October 28th, - November 3rd, 2007 Vol.14 No.43

今週の子供たちに伝えたいこと ・ 今週の毎日の聖書・毎日の祈り 

メッセージシリーズ 自分に分け与えられている賜物を知る <コリントの信徒への第一の手紙 12:12-31a>  (4/4)

<あなた>がキリストの体。本当に?

- シリーズのまとめとして    1コリント12:27-31a; エペソ4:4-15; ヨハネ14:12-14

<シリーズ全体の教えのフォーカス>

1) 聖霊の賜物について、それが何のために与えられているのか、どのように用いれば良いのか、どのような賜物があるのかを学ぶ。
2) この賜物についての学びを通して、私たちが互いの違いを乗り越えて一つの体として組み合わされて用いられることを学ぶ
3) 自分に与えられている賜物を知り活用することを学ぶ


 
私たちは、今まで三週にわたって、コリントの信徒への第一の手紙12章からパウロに従って聖霊の賜物について学んできました。1)私たちがキリストの体と呼ばれるひとつの体として互いに結び合わされていること。 2)神様の愛と正義を自分自身の生活の中に、また世界にもたらすという目的を達成する異なった機能を果たすためにそれぞれが異なった賜物を与えられていること。 3)役割、賜物の違いを理解して、裁きあうことのないように勧められていること。 4)神様は、私たちの弱さを含めて、ありのままを愛していてくださること。そして、それゆえに私たちもまた共に喜び共に苦しみ、互いに愛し合い、支えあう者として召しだされている事。 などです。

 今朝、わたしたちがこのシリーズの最後の部分として取り上げるこの箇所は、シリーズの結論といえる部分です。それはただ章の最後だからということではなく、パウロがこの箇所を、賜物以上によく理解しまた求めるべきもっとも偉大なもの<愛>についての記述(13章)への架け橋として紹介しているからです。このことは普遍的に大切なことで、実際パウロはローマやエフェソの信徒たちにも同様に書き送っています。

 そして、この結論部分は単に抽象的なアイディアのようなもの、あるいは箇条書きされた指示書のように読むべきではありません。むしろ私たちに対する「あなたはどれほど真剣に、キリストの体の一部であることを認識しているのか?」という問いかけなのです。ただ、パウロは私たちにこの難題を押し付けているだけではなく、私たちがどうしたらそうなれるのか、そのためにどのようなことに注意をしたらよいのかをここで教えてくれています。

 それではまず全体を読んでみましょう

1コリント12:27-31a;

12:27 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

12:28 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。

12:29 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。

12:30 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。

12:31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

I. 「あなたがたはキリストの体」(27)

a. 奇妙なアイデア?

 パウロはとてもシンプルな言葉でこの部分を始めています。 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(27) シンプルすぎて、またここ3週間、「体」について学び続けてきたので、みなさんはすぐここの部分を通過して次の、異なった役割のリストについて学びはじめたいと思われるかもしれませんが、もう少し「キリストの体」ということを考えてみましょう。

わたしたちがキリストの体?神の御子イエス様のカラダ?ってどういうこと?パウロは妙なことを言うなあ、と思われるかもしれませんが、このことはパウロのオリジナルアイディアではありません。イエス様のアイディアをパウロが忠実に用いたのです。ヨハネの福音書の6章にはイエス様のこのような言葉が記されています。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。(54-57)

そしてまたこの言葉は私たちが聖餐式で聞く同じ手紙の11章24節の「これはあなたのための私の体である、私の記念としてこのように行いなさい」にも反映されているのです。

私は歴史学者になるための学びをしているのですが、私の一番好きな日本歴史の登場人物はフランシス・コザビエルです。スペインの高貴な生まれにもかかわらず、イエスキリストとの出会いによって、生涯を福音を宣べ伝えるためにささげ、インドそして日本にまでやってきました。16世紀のことです。彼の働きによって何人かの大名を含め多くの人がイエス様を信じました。

 最初に日本人にイエス様を紹介した人として、ザビエルは大きな壁を経験しています。文化や言語の壁ということももちろんありましたが、キリスト教という日本人にとっては未知なものを伝える困難のほうが大きかったと思います。中でも今私たちが学んでいる「キリストの体」の概念を伝えることは大変困難でした。ザビエルがこのことと聖餐について教えたとき、多くの日本人は、人の肉を食べ血を飲むなんて、なんて恐ろしい宗教なのだと誤解したのです。

 聖餐に与る事に関してキリスト教界の中では、そのとき実際にイエス様の体と血に与るのだという考えがある一方で、それはまったく象徴的な事柄、たとえに過ぎないのだ、という考え方もあります。私はその両方の考えに聞くべき点があると思いますが、どちらも私たちの理解に十分ではありません。ただ、聖書は聖餐に与ることがただ単に過去の事柄の記念やシンボル以上のことであることを示唆しています。キリストの「体」の一部となることは私たちにとって実際的な意味合いを持っているのです。

b. 本当はどういうことなのだろう?

それではなぜ、私たちがキリストの体の一部であることがそれほど重要なのでしょうか?キリストの体とはいったい何なのでしょうか?パウロはエフェソの信徒への手紙の中に、よい答えを用意していてくれました。4章の4-7、11-15節です

体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。 しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。(5-7)

そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。(11-15)

 ここにはコリントの信徒への手紙と同様の内容が書かれていますが、注目したいのは13節で、ここになぜ私たちがキリストの体になるのかという理由が明らかにされています。私たちがひとつの体に組み合わされているのは、私たちが「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」ためなのです。私たちが読みすごしてしまわないように、パウロは念を入れて15節で「あらゆる面で頭であるキリストに向かって成長していきます」と少し言い方を変えて繰り返しています。

 キリストの体の一部となるということは、ただ単にイエスキリストを信じ彼に従う人々の一員となるだけではなく、実際にイエスキリストに似たものとして成長していく、ということなのです。パウロが言ったように私たちはそれぞれが異なった部分ではあるのですが、大切なのは私がどんなパートなのかを知ることではなく、頭であるイエス様に似たものと成長してゆくことなのです。

II. 様々な賜物(28)

a. ただの役割?それとも…

イエス様に似たものに成長するために、私たちが体の一部であるとすれば、28節の役割の違いのリストはより深い意味を持っているということになります。

神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。

8月19日のメッセージでとりあげているので、今日はこのリストを細かく見てゆくことはしませんが、少しだけ復習しておきましょう。聖書で使徒といえばイエス様の最初の12人の弟子たちを指すことが最も多いのですが、初代教会に時代には
「使者として送り出された者」「メッセンジャー」という意味でもう少し広く使われました。それでパウロもまた使徒と呼ばれたわけです。まさに異邦人のための使徒として送り出されたわけです。この意味でザビエルも日本に使わされた使徒といえるでしょう。

預言者は神様の言葉を預かって人々に語る者です。それは必ずしも未来のこととは限りません。そこで聖書では「予言者」ではなく「預言者」と表現されるのです。

教師は、パウロが知恵の言葉知識の言葉と表現している賜物を用いて聖書の指針を人々に教える者のことです。多くの牧師はこの賜物をもって仕えているといえるでしょう。今日皆さんに注目していただきたいことは、イエス様ご自身はこれらのすべての役割を担われたということです。神様が世界に派遣した最初の使者であり、よい知らせをもたらすメッセンジャーでした。神様の言葉を誰もかなわない知恵と知識を持って教えました。奇蹟をなさり、癒しをなさり、助け手であり、リーダーでした。

キリストの体の一部であることは、ただ組織の部分として存在しているだけでないということ。役割のリストは各部分の機能の説明以上のものであること。キリストのに姿へと成長させられていくことを学んできましたが、パウロはここで、このことを可能とさせる大切なことについて教えようとしています。

b. イエス様が与えてくださる力と権威(ヨハネ14:12−14)

それはイエス様が地上を去られた後に弟子たちに必要なものです。ヨハネによる福音書14:12-14を読んでみましょう

はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

この言葉を始めて聞いたとき私は「これはすごいぞ、ほんとうに?」と思いました。とても力強く、驚くべきことだと思ったのです。そしてイエス様がその権威と力を信じる者に与えてくださるのだから、そうなれるのだと思いました。つまりはイエス様が下さる権威と力が私たちを、使徒、預言者、教師、奇跡を行う者、病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者になることを可能にするということです。

III. パウロの励ましと忠告 (29−31a)

 パウロはこの部分の最後で指示と警告をコリントの人々に与えていますい

12:29 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。

12:30 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。

12:31 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

ここでパウロは、私たちがキリスに似たものへと成長してゆくことを妨げる陥りやすい二つのわなを指摘しています。

a. 熱心でいなさい!(31a)

 そのひとつは「無関心」です。最後の節でパウロはただ求めなさいではなく、「熱心に」求めなさい、といっています。誰にでも当てはまると思いますが、どんなに強力で衝撃的な事柄でも私たちはやがてそれに慣れきってしまいます。先にお話したように、自分がキリストの体の一部である、という認識についてもそうなのです。私たちが、もっと熱心にキリストの体の一部であることを求めるなら、本当にイエス様の似姿となってゆくことを求めるなら、イエス様が用いられた賜物を頂いて用いようとするなら、そして私たちに与えられている力と権威を行使するなら、この熱心はとてつもなく素晴らしい結果をもたらすでしょう。ザビエルの生涯にそれが現れているように、私たちの生涯にも素晴らしい結果をもたらすはずです。

b. 「力」に気をつける(29−30)

 もうひとつの罠は、「力」です。皆さんは私がここまで、私たちがキリストの似姿になるという結果をもたらす大きな力について話してきたのに、「力」に気をつけなければならない、というと妙に感じられるかもしれません。しかしここで私たちはパウロが「人々に対して、力を持ち使うことがキリストの似姿になるということではありません」とコリントの人々に告げていることに注目しなければなりません。実際、この思い違いがコリントの教会の深刻な問題だったのです。ある人々は自分に与えられている賜物や役割を誇って、ほかの人々を見下しました。それによって分裂や上下関係、差別待遇などが起こったのです。イエス様のようなものとなるためのポイントは、イエス様の力が私たちのうちに働くことをもとめることです。その力は愛の力です。それが私たちのうちに、私たちの周りの人々の中に働くことをも求めましょう。それで私はみなさんがこの部分の学びを終えるにあたって、この後に続く部分を読むことをお勧めしたいと思います。31節の後半とそれに続く「愛の章」と呼ばれる13章です。31bには、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」といっています。

私がもう一人思い浮かべるキリストの力を体現した信仰のヒロインは、カトリックの尼僧です。ザビエルと同様、ヨーロッパで生まれた彼女は、インドの貧しい、病の苦しみの中にある人々のために働きなさいとの、主の声を聞いたのです。カルカッタのマザーテレサです。彼女が実際に手を差し伸べられたのは、カルカッタのごく一部の苦しむ人々でしたが、世界中の人が彼女を知り、その働きに心を動かされたのです。彼女はそのように大きく用いられた人でもあるにもかかわらず、彼女自身は大変謙虚な心を持っていました。賞賛の声に対しては「私はただイエス様がしなさいとおっしゃったことをしたまでであって、何も特別なことをしたわけではありません」と答えていました。

もちろん私たちのほとんどは、彼女のような働きに召されているわけではありません(この中には、そのような働きに召されている人がいるかもしれませんが)。しかし彼女も私たちも同様に、体の一部になるということに召されているのは同じなのです。


メッセージのポイント

「キリストの体である」という事はただの例えでもシンボルでもありません。それは私たちが実際にイエス様ご自身になろうとしていることを表しています。同じように、パウロが教会の中での様々な賜物について語るとき、彼はただ色々な役割のリストを作っているのではありません。それは私たちがもっとイエス様のようになるための実際的な方法を示しています。パウロは私たちが熱心にキリストの体として成長することを求めるとともに、その目的が「力」ではなく「愛」であることを忘れないように勧めています。



<子供たちに伝えたいこと>

私もキリストの体の一つの部分として用いられているという意識

与えられた賜物を用いて、未来の教会を担ってゆくという夢を持つこと

あらゆる賜物よりももっと大切なもの、「愛」


<毎日の聖書・毎日の祈り>

10/29(月) 私たちはキリストの体、一人一人はその部分 (27, エフェソ1:15-23)

あなたがこの体に属していること、この体にイエス様の霊が満ち満ちておられることを感じられますか?

10/30 (火) 皆で担う教会の機能 (28, ローマ12:3-8)

ユアチャーチで、自分以外のそれぞれの役割を与えられている人々について主に感謝しましょう

10/31(水) 皆が同じ働きをするのでは教会にはならない (29, エフェソ4:7-16)

それぞれが自分の分に応じて誠実に仕えてゆくことができますように

11/1(木) 与えられていない賜物について(30, 創世記4:1-7)

人の賜物を見て劣等感や嫉妬を感じたことはありませんか?このことからから解放されるように

11/2(金) 新しい賜物を発見する(31a, 出エジプト記3:7-12)

考えてもみなかった賜物が与えられているかもしれません。勇気を出して新しいことに踏み出しましょう。

11/3(土) 愛がなければ(31b-13:3, 1ペトロ4:7-11)

賜物が豊かに与えられている人が多くても、愛によって結び合わされていないなら、主の体ではない