目を見張る能力であっても、キリストの体である教会を軽んじたり、個人の栄光のために用いられているならそれは聖霊の賜物とはいえません。
話し合いのために
1) 神様は何のために様々な賜物を分け与えられるのですか?
2) あなたにはどのような賜物が与えられていますか?