October 21st,-27th, 2007 Vol.13 No.42

メッセージシリーズ 自分に分け与えられている賜物を知る <コリントの信徒への第一の手紙 12:12-31a>  (3/4)

共に苦しみ共に喜ぶ 12:23-26

<シリーズ全体の教えのフォーカス>
1) 聖霊の賜物について、それが何のために与えられているのか、どのように用いれば良いのか、どのような賜物があるのかを学ぶ。
2) この賜物についての学びを通して、私たちが互いの違いを乗り越えて一つの体として組み合わされて用いられることを学ぶ
3) 自分に与えられている賜物を知り活用することを学ぶ

 私たちは、それぞれ様々な複数の組織に属しています。その中で喜びを覚えることもあれば、落胆することもあります。人生はいろいろな悩みがありますが、組織に属していることによる悩み、人間関係の悩みは深刻です。例えば学校という組織に属していれば、同級生との関係、先生との関係。会社組織の中では、上司と部下の関係。そこから家に帰れば、家庭もまた組織であって、そこでは親と子の関係の中に生きています。このような一般的な人間関係と、教会における人間関係はどう違うのでしょうか?教会は神様が、世界に組織の最も良いあり方のお手本としてお建てになったものです。ここに理想の人間関係があるはずなのです。ところが残念ながら、そうは見えないことも多いのです。それは私たちがいまだに不完全な者たちであるからです。それでもここには希望があります。なぜなら、ここにはイエスキリストという完全な土台があるからです。完全な土台があれば、ここでもう一度、失敗から学び、もっとしっかりしたものを立て直すことができます。しっかりした土台のないところでは、何を建てても不安定で、遅かれ早かれ崩れ去ります。国家も会社も、家庭でさえも例外ではありません。キリストの体である教会がそれらと異なるのは、まだ不完全ではあっても、互いに愛し合いたい、受け入れ合いたい、赦し合いたい、助け合いたいという願いを持ち続けているからです。この願いを実現に至らせるためには、神様がどのようなものとしてこの組織をお作りになったのかを繰り返し確認することです。そうすれば、自分がどれほどそこから遠ざかっているか、気付くことができ、立ち帰ることができるからです。

A キリストの体の見栄えの良い部分?見苦しい部分?

1) 貴賤のない組み合わせ (23-24a)

わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。(23-24a)

社会には公式なものであれ非公式なものであれ階級があります。今でも身分差別がなくなっているわけではありません。神様は人を御自身に似せて創造されました。神様にとっては、地上での身分が貴族であろうと奴隷であろうと等しく愛して下さいます。今私たちが置かれている社会がどうであれ、神様の体である教会の中で、私たちの間では価値の違いはないのです。あるのは役割の違いだけです。私たちは自分の体の醜いと思われる部分を隠し、ちょっと自信のないところはメイクアップし、自信のあるところは、そのままを見せたいと思います。確かに私たちの目は自然と目立ったものに向かってしまいます。けれども教会では違うのです。イエス様が頭ではない組織の中では、あなたは尊い、おまえは卑しい、あなたは清い、おまえは汚れている、と決めつけられてしまうことがあっても、イエス様は決してあなたを、卑しい、みにくい、劣っているとは思われないのです。ただ、イエスキリストの体は、未だに不完全な赦された罪人たちで構成されています。だから、時々、頭であるイエス様の意思に反して、イエス様が愛してやまない兄弟を、姉妹を裁いて傷つけてしまいます。それは、この体全体の意思ではありません。だから、さばいてしまったら心から謝って赦してもらいましょう。傷つけられてしまったら、癒やされることは神様に求め、その人を赦しましょう。

2) 神様は弱い部分に特別な配慮をなさっておられる (24b)

神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。(24b)

神様の用いるスケールは私たちのものとは異なります。人々が軽んじ、その尊さを見出せない人に特別な配慮をなさり、用いて下さるのです。イエス様の弟子たちも初めはそのような人々でした。またイエス様は十字架にかけられる前にイスラエルに入られる時には堂々とした白馬ではなく子ロバに乗っておられました。皆さんは、いろいろな所で軽んじられたり、自分には価値がないと思いつめたりした経験があると思います。しかしイエス様はそのようにはあなたを見ないのです。このような慰めは他にはどこにもありません。この恵みを知った人は幸いです。この幸いを得た人は、自分自身が裁きから解放されているのですから、人を裁く必要もないのです。

B 目に見える愛の関係

1) 支え合う、補い合う (25)

それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。(25)

教会で私たちが経験できる健康な人間関係は、ただ裁き合わないという消極的なものではありません。互いに配慮するという積極的な関係です。裁きあわなくても互いに無関心であるなら、そこには愛がないという意味では、そこは教会ではありません。神様が私たちに、それぞれ異った賜物を与えて下さっているのは、私たちがイエス様を人々に伝えるためだけではなく互いに仕え合うためでもあるのです。神様が私に神様の言を解き明かす賜物を与えて下さったのは、私が牧師として成功するためとか、人に尊敬されるためではなく、その働きを通して人々を配慮するためです。お掃除の当番も、子供の教会のスタッフも、ワーシップリーダーも誰一人、自分の栄光のためにそれを行っているのではありません。互いを支え合い、補い合うために用いられています。実際に配慮し合う、支え合い補い合う教会であるためには、交わりがなければなりません。それがミニチャーチです。ユアチャーチはまだ50人に満たない小さな教会ですから、今のところはミニチャーチに頼らなくてもなんとか互いに知り合うことはできるかもしれません。しかし各部分が配慮し合うにはよく知り合う必要があります。時間がかかります。そして時間には限りはあるのです。ですから、わたしたちが互いに配慮し合うことができるように成長したいなら、一週間のうち2時間をミニチャーチのために確保していただきたいのです。神様はユアチャーチにもっと沢山の仕事をさせたいと願っておられると私は確信しています。そのためには、今ここに置かれている私たちがミニチャーチをもっと充実させておく必要があるのです。誰もが週に一度、教会の中で最も親しい人々と共に過ごせるように、火曜日から金曜日まで様々な時間に開いていればいろいろな人のニーズに応えることができます。

2) 喜びも苦しみも共にする (26)

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 (26)

 私たちはどんなに楽しいことをしていても、例えば歯が痛みだしたらそのことが気になって楽しむことができなくなってしまいます。家族の一人が苦しんでいれば、どんなことをしていても本当に楽しむことはできません。反対に苦しみの中にあっても、愛する人たちの誰かが人から感謝されたり、賞賛されたりすると自分のことのように誇らしくなってしまいます。

しかしこれは家庭に向けていわれている言葉ではありません。教会に向けて勧められている言葉なのです。つまり教会は大きな家族だということです。それは教会が、伝道であれ宣教であれ慈善であれ効率だけを追求していてはいけないということです。確かにイエス様は全世界の人々を弟子としなさいといわれ、その働きを教会に委ねられました。けれども私たちは家族としての機能も互いに果たします。「互いに愛し合いなさい」といわれている通りです。私たちの働きは、人々を神様の愛の家族に招き入れることです。わたしたちの内に愛がなければ、誰もこの交わりに入りたいとは思わないでしょう。ですから私たちは互いに愛し合うことと、人々を愛しすることの両方を追求します。大変難しそうだと思いませんか?それが可能となるのは、神様の愛に満たされ続けること、与えられている賜物を活かすことです。そのような歩みを私たちはどこから始めることができるのでしょうか?それは心からささげる週の初めのこの礼拝から始めるのです。

メッセージのポイント

人間の体と同様にキリストの体・教会にも、目立つ部分と目立たない部分、繊細な器官・タフな器官があります。そして繊細で傷つきやすい部分を守るための部分もあります。神様はあなたがどのような部分であっても、ご自身の大切な体の一部として愛しておられます。体のそれぞれの部分が互いに支えあい、喜びも苦しみも共にする、つまり愛し合っていなければ、一つの体とは言えません。

話し合いのヒント

1)キリストの体の中で心にかけて支えなければいけないのはどのような人々のことでしょうか?

2)この箇所で示されている、愛し合うことの具体例は?



<子供たちに伝えたいこと>

弱い部分にこそ、イエス様は心をかけておられる。

教会は助け合い、支えあうキリストの体。

教会は喜びも苦しみも共有するキリストの体。


<毎日の聖書・毎日の祈り>

10/22(月) 一人一人はずいぶん違う (23-26, 創世記49:1-28)

諸教会も個々のクリスチャンもイスラエルの各部族のようにユニークで大切な存在です。一致のために

10/23(火) 弱い部分を守り、大切にする神様 (23-26, 詩編109:26-31)

弱さ、貧しさを嘆くのではなく、神様の祝福と助けがあることを覚えて、神様を見上げて歩めますように

10/24(水) 弱い分を強くして、体を組み立てる神様 (23-26, コロサイ3:12-17)

忍び合い、赦し合うことによって、私たちの間にキリストの平和、キリストの言葉が豊かに宿りますように

10/25(木) 分裂しないで、配慮しかばい合う関係 (23-26, ヤコブ4:1-10)

主の前にへりくだることと、互いに謙遜であることが健康な関係の基礎です。そのような者として下さい

10/26(金) 苦しみをともにするということを考える(23-26, ガラテヤ6:1-10)

重い荷物でも力を合わせれば担うことができます。「あの人のために、私のできることを教えて下さい」

10/27(土) 喜びをともにするということを考える(23-26,フィリピ4:4-7)

私たちがともにする喜びの原点は、主がともにおられるという事実に基づいています