2007/9/16 メッセージプラン <マルコによる福音書7章> 律法主義VS信仰 (2/4)

本当に悪い影響を心に及ぼすのは? 
マルコによる福音書 7:14-23

A 「自分が汚れないように外から入ってくるものに気を付けよう」という常識 (14-15)

1) 当時のユダヤ人の常識

神様を信じる者なら誰でも、神様の前に清くありたいと思うでしょう。宗教的な食物規定はこの願いから生まれました。当時のユダヤ社会に生きる者にとって、清くないとされる食べ物を食べることは自分が汚れてしまう事を意味していました。この規定を守らない人や規定の外にいる異邦人は汚れた存在であり近づくことを避けなければなりませんでした。律法学者、ファリサイ派のあり方が理想であり、無知や経済的理由でそれができない人々は軽蔑の対象でした。ここでイエス様が話をしている群衆は、そのような人々の集まりでした。イエス様は「自分が汚れないように外から入ってくるものに気を付けよう」という常識をひっくり返そうとしておられました。ただイエス様はここで人々がすぐに理解することを期待してはおられませんでした。人々がイエス様に期待していたことは、もっと実利的なことだったからです。殆どの人々にとって、この言葉はあまり心に残らない、分けのわからない言葉だったようです。17節を見ると弟子たちでさえ理解していなかったことがわかります。イエス様はよくこのように人々の心に種を蒔くようなことをなさいました。聴いてすぐ反応を期待するのではなく、時が来た時に理解できるためです。私たちも福音の真理を伝える時の心構えとして、すぐに収穫を期待できなくても、人々の心に小さな種を蒔くことたゆまずにしてゆきましょう。現代人の偽りの常識も律法主義の変形であり、根強いものだからです。

2) 現代人の常識

 私は幼稚園の頃、外で遊んで手が汚れても無頓着で頻繁に洗ったりしない、しかも手に汗を握るタイプの子供だったので、いつもじっとり汚れていて、女の子にとって手をつなぎたくない子No.1でした。私の場合は嫌われても仕方ないですが、ほかにもばい菌がいっぱいだからといじめられて子がいたことを覚えています。彼はおそらくアトピー性に皮膚炎だったと思います。親の職業によって汚い子と、いじめられていた子供もいました。ある人は無知が原因だといいますが、そうではありません。どんなに知識を詰め込んでも偏見は無くなりません。かつての私のように手がドロドロでなくても、目に見える炎症がなくても、どんなに清潔にしていてもいろいろな理由を付けて、「あの子は目には見えないばい菌だらけでとっても汚い」といじめられるようなことは無くなりません。

 私たちは誰も、ユダヤ人の律法主義の誤りを笑うことはできません。なぜなら私たちの生きているこの社会でも律法主義は形を変えて存在しているからです。確かに私たちは、細かい規定に縛られているわけではありませんが、「外にある悪い(汚い)ものが入ってきて、その人を悪く(汚く)する」という律法主義的常識が存在しています。それは問題の根源を見誤った常識です。この常識でいえば、人はもともと誰も悪くも汚れてもいないはずです。それなのに社会は清いとも良いともいえない状態にあるのは目に見えています。そこで、問題を自分の外側、つまり他人や社会に求めるのです。私が不愉快なのは、不愉快な存在である「あの人」が存在するからだ。私が愉快な気持ちになるためには「あの人」をなんとかしなければいけない。私が不満足なのは「あれ」をもっていないからだ。なんとかして「あれ」を手に入れなければならない。決して自分の心に問題があるとは考えないのです。

 「いじめ」という日本語をご存知ですか?学校や職場で理不尽な理由で突然仲間外れにされ、無視されたり、悪口を言われたり、暴力を振るわれることです。これが家庭の中で起こればドメスティックバイオレンスと呼ばれます。自分の清さ、正しさを保証するために、誰かを、自分たちとは違う「汚れた人々」に仕立て上げるのです。「いじめ」は最近学校で始まった新しい社会問題なのではなく、自分の内側に問題があるとは思わず、社会の汚れをすべて他人のせいにしようとする、「常識」によって歴史のはじめから世界のあらゆる場所で存在してきた問題です。それは人種差別、身分差別、性差別、職業差別、外見差別として存在してきました。

B 「あなたの心に最も悪い影響を与えるのは、あなたの心の罪です」イエス様の教え (17-23)

1) 問題は私たち一人一人の心にある

イエス様はこの常識こそ「罪」によるものだと教えて下さいます。イエス様は弟子たちにははっきりと、口にする食物によって人が汚れることはないとおっしゃいました。言い換えれば心が汚れるのは、外から入ってくる「汚れ」ではなくあなたのうちに初めからある「罪」のせいなのだということです。これは律法学者やファリサイ派にとっては赦せない過激な反社会的な発言です。イエス様は命を付けねらわれるようになってしまいました。

 罪は私たち一人一人の心の中にある、「神様に従いたくない,自分の思い通りにしたい」という心の状態です。この心の状態が直らない限り、それはその人の外に出てきて偏見や差別、犯罪や不品行、人を傷つけ、自分を傷つけることとして現れます。律法を守ること、規則を守ることでは罪を解決することはできないのは、私たちが歴史を通して見てきた通りです。人々は外側の汚れについてはとても敏感で、それが自分に波及しないように様々な努力を惜しみません。また、汚れていると判断された人を仲間はずれにしようとする傾向を持っています。しかしそれは汚れを清めるどころかさらに大きな害毒を連鎖的に引き起こします。神様の目から見て、罪のない人は一人もいません。日本のことわざに「窮鼠猫を噛む」というのがあります。1990年に起こったコロラド、コロンバイン高校の事件を覚えていらっしゃいますか?私は銃規制に反対する者ではありませんし、犯人たちに罪がないと言っているわけではありませんが、事件の本質は「銃の問題」でも、「犯人の性質」でもありません。優等生でもスポーツティームに入っているような陽気で快活な子がクールというハイスクールの常識が、そうなれないダサイ子たちを追いつめて、いじめられるような状況をゆるしているのはアメリカに限ったことではありません。腕力や頭脳で勝つことのできない相手にいじめられていた子が爆弾や銃を手にして反撃に出たのです。実際に犯罪に及んだのは彼らです。しかし心の罪を押さえられなかったのは犯人たちだけではありません。彼らを軽蔑し、屈辱感を与え、馬鹿にしたのは、どちらかといえば先生や大人たちからも受けの良い,明るく快活な普通の子供たちです。私たちの社会は、メインラインに乗り切れない人々に冷淡で残酷でさえあります。しかしそれは私たち一人一人の心の闇の反映でもあるのです。わたしたちは自分の心の罪をどうしたら良いのでしょうか?それは自分ではどうすることも出来ません。

2) 罪を解決できる唯一のお方

イエス様はただ私たちの罪を鋭く指摘するために来られたのではありません。私たちを罪の泥沼から救い出しにこられたのです。しかしイエス様が差し出された手を握らなければ、抜け出すことはできません。そこでイエス様は私たちが自分の罪の現実に気付くことができるように罪の深刻さを厳しく伝えて下さったのです。教育も宗教的な修練もあなたの罪を解決することはできません。罪を赦し清める力は、十字架の上で流されたイエスキリストの犠牲の血しかないことを聖書は証ししています。あなたは自分の罪から救われたいと思いませんか?聖書はシンプルにこう宣言しています「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」あなたの信仰が家族の救いの第一歩にもなっているということです。来週の日曜日には午後からバーベキューと洗礼式を行う予定です。洗礼は、「私はイエス様を自分の主と信じ従います」という決心を目に見える形で表したものです。この社会がどんなに罪の力に支配されていても、イエスキリストを主と信じ従う者には、決して変わることのない喜びと平安が与えられ、神様が与えて下さる使命を全うすることができます。

メッセージのポイント

「汚れ」はどの文化、いつの時代でも関心を持たれてきました。それが自分の身に及べば病や呪いなど不幸をもたらすと考えられているからです。そこで人々は汚れを避けるために様々な作法を生み出してきました。旧約聖書の民の律法主義もその一つです。しかし清くありたいという願いは、求める方法が根本的に間違っていたので、返って人を苦しめることになってしまいました。たとえば、それは様々な差別を生み出しました。人種差別、身分差別、性差別、職業差別。差別意識を自分には無関係と言える人はいません。イエス様はこの根本的な間違いを指摘し、本当の解決を与えるために来て下さったのです。神様に背を向け、自分の欲望に従って歩むことを「罪」と教え、あらゆる人の心に潜む罪が、外に現れる汚れ、悪の原因であることを教えて下さいました。そして、十字架という、神様との和解のための唯一の方法を提案して下さったのです。

話し合いのヒント

1) なぜ律法を守ろうとするだけでは悪に対して無力なのでしょうか?

2) なぜ人は差別するのですか?

<子供たちに伝えたいこと>

1) いじめの問題は決して「いじめられる子供」の問題ではないこと

2) 世界全体が人種差別、身分差別、性差別、職業差別のあるいじめ社会であること。

3) 律法主義的方法(規則を守りましょう、守らなければ罰則を与えます。)が根本的な解決ではなく、十字架による一人一人の心の罪のゆるしが、問題解決の原点,信仰の出発点であること

<デイリーデボーション>

9/17 Monday

イエス様の言葉を聞いて真理に至る (14節、詩編119:9-16)

真理はイエス様の言葉の中にあります。主の言葉を熱心に聴く者となれますように。

9/18 Tuesday

私の心から出て私を汚すもの(15, ガラテヤ 5:16-26)

より深刻なのは環境ではなく自分の魂です。第一に自分の魂が正しく健康でありますように。

9/19 Wednesday

弟子にはたとえではなく具体的に語られた(17,マタイ28:16-20)

主の弟子にならなければ聖書の言葉を正しく悟ることはできません。弟子として歩めますように。

9/20 Thursday

食物の規定は本質的なことではない(18-19, コロサイ 2:16-23)

汚れは心の問題。どんなに外側を美しく清潔にしても心の汚れは解決しません。主よ、清めてください。

9/21 Friday

悪のデパートのような人間の心(20-22, エレミヤ 7:21-26)

罪に起因する悪のリストです。悪いことをする、しないではなく、悪い心(罪)があることが問題です。

9/22 Saturday

心から出てくる悪い思いがその人を汚す(23, コロサイ 2:6-15)

この口と心にあるものがあなたの目にかないますように。