2007/10/7 メッセージシリーズ<自分に分け与えられている賜物を知る>

コリントの信徒への第一の手紙 12:12-31a (1/4)

キリストの体は一つ コリントの信徒への第一の手紙12:12-13

<シリーズ全体の教えのフォーカス>

1) 聖霊の賜物について、それが何のために与えられているのか、どのように用いれば良いのか、どのような賜物があるのかを学ぶ。

2) この賜物についての学びを通して、私たちが互いの違いを乗り越えて一つの体として組み合わされて用いられることを学ぶ

3) 自分に与えられている賜物を知り活用することを学ぶ

今日から4回のシリーズでコリントの信徒への第一の手紙 12:12-31aから<自分に分け与えられている賜物を知る>ことについてお話しします。具体的な賜物の種類について知る以上に大切なことから話を進めてゆきたいと思います。私たちがこのトピックについて考える時に、いつもベースになくてはならないことは「愛の優越性」ということです。これは、すこし前にマーティンがメッセージで話してくれたことで、今月のテキストのすぐ次の部分(31b-13: )に記されていることです。「そこに愛がなければ、どんなにめざましい賜物の現われもむなしい。」皆さんもこのことを念頭において、今月のテキストに取り組んで下さい。

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(12:31b-13:3)

それでは今日の箇所を読んでみましょう。

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。(12) つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。(13)


A私はどのような体の一部なのか?

1) 一つの霊によって結ばれている数億の細胞でできている一つの体

今では地球のどの大陸にもクリスチャンが存在します。またキリスト教といっても特徴の異なる数多くのグループが存在しています。この手紙が書かれた頃はイスラエルを中心にごく一部の国々に限られていましたし、多くのグループに分かれていたわけではありません。ですから、この12節のたとえは私たち21世紀の教会の方が、より現実的に感じられるのではないでしょうか?カトリックもオーソドックスもプロテスタントも一つの体に属しています。すぐに一緒に何かできなくてもいいのです。理解できなくてもいいのです。しかし、できた事もあります。日本語のこの聖書はカトリックとプロテスタントが共同で翻訳したものです。

知らなくてもいいけれど、さばきあわないことです。脳細胞のーつが、胃の細胞に向って、「私は高級な働きをしているが、あなたは食べることばかり考えていて低級だ」とは言えません。胃が働いて栄養素をとり入れなければ脳細胞は働くことができません。あまりにも違いすぎて互いに理解できないのは当然です。しかし、この体を作られた神様だけはご存知です。

2) 聖霊はすべての隔てを取り除く

どんなに多くの器官があり細胞があっても調和が保たれていなければそれは一つの体とはいえません。そこで神様は、私たちが神様から一方的に与えられる賜物によって仕えるものとして下さったのです。それぞれのもって生まれた才能や引き継いだ財産によるのではありません。今日のテキストの直前の7−11節に書かれているように、神様が思いのままに「分け与えられる」賜物(プレゼント)なのですから誰も誇ることはできないし、与えられていないからと言って自分がセカンドクラスのクリスチャンだと思う必要はないのです。多くの器官、細胞から出来ているキリストの体のそれぞれの部分が、国籍や身分などを初めとする様々な違いがあっても、隔てが取り除かれ一つとなって、一つの目標に向かって心を合わせて前進して行けるように与えられている聖霊の賜物なのです。それなのに、コリントの教会はせっかく豊かに与えられていた賜物について誤った態度によって混乱に陥っていました。誤った態度とは、特定の賜物を強調したり、自分に与えられた賜物を誇ったりして他人を傷つけたり裁いたりする愛のない態度のことです。残念ながらこの傾向は現代の教会でも見られます。相互不信や対立は、違いを認め合えない私たちの愛のない態度が原因です。賜物を用いても、そこに愛がなければ相手を傷つけるだけです。それなら賜物を用いない方がまだましだと13章は教えています。

一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、 ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。(7-11)


3) 信仰、希望、愛の源である方の体

私たちは一つの体です、と強調してきましたが、それが誰の体であるかということをここでもう一度確認しておきたいと思います。キリストの体です。皆さんは神様の本質が何であるか、一言でいえますか?聖書には神様は何々であると漢字で一文字、アルファベットなら4文字で答えが書かれています。もちろん答えは「愛」です。イエス様は愛が人の形をとってこられた方ということも出来るでしょう。この体の一部として生きて働くということは、愛のために生きるということです。神様は私たちを愛するために、愛し合うためにお創りになりました。神様の私たち一人一人に対する、また体全体に対する愛が、私たちを一つからだとして結び合わせる求心力です。この愛が誰の愛よりも確かなものなので、私たちは、神様だけが決して期待を裏切らない方であり、誰よりも信頼出来る方として見上げながら、人生を歩むことができるのです。

B この体を健康に保つために

1) 聖霊に満たされていること

それでは、恵みによってその一部とさせていただいた、皆さんの属する器官が健康であり続けるために必要なことは何かを考えてゆきます。13節の最後に、「皆一つの霊をのませてもらったのです。」クリスチャンとなった時に聖霊がわたしたちの内に入ってきて下さったということです。ところが、クリスチャンとしての歩みを続けてゆくうちにいつの間にか、愛喜び平安といった聖霊のみを結ばなくなっている自分に気付いて愕然とすることがあります。これは一度きりのことではなく、求め続けるべきことなのです。聖霊を受けなさい、満たされなさいと聖書の多くのところで、そう勧められています。私たちが求めるべきことは、特定の賜物ではなく、むしろ聖霊に満たされることです。今私を聖霊が満たして下さっている、ということは感覚的に分かることもあれば、分からないこともあります。ですから満たされるように祈って感覚的には分からなくてもがっかりしてはいけません。それは最終的には、聖霊の実として表れるかどうかでわかるものだからです。感覚的に分かっても分からなくても、私たちは折にふれて聖霊の満たしを祈るべきなのです。

2) 一つの目的のために互いに仕え合うこと

先週、イエス様のこの世界に来て下さった目的は、私たちを神様と和解させるためだとお話しました。この目的のために、私たちは少し先に和解させていただいた者として、これからの和解のために働きます。聖霊の賜物はこの目的のために用いられる能力です。イエス様御自身も戒められたように、賜物を用いた個々の働き自体が目的なのではありません。先週、癒しにフォーカスしすぎてはいけないとお話しした全く同じ理由で賜物にフォーカスしすぎてはいけないのです。私が、癒しの集会、預言の集会といったものに賛成できない理由はここにあります。

ある人は特定の賜物を求めなさいとあなたに勧めるかもしれません。しかし、それは誤りです。11節にある通り、神様が望みのままに分け与えられるものなのです。私はこれが欲しいからお願いしますというものではないのです。しかしシリーズの題名になっているように、自分に分け与えられている賜物を知ることはできます。試してみることはできるのです。

こうして互いはそれぞれに異なった賜物を与えられ、それぞれの力を出し合って、神様の救いの計画のために互いに仕え合うのです。外に向かって働きかける役割を与えられている人もいます。しかしそのような人を育て上げるための教会内での働きや、祈りのサポート、経済的なサポートをする働きもあるのです。たとえば海外宣教は一人の宣教師がいれば出来るというものではありません教会の中での様々なサポートの働きがなければ出来ないのです。


メッセージのポイント

どんなにたくさん教派や教会があっても、キリストの体である教会は地上に一つしか存在していません。目に見える一つ一つの教会は全体の一部です。目に見える教会の一部とならなければキリストの体の一部にはなれません。この体は神の国を実現するためには働きます。神の国とは、神様の愛と義がなされるところです。私たちが互いに組み合わされて働き、自分のおかれているところに神様の愛と義を現すとき、そこに神の国は来ているのです。それはまだ完成には至っていませんが、日々拡大しています。

話し合いのヒント

1) キリストの体とは何ですか?
2) 一つの霊をのませてもらったとはどのようなことをさしているのでしょうか?


<子供たちに伝えたいこと>

1) 教会はキリストの体であること

2) それぞれは違っていても、子供を含めて組み合わされて働いていること

3) 違いがあっても神様の前に誰もが平等であること

4) 聖霊に満たされていることの大切さと、目に見えるしるしとしてのバプテスマの大切さ


<毎日の聖書・毎日の祈り>

<今回の教えのフォーカス> 

すべてのクリスチャンはキリストを頭とする一つの体です。組み合わされて一つの目的に仕えます。人は誰であれイエス様によって救われ、イエス様のもとに一つになれます。私たちを一つに保つのは主の霊です。肉体が水分を必要とするように、主の体は霊の水、聖霊に満たされていなければ生きていることはできません。聖霊に満たされ、互いに仕え合い、神の国の前進のために働きましょう。

10/8(月) 一つの霊によって一つに 12-13節、ヨハネ 7:37-39

世界中のイエスキリストを信じる人と共に、私はキリストの体の一部です。ユアチャーチの働きのために

10/9(火) 仕え合う:一つになる秘訣 12-13節、マルコ9:33-37

この体が健康であるために私たちは互いに仕え合います。世界中の教会の働きのために

10/10(水) 力の塔:キリストの体 12-13節、箴言 18:1-10

イエス様は、生きてゆく力を与えてくれる高いタワーのようです。皆がこの塔の元に集えるように

10/11(木) 民族、国籍・・・・違いを超えて一つに 12-13節、イザヤ56:1-8

神の国には何の差別もありません。自分の内にある差別意識がぬぐわれますように

10/12(金) バプテスマ:目に見えるしるしによって 12-13節、使徒2:36-38

キリストの体の一部になるということは、ローカルチャーチにつながること。洗礼はその目に見えるしるし

10/13(土) つきることのない霊の水を飲む 12-13節、出 17:1-7

生命を維持するのに水が不可欠なように、霊的な命を保つために聖霊に満たされることが不可欠です