2007/9/23 メッセージシリーズ 「律法主義VS信仰」第3回(全4回)  

模範的信仰 マルコによる福音書 7:24-30

先週まで、信仰のように見えて実は信仰とは対極の「律法主義」について学んできましたが、今週は、それでは本当の信仰とはどのようなものか?ということを一人の女性の信仰を通して学びます。彼女は、「信仰とは、どんな時でも、イエス様を信頼し、イエス様に期待することだ」と教えてくれます。最初にじっくりと味わって読んでみましょう。

イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。(24)

汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。(25)

女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。(26)

イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(27)

ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(28)

そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」(29)

女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。(30)

イエス様は、神様が人という外見を装った神様として地上を歩まれたのではなく、本当に人となって歩まれました。人としての痛みや苦しみ、限界を御自身のこととして受けられたのです。私たちはこのイエス様の人としての面を忘れがちですが、イエス様は私たちの感じる落胆とか絶望、疲れを感じながら30数年の間、地上を歩まれたのです。私たちが信頼をするのは、実生活から遠くかけ離れたところで私たちを見下ろしているような方ではなく、イエスという一人の人として歩まれた記憶をお持ちの、私たちとともに歩んで下さる神様です。

A 神様は

1) つきることのない恵みを用意していて下さる

 イエス様が神の国を宣べ伝えられたのは、その生涯の最後の2年間だけでした。それだけの時間しかなかったのです。神様の最終目的はすべての人を神の国に招き入れることです。しかしイエス様にはすべてを行う時間がありませんでした。当時、比較的身近に存在したギリシャ人やローマ人にもアプローチする時間は、イエス様にはありませんでした。イエス様の地上におられる時にミッションは、その生涯の最後になされる十字架のあがないを正しく理解するユダヤ人である弟子たちをつくることでした。そこに集中しなければならなかったのです。

しかし神様の恵みには限りがないということも事実です。この女性はそれを直感していたのでしょう。イエス様なら絶対して下さるという確信があったので、イエス様の試みるような言葉にも全く動じませんでした。ここに彼女の信仰の強さを見ることができます。信仰の強さとは、私たちの「信じる能力」のことではありません。「神様の恵みはつきることがなく、すべての創られた者に豊かに注がれる」という確信に基づいた信頼のことです。けれども多くの人はこの女性とは反対に、少しでも物事がうまくいかないと「神様は私を祝福して下さらない」「神様はあの人の祈りは聴いて下さるのに、私の祈りには応えて下さらない」と文句を言ったり、あきらめてしまう傾向を持っています。 皆さんはいかがですか?神様の恵みは、誰かの上に豊かに注がれれば私の分は無くなってしまう、そんな乏しいものではありません。「最善のタイミングと最善の方法が私のために備えられている」と信じましょう。

2) 信頼することを喜ばれる

神様は、私たちがこのような信頼を持つことを望んでおられます。親になってみて初めて分かることが沢山あります。その大きな一つは、子供が理屈抜きに信頼してくれていることがどれほど大きな喜びであるかということがありました。それは子供にとっても幸せなことです。親を信頼できなければ子供は、誰か他の人や、まだ未熟な自分を信じて生きるしかありません。その家庭は子供にとって安心できる身の置き場ではありえません。社会はこの親を信頼できない家庭の拡大判です。神様を信頼できずに、神様以外のものに信頼して、神様から背を向けた「神の子」たちがさまよって傷つけ合い、奪い合うということが、国と国との間で、人と人との間で起こっています。世界は初めから、自分以外には誰も信頼できないような、平和のない混乱したものとして創られたわけではありません。神様を親とする家族としてデザインされたのです。人間の親には限界があります。中には子供が背を向けても仕方のない親もいるのです。しかし神様は、欠けたところのない愛で私たちを導いて下さる方です。自分の際限のない欲望を満足させるために、不完全な知恵で誰かを、何かを、自分を頼って生きるならうまくいかないことははっきりしています。神様に信頼をおくなら決して裏切られることはありません。神様はあなたの信頼を喜び、あなたを豊かに祝福して下さいます。

B わたしたちは

1) 真剣に願い求める

彼女の願いは切実なものでした、愛する娘が悪霊の支配下にあることを我慢できませんでした。祈りがどのようなタイミングで、どのような形で応えられるかは神様がお決めになることです。私たちはその祈りが正しいかどうか迷うときには、自分で判断する必要はありません。それよりそのことを真剣に求めているかどうかの方が大切なことです。神様から、祈るべきでないと教えられたらやめれば良いのです。分からなければ、神様からのはっきりしたストップがかかるまでは祈り続けましょう。あやまった熱意で神様を動かすことは出来ません。しかし熱意は重要です。それは意志を固く持ち続けることです。祈りが聞かれないとなげく人がいます。もしあなたの願いが神様の願いと内容もタイミングも100%−致するなら、その祈りは瞬間的に聞かれるでしょう。タイミングがずれているなら、私たちは待つことになります。内容が違っているなら神様はすこし型を変えて応えて下さるでしょう。

神様がご自身の意思を行なうのであれば、願い求める祈りは、必要はないのではないか?と思う人がいるかもしれません。しかし、それは神様は勝手に思いどおりなさっていて下さいという態度です。それでは体のー部として神様に仕える者として成長することが出来ません。私たちは願い求める祈りを続けることによって神様の願いをもっと良く知るこができるようになり、神様との距離をもっと縮めることができるのです。ですから願いがさめないなら、明らかなストップサインがこない間は真剣に祈り求め続けましょう。

2) まだ見ぬ事実を確信して歩み始める

彼女はイエス様に「もう願わなくてもいい、帰りなさい」といわれました。もう悪霊は出て行って願い続ける必要がなくなったからです。けれどもまだ彼女は、娘から悪霊が去ったかどうか自分で確かめてはいませんでした。イエス様がそうおっしゃったので、その言葉を信じて帰っていったのです。私たちはどんなに真剣な祈りであっても四六時中、聞かれるまで祈り続ければいいのではありません。それではスーパーマーケットでアイスクリームをねだって、今日は買わないと言われてもフロアに寝転がって泣きさけんでいる子供と同じです。私たちはひととき心を注ぐように祈ったら、願いが神様に届いていることを信じて、祈りの答えを確認するために自分の宣教地に戻ってゆくのです。それは今日、とりあげたギリシヤ人女性にとっては娘の待つ家庭でした。私たちにとってはそれぞれの日常生治の場です。特別な賜物をいただいて生涯を祈ることにささげるために修道院のようなところで一生を過ごす人もいますが、それは少数の例外的なクリスチャンにしか命じられてはいません。ほとんどの私たちに命じられていることは、祈りつつ社会の中で人々に仕えるということを通して神様にお仕えすることです。そして多くの場合、祈りの答がなくても、主が最善をなして下さることを信じて、歩み出さなければなりません。

メッセージのポイント

母親の娘を思う愛は、イエス様に対する願いと
なって表れました。イエス様は、彼女の強い信仰を見抜いて、ひるませるような言葉で試みますが、彼女の信仰は、そんなことであきらめてしまうような信仰ではありませんでした。わたしたちは、少し祈っただけで、否定的な現実に直面すると、これは神様の御心ではないのかもしれない、と簡単にあきらめてしまってはいないでしょうか?神様はわたしたちが、目に見えるところに左右されずに真剣に祈り求め、計画を信じてまだ見ぬ目標に向かって歩み始めることを求めておられます。これが信仰です。信仰とは宗教的規則を守ることではありません。

話し合いのヒント

1) なぜイエス様は最初否定的な答えをなさったのでしょうか?

2) わたしたちに求められているのはどのような信仰なのでしょうか?

<子供たちに伝えたいこと>

? イエス様はまことの人であり、まことの神様であること(人は神様になることはできないが、神様にできないことは何もない)

? 人としてのイエス様は、御自身がイスラエル人のために遣わされたと理解していたこと

? 神様は良い方でおできにならないことは何もないと確信すること

? まだ結果が見えていなくても神様を信頼して歩みだすべきこと


<毎日の聖書・毎日の祈り>

24日(月) イエス様には思い通りにならないこともあった 24節、 マタイ13:53-58

イエス様が本当の人でもありました。神様は私たちの苦しみ悲しみを御自身でも経験されたのです。

25日(火) 愛する者のための切実な願い 25-26節、マタイ7:7-12

私たちの愛する者の癒しや救いのための祈りは、願いは彼女の願いのように切実でしょうか?

26日(水) 人としてのイエス様はユダヤ人のために 27節、ミカ書5:1-3

地上でのイエス様は人という制約の中で歩まれました。異邦人への働きは教会に委ねられたのです。

27日(木) 信仰の神髄 28節、詩編86:1-4

神様の恵みはすべての人に不足なく十分に注がれることを確信して祈りましょう。祈ったら

28日(金) 結果を見る前に、信じ従い歩みだす 29節、創世記12:1-4

心を注いで祈ったら、後は前進するだけです。ゴールは見えなくても、導きがあることを信じ進みます。

29日(土) 結果は信仰についてくる 30節、ルカ12:22-34

わたしたちは結果について心配する必要はないのです。神様は最善を与えて下さいます。