2007/8/26 メッセージ イザヤ書18章 シリーズ21

あなたの問題の解決は神様にゆだねなさい

A. イザヤの預言

1) 人のはかりごと (1-2)

災いだ、遠くクシュの川のかなたで/羽の音を立てている国は。 彼らは、パピルスの舟を水に浮かべ/海を渡って使節を遣わす。行け、足の速い使者たちよ。背高く、肌の滑らかな国/遠くの地でも恐れられている民へ。強い力で踏みにじる国/幾筋もの川で区切られている国へ。(1-2)

「クシュ」はナイル川を青ナイルと呼ばれる支流まで南に遡った現在のスーダン、エチオピアあたりにあった国です。イスラエル人ともエジプト人とも異なった、背の高い褐色のなめらかな肌を持った民族だったようです。この国からの使節がエルサレムに来た事からこの預言はなされました。当時、最強だったアッシリアに対して周辺国は同盟して対抗しようとしていました。イスラエルの民も同盟に加わってアッシリアの脅威から逃れようとします。しかしイザヤはこの人間の計画が、うまくはいかないという事を預言しています。

2) 神様の計画 (3-4)

世界の住民、地上に住むすべての人よ/山に合図の旗が立てられたら、見るがよい/角笛が吹き鳴らされたら、聞くがよい。 主はわたしにこう言われた。「わたしは黙して/わたしの住む所から、目を注ごう。太陽よりも烈しく輝く熱のように/暑い刈り入れ時を脅かす雨雲のように。」(3-4)

神様は根本的に人が争う事を憎まれます。 それは十戒を見れば明らかな事です。旧約聖書はまるで戦争記録のような部分が多くあるので私たちは誤解してしまいますが、神様は決して人を戦わせたいとは思っていないのです。聖書を引用して、あたかも神様が支持して下さる正しい戦争というものがあると主張する人がいますがそれは誤りです。私たちは自分の罪を認めてクリスチャンとなりましたが、今でもその罪の性質は残っていて、人を傷つけてしまうことはあるのです。それは個人の争いでも、戦争でも同じ事です。神様はイスラエルの味方でもアッシリアの味方でもありません。あなたの味方でもあなたと争っている誰かの味方でもないのです。神様の願いは何人であろうと、すべての人を創った御自身に目を上げることです。ユダヤ人のそしてクリスチャンの陥る誤解は、ただ自分がクリスチャンだという理由で神様は無条件で私の味方でいてくれるという考え方です。神様にとっては誰かが勝つ事ではなく、正義がなされることが大切なのです。そしてどんな争いにおいても、どちらかが一方的に正しいという事はあり得ないのです。アッシリアの正義も、反アッシリア同盟の正義も神様の目には正義ではありませんでした。

3) 結果 (5-7)

刈り入れ時の前に、花が終わり/花の房が実となり、熟し始めると/主は枝を刃物で切り落とし/つるを折り、取り去られる。 それはすべて、山の猛禽と野の獣に与えられる。猛禽は、それを餌として夏を過ごし/野獣もすべて、それを餌として冬を過ごす。 そのとき、貢ぎ物が万軍の主にもたらされる。背高く、肌の滑らかな民から/遠くの地でも恐れられている民から/強い力で踏みにじる国/幾筋もの川で区切られている国から/万軍の主の名が置かれた場所/シオンの山へもたらされる。(5-7)

神様は神の民イスラエルの側にはついて下さいませんでした、かえってイスラエルの民が神様のみに仕え、神様に信頼をおくというライフスタイルを捨てた事がどれほどの痛手になるかという事を彼らに思い知らせました。いかに強いアッシリアでも勝算があると考えられた同盟も、神様の目には、神様を忘れた勝手な争いでした。その結果は、強固な同盟の勝利を幻のものとし、猛禽や野獣にたとえられたアッシリアが獲物にありつくということになったのです。しかしアッシリアの支配も、ひと夏の餌、ひと冬の餌とあるように、ずっと続くものではありませんでした。これらのことからクシュは、本当に信頼するべきなのは万軍の主、つまりただお一人の神様なのだと悟るのです。

B. ここから今私たちが学ぶべき事(マタイ11:28-30)

1) 人間関係に頼らない

神様はあなたの戦いの味方ではなく、物事を正しく裁く方です。この方を見上げるとき正直でいるなら誰も胸を張って私は正しいです、とは言えません。心の底で神様が味方をしてくれないと知っているのか、知らないのか自分の味方を人の中から捜し出して同盟を結ぼうとする性質を私たちは持っています。子供たちの間でさえきわどいバランスで関係が成り立っているので、このバランスを壊さないように、親や教師以上に互いに気を使います。自分の考えを強く出しすぎて、その場のバランスを崩すと「空気が読めないやつ」と烙印を押されてしまうので、「〜みたいな」「〜かも」「微妙」のような断定を避ける言葉が多用されます。それは大人の関係でもあまり変わりはないのです。言いたいことをはっきり相手に伝えることを恐れて伝えないかと思えば、共感してくれそうな人には遠慮なしに思いをぶつけてしまう。しかし、これはゴシップであり、キリストにある本当の交わりを破壊するものです。

イエス様を信じていない人なら無理はありませんが、本当に重荷をゆだねるべきお方を知っているクリスチャンは決して、そうであってはなりません。

2) ただ神様にゆだねよう

ここでイエス様御自身の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書11章28-30節です。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

重荷を降して安らぐことができるのはイエス様のところだけです。クリスチャンは、あなたが重荷をイエス様にゆだねることを助けることはできても、あなたに代って背負ってあげることはできません。それをすればその人がつぶれてしまいます。

せっかくクリスチャンになってイエス様の近くに来たのに荷物を持ったままつったっている人や重荷をイエス様の前ではなく誰かの上にぶちまけて大騒ぎになっている様子を想像してみて下さい。それはコリントの教会のことではありません。私たちの姿でもあるのです。なぜイエス様のもとに重荷を降さないのでしょうか?それは自分の荷は降ろしてほしいけれど、新しい軛や荷は負いたくないし、学びたくもないからです。しかし、荷を降すだけではなく、イエス様の軛や荷を負わなければ本当の安らぎを得ることはできないことをイエス様はここで教えて下さっているのです。

メッセージのポイント

神様は私たちに、困難に立ち向かう知恵を与えて下さいます。しかしその知恵の根本とは、神様により頼む事です。多くの場合、なかなか困難から抜け出せないのは、神様ではなく他のものに頼ろうとするからです。お金や、自分の能力、経験、味方になってくれそうな人。わたしたちの内に潜む罪の性質は、いつの間にか神様を部外者にしてしまうのです。特に私たちは周りの人々を巻き込んでしまう事を得意としています。自分で負いきれない重荷を神様にではなく誰かの上にのせようとしてしまうのです。けれども、ほんとうにあなたの重荷を引き受け、下ろしてくださるのはイエス様だけです

話し合いのために

1) なぜ神様はアッシリアに対抗する同盟を喜ばれなかったのでしょうか?

2) 神様に頼るとは、具体的にどのようにしたらよいのでしょうか?