2007/9/30 <メッセージシリーズ「律法主義VS信仰」マルコによる福音書7章> (4/4)

癒しと信仰 マルコによる福音書 7:31-37

<シリーズ全体の教えのフォーカス>神様の愛に生きることとは全くかけ離れた律法主義は、私たちも陥りやすいことであることを知り、本当に正しい信仰とは何かを学ぶ。 

今日、私は癒やされることよりもっと求めるべき大切なものがあるということをお話ししようとしています。しかし、ある人々が主張するように「現代の教会には、いやしのミニストリーは与えられていない。症気は医者に任せなさい」と言いたいのではありません。現代のいやしの働きは医療と連携してなされる必要がありますが、神様は依然として私たちに「癒しなさい」と命じておられます。ですから、癒しよりもっと大切なことについてお話しする前に、癒すことの大切さを知っておきたいと思います。

A 癒しを求めよう

1) 苦しんでいる人にイエス様を紹介しよう(31-32)

それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。(31-32)

 ここに、人々がそれぞれの大切な人々をイエス様のところにつれてきたと書かれています。それはイエス様がその人々の上に手を置いて下されば、癒されると知っていたからです。イエス様は、人々が自分のところに誰かを癒していただくためにつれてくることを反対なさいませんでした。「私は魂の救いのためにきたのだから、癒しではなく救いを求める人だけを連れてきなさい」とはおっしゃいませんでした。またイエス様は弟子たちにも、「これは私の仕事だから、あなた方の時代には魂の救いに専念しなさい」ともおっしゃいませんでした。むしろ信じる者のしるしとして、私たちが手を置けば癒されるとおっしゃったのです。どんなに医療が進歩しても、人の心の一番深いところを支え、慰めを与えることはできません。それは神様がして下さることであり、私たちが手を置いたり、癒しを宣言したり、祈ったりする時に、それらのことを通してして下さるのです。イエス様を紹介するのに、イエス様は今霊的な存在としてあなたといつも共におられるのですから、教会まで連れて行かなくても良いのです。あなたが癒すのです。牧師に祈ってもらう必要はありません。あなたの癒しの賜物を試してみて下さい。多分多くの人は、牧師よりもっと優れた賜物をいただいていると思います。どう考えても、自分には癒しも賜物はないと実験済みの方は、賜物を持った友達と一緒にミニストリーをしたら良いのです。

 

2) あなたが与えられている権威によって癒す(33-35)

そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。(33-35)

福音書にはイエス様がいろいろな方法で癒しをなさったことが紹介されています。癒す時にはこうしなさいという決まりきった方法があるわけではありません。今回の方法はちょっと私たちにはまねできない方法ですが、もっとシンプルに手を置くだけで癒されたことも多くありました。方法はその時その時、神様に聴きながら行ってゆけばいいのです。ここで皆さんに注目して頂きたいことは、イエス様が神様に「この人を癒して下さい」と祈ったので、はなく、その人や症状に向かって、癒しを命じたということです。使徒言行録に中では、弟子たちも癒しを祈るのではなく、「癒されなさい」と命じています。これは私たちに癒す権威が与えられている、ということです。神様にもっと用いられたいと思うなら、与えられている権威を用いなければなりません。それは癒しに限らず、あなたが与えられている賜物を使うことによって用いられることになります。

 あなたが神様にいただいた権威を用いて誰かが癒された時、神様が生きて働かれることをその人も気付きます。もしその人が神様をまだ知らない人なら、あなたは神様に栄光をお返ししなければなりません。確かにあなたが癒したのですが、それは神様にいただいた権威を行使した結果だからです。この時あなたはその人に癒されるよりもっと大事なこと、もっと素晴らしいことがあることを伝えるチャンスです。それがこれからお話しする「罪からの解放」ということです。

B 癒しよりさらに素晴らしいことを求めよう(36-37)

イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。(36)

そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」(37)

1) 癒すこと、癒されることに立ち止まっていてはいけない

もしイエス様のこの世界に来られた目的が癒やしであるなら、口止めなどせず、反対に人々に言い広めることを勧めたことでしょう。しかし素晴らしいことや不思議なことは、口止めされればされるほど誰かに伝えたくなるものです。それでもイエス様は、言っておかなければなりませんでした。どんなに注意深く本意を伝えようとしても、勝手に違う解釈をする者は多いのです。しかしだからといって、行き過ぎた状態を認めてしまえば、イエス様の本意を受け取ろうとする者も迷ってしまいます。

 イエス様御自身も目の前に連れてこられる人をできるだけ多く癒してやりたいと願っておられました。しかしイエス様は、人々が癒しや奇跡だけに注目していては、彼らの苦しみ、悲しみの本当の原因からは逃れられないことを、少しでも多くの人が悟り、真の解放を与えたかったのです。イエス様が天に帰られた今、その働きは私たち教会に委ねられています。さて私たちに与えられている癒すことよりも重要な務めとはいったい何なのでしょうか?


2) 肉体の病からの解放を求める以上に、魂の罪からの解放を求めよう

 誰でも、病や貧困から解放されたいと願います。しかし実はそこから解放されたとしても、それはまだ真の解放には至ってはいないのです。イエス様は人類に完全な解放を与えるために来た方です。イエス様の体である私たちは、貧困や病の内にあって苦しむ隣人のために力を惜しまず働きます。しかし、私たちの最終目的はそこにあるのではありません。イエス様が72人の人々を町々に遣わすと、彼らは喜んで帰ってきました(ルカ10:17-20) 彼らは悪霊を追い出す権威さえ与えられ、それを存分に用いて活躍できたことをイエス様に報告しました。イエス様は、その報告を喜んで聞かれましたが、一つだけ彼らに警告したことがあります。それは、「与えられている権威が大きなことよりも、その人の名前が天に書き記されていることもっと喜ぶべきです。」ということです。どんなに癒しや、悪霊の追い出しが目覚ましく行われても、そこで感動し「イエス様を信じます」と、手を挙げる人が沢山起こされても、人が本当に自分の罪を悔い改め、すっかり赦されて主の弟子としてこの世の歩みを始めることにつながらなければ意味がないということです。聖書の指摘する人類の「罪」とは、法を犯す「犯罪」という意味ではありません。人々が罪に捕らえられているというのは、神様との関係が断絶している状態のことです。お金があっても、体が丈夫でも、心の平和は保証されているわけではないのです。逆に神様との関係が確かなものであるならば、経済的困難も、病気もあなたの心の平和を奪うことはできません。この誰にとっても実は一番重要なこと、神様との正しい関係を取り戻すことのために、わたしたちは用いられるのです。

メッセージのポイント

イエス様の癒しの評判は瞬く間に広まり、人々は癒しを求めてイエス様に群がりました。イエス様はその憐れみの故に彼らを癒されましたが、イエス様が本当に受け取ってもらいたいと願われたのは「神様との関係の回復」でした。わたしたちは、イエス様の憐れみを受け継いで癒しを行うよう命じられています。しかし、イエス様を「癒しの霊能者」としてしか理解できなかった当時の群衆のようであってはなりません。人々が憐れみを受けて喜ぶだけではなく、憐れみに応えて神様のもとに立ち返り、神様の働きに仕える者となることが神様の願いです。

話し合いのヒント

1) イエス様はなぜ癒されたことを言い広めてはいけないと諭されたのでしょうか?

2) イエス様の世に来られた目的は魂の救いです。それではなぜイエス様は癒されるのでしょう?

<子供たちに伝えたいこと>

1) 誰かの、あるいは自分のためにイエス様に癒しを願い、祈ることは大切なことです

2) 肉体の病は癒されないこともあります。しかしそれはその人の信仰が足りないとか罪があるというせいではありません

3) イエス様は深い憐れみの故に癒しをなさいました

4) 癒しを願うことは良いことです。しかし人間にとって最も重要なことは神様との関係の回復、魂の癒しです



<毎日の聖書・毎日の祈り>

<今回の教えのフォーカス> 癒しや奇跡を求めること自体は決して悪いことではありません。しかし癒しや奇跡はイエス様のお働きの中心ではありません。わたしたちが過剰に癒しや奇跡にフォーカスすると、イエス様御自身がわたしたちに与えようとしている最も大切なものを見逃してしまう恐れがあります。イエス様が地上を歩まれたとき、多くの人々はイエス様を「癒しや奇跡を行うスーパーヒーロー」としか見ていませんでした。

10/1(月) 誰もが願う癒し 31-32節、マルコ1:3-12

あなたの周りで病に苦しんでいる人のために特に覚えて祈りましょう

10/2(火) イエス様はいろいろな方法で癒される 33節、ルカ4:38-41

こうしなければならないといった癒しの方法はありません。神様に聴きながらミニストリーを行います

10/3(水) 癒しを祈るのではなく、命じられるイエス様 34節、使徒3:1-10

癒しを求める人に直接ミニストリーをするとき、私たちは癒しを祈るのではなく命じる事が出来ます

10/4(木) 瞬間的に癒されることもある 35節、2コリント12:7b-10

即座に癒されることも、そうではないこともあります。地上ではつきあい続けなければならない症状もあるのです

10/5(金) イエス様の目的は癒すことではない 36節、詩編103:6-13

イエス様の目的は魂の救いです。しかし主の憐れみは苦しんでいる者を癒さずにはおれませんでした

10/6(土) イエス様はもっと素晴らしいことをして下さる 37節、ルカ17:11-19

癒されることは素晴らしい。主はそれ以上に素晴らしいこと、神様との関係回復を与えて下さる方です