November 4th, - 10th, 2007 Vol.14 No.44
今週の子供たちに伝えたいこと ・ 今週の毎日の聖書・毎日の祈り
アブラハムに学ぶ
<生涯をかけて召命に応える生き方>
<シリーズ全体の教えのフォーカス>
旧約聖書の代表的な信仰者の歩みから、私たちの歩みにおける基本的な態度を学びとる。また彼らが不完全ではありながらも、やがて来られるイエス様の道備えをしていたことを学び、わたしたちは再臨されるイエス様の道備えをする者となれるように祈り求める。
<今回の教えのフォーカス (メッセージのポイント)>
神様を信じ洪水後の人類の祖となったノアの子孫たちは、全地に散り、みな神様を忘れそれぞれに神々を想像して偶像を拝む生活を何世代にもわたって営んでいました。神様はもう一度御自身を一人の人に表されました。アブラハムです。アブラハムは、神様の声に聴き従い、住み慣れた生まれ故郷を離れ、まだ見ぬ約束の地を目指して旅立ちました。今、私たちがたったお一人の神様を知っているという恵みは、アブラハムが突然の神様の召命に応え、神様の言葉を信じて歩みだしたことによって与えられたものです。
A 神様の呼びかけに応えて歩みだそう
1) 未来に向かって歩みだす (12:1-6)
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。(1) わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。(2) あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(3) アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。(4) アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。(5) アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。(6)
淡々とした記述ですが、ここにはいくつかの驚くべき点があります。ひとつは彼の名前です。私は「アブラハム」の生涯を紹介すると言いましたが、ここには「アブラム」とあります。そうです、アブラハムは99才になるまで、アブラムと呼ばれていました。アブラムとは民の父という意味です。しかし、この12章の時点では、彼はまだ民の父ですらありませんでした。自分の父に属する者であり75才になっていながら孫はおろか子供さえいなかったのです。この時代の人々にとって、それは「人生の負け組」であることを意味しました。彼には妻がおり、財産もあったようです。しかし先の希望はありませんでした。第二のことは、こんな老人に神様が驚くべき呼びかけをなさったということです。「住み慣れた土地を去りなさい。代々の家からも離れなさい。私が示す地に行きなさい。三番目は、75才の老人が神様の呼びかけに応えて出発したということです。しかも、出発の時にはまだその地は知らされてはいません。方向だけを知らされていたのでしょう。知らされたのは、その地に足をふみ入れてからだったのです。(12:7)
実は神様はあなたにも同じように呼びかけておられます。私に従って来なさい。ここにはクリスチャンである方も多いのですが、クリスチャンは皆、少なくとも一回はこのアブラハム的体験をしているのです。それが何才の時であれ、それまでどのような人生を送ってきたのであれ、今まで築いてきたものを顧みず、神様の呼びかけに思い切って方向転換して歩み出したのです。クリスチャンは聖書を通してなされたイエスキリストの呼びかけに応えて、神様の示す地を目指して歩んでいる者です。
あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。 それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」(使徒3:25-26)
ここで僕とあるのはイエス様のことです。私たちもこのイエス様に出会って、行く先を知らずに歩み出しました。神の国に向かって、とは聞かされていてもそれがどのような所かは想像するしかないし、どのような道を通されるのかも知らされてはいません。それでも決心し歩み続けられるのはなぜでしょうか?ヘブライ人への手紙ではこのアブラハムの決心を次のように紹介しています。
信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。 アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。 信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。 それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。(ヘブライ16:8-12)
ここで教えられることは、まだ知らない場所に向かって歩むということは神様が私たちの心に植え付けて下さった信仰によってなし得るのだということです。信仰とは、儀式を正しく行うことでも、宗教的教義を信じることでも、聖ありません。信仰は神様に対する信頼です。私たちは、アブラハムが「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都」を待望していたように、神の国を待ち望み、そこに向かって地上の旅を続けています。
現代のアブラハムを紹介したいと思います。ユアチャーチを始めるきっかけの一つはハワイのホープチャペルという教会のモア牧師との出会いでした。彼は最初からハワイにいたのではありません。既にカリフォルニアで活動的な大きな教会、最初のホープチャペルを創始者として導いていたのです。人間的に考えるなら、生涯そのオリジナルホープチャペルにいることが、一番苦労もなく心配事もない道だったのです。けれども、神様は彼に突然呼びかけられ、教会を信頼できる仲間に委ねて、エアコンの効いた数千人の人々が集う大会堂ではなく、ビーチパークで数十人の教会を始めました。彼がこの神様の呼びかけに応えたことによって、ハワイにホープチャペルが始まり、その働きは世界中に数百の牧師が教会を始める母体となったのです。ユアチャーチもその一つなのです。
2) 困難の中でも歩み続ける (12:7-9)
主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。 アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。(創世記12:7-9)
カナン地方に入り、そこが約束の地だと知らされてもアブラムの旅は終りません。それどころか困難は次々にやってきます。13章から16章に記されていますが今日はそこを読むことはしません。ただ一か所だけ覚えておくべき言葉を紹介したいと思います。それは15章の6節です。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」という言葉です。神様が約束の地を示されても旅は続いています。どんなに「あなたの子孫が繁栄する」と約束されてもまだ子供は一人もいません。神様は満天の星をアブラムに見せあなたの子孫はこのようになると語られました。アブラムはそれを信じて義とされたのです。アブラムが見えないから、分からないから、現状は厳しいから、あり得ないと思われるから、もうやめてしまおうと考えたなら、イスラエル民族は起こらなかったのです。
皆さんの中にも困難の中に置かれている人がいるでしょう。しかし神様を見上げて歩み続けることができます。そしてその先には大きな祝福が待っています。その障害が病であれ、経済的困難であれ、人間関係であれ、あきらめないで、励まし合いながら、支え合いながら前進してゆきましょう。ユアチャーチはそのような仲間の集まりなのですから。
B 道の半ばでも語られる言葉に耳を傾けよう
1) 信頼と服従(17:1-2)
アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。 わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」(創世記17:1-2)
神様に対する信頼と服従はコインの裏表のようなものです。信頼している神様だから、私たちは強いられてではなく喜んで従ってゆきます。それによって私たちは「全きもの」になります。この言葉と同じ意味の言葉をイエス様もおっしゃっています。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:43-48)
アブラムは75歳で旅立ち、この時点では99歳になっています。24年間、乱暴な言い方をするなら神様に引き回されてそれでもまだ安住の地でのんびりと暮らしてはいないのです。多くの人は「完全な人生」の意味を取り違え、見果てぬ夢を老い続け満足が出来ません。完全な人生とは、物質的にも精神的にも不足なく充実しいるということではないのです
完全とは、神様と全く同じようにやりなさいということでもありません。それはわたしたちには不可能です。
完全な者になりなさいとは、完全な方を目指して、遅くても歩き続けなさいという意味です。神様を信頼し従って歩むことによってあなたは、正しい者、完全な者と見なされるのです。
2) すべての人を祝福する神様の計画に用いられる幸い (17:3-7)
ついに神様が名前を変えなさいという時が来ました。
アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。 「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。 あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。 わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。 わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。(17:3-7)
ここに書いてあることは、神様がアブラハムに彼の想像以上の役割を与えたということです。改名の意味は、アブラハムへの祝福が、一民族の中だけにとどまるのではなく、多くの民に広がる、ということです。そして、このことはイエス様が来られたことにより実現しました。十字架による罪の赦し、神様との関係回復は、イスラエル民族に限定された神様の恵みではなく、あらゆる人々に、求める者には誰にでも与えられる恵みとなったのです。
アブラハムは神様に忠実に従い、歩み始めました。彼の役割は十分果たせましたが、完成を見ることはありませんでした。今月紹介してゆくヤコブもヨセフもモーセも民を大きく前進させましたが、自分が目的地に入ることはできませんでした。あなたが人生を自分のものと見るならば決して、人生を満足することはできないでしょう。しかし自分の人生が神様の尊い働きの一部であると知るなら、多くの人があなたの歩みによって神様の祝福を受け、あなたは生涯を終える時に「私は神様の導きに従って歩み通せた」と満足することができるのです。
メッセージのポイント
アブラハムは神様の呼びかけに応えて、相続権のある土地を捨て、神様が示して下さるという未知の場所に向かって出発しました。私たちの人生もまた、魂の旅なのです。大切なことは、神様の呼びかけに応えて歩み続けることです。どこに連れてゆかれるのだろう?どんなルートを通されるのだろう?いつ到着するのだろう?疑問や迷いはいくらでも湧いてきます。しかし私たちは神様ではありませんから、この答えは進んでゆかなければ分からないのです。神様の計画を信頼し、神様の声を注意深く聴きながら歩むしかありません。
話し合いのヒント
1) なぜアブラハムは神様の声に応えて、自分が相続できる地を捨て、まだ見ぬ約束の地に出発することができたのでしょうか?
2) 私たちは、何を捨て、どこに向かって進めば良いのでしょうか?
神様の呼びかけに応えて歩むことが私達の使命であること
使命に忠実な者に豊かな恵みを持って報いて下さるということ
神様の召命の声を期待し注意深く聞こうとする態度
11/5(月) 行きなさい! 神様を信じ、祝福に向かって 12:1-3、使徒 3:25-26
神様はすべての人の祝福を願われる。だが祝福は歩みださなければ受け取れない。信じて歩みだせるように。
11/6(火) 神様の声に応えて歩み出す 12:4-6、 ヘブ11:8-16
神様の促す声を聞いたら、初めの一歩を踏み出そう。それはあなたとあなたの周りのすべての人の祝福の始まり。
11/7(水) 不可能に感じられる中でも歩みを続ける 12:7-9、 詩編 119:81-88
罪に満ちた世界を歩む以上、高速道路のように単純に約束の地に向かうのではありません。忍耐を祈りましょう。
11/8(木) 歩みの半ばに再び呼びかけられる神様 17:1-2、 マタイ 5:43-48
神様に対する信頼、服従ということにおいて、全き者(完全な者)となることができますように。
11/9(金) さらに大きな計画が明らかにされる 17:3-6、ガラ 3:7-14
救いの計画は民族を超えてすべての人に及ぶ。自分もまたこの遠大な計画のうちに用いられることを祈りましょう。
11/10(土) 新しい契約の予告 17:7-8、 ガラ 3:15-20
恵みはイエス・キリストを通してすべての人に与えられます。この約束に私たちの愛する一人一人が与れますように