November 18th, - 24th, 2007 Vol.14 No.46


旧約聖書の四人の信仰の先人に学ぶ(3/4) 創世記37:3-11,45:4-8,50:19-21

ヨセフに学ぶ<神様にゆだねきった人生> 

<シリーズ全体の教えのフォーカス>

旧約聖書の代表的な信仰者の歩みから、私たちの歩みにおける基本的な態度を学びとる。また彼らが不完全ではありながらも、やがて来られるイエス様の道備えをしていたことを学び、わたしたちは再臨されるイエス様の道備えをする者となれるように祈り求める。

A 人の目から見たヨセフの生涯

 先週マーティンがヤコブの物語からメッセージしてくれましたが、今朝はその息子のヨセフの生涯から学んでゆきたいと思います。ヤコブはイスラエルという名前を与えられ、イスラエル民族の父祖とされました。イスラエルは十二部族の部族から構成されましたが、それはヤコブの12人の息子が部族長となって始まったわけです。しかし今朝取り上げるテキストは彼らの父ヤコブが健在だった12部族が成立する前の出来事です。神様はアブラハムに約束したカナンに、その孫のヤコブを住まわせ、彼らは牧畜を営んでいました。今朝の主人公ヨセフは、ヤコブの11番目の息子です。年を取ってから生まれた子供を甘やかしてしまうのは、いつの時代も、どんな文化圏でもかわらないようです。ヤコブもヨセフがかわいくて仕方がなかったようで特別扱いだったことが、兄たちに憎まれる原因でした。しかも、困ったことにヨセフは兄たちを怒らせるような夢をよく見て、それを遠慮なく話してしまうという癖があったのです。創世記の37章3-11節を読みましょう。

イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。(3)

兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。(4)

ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。(5)

ヨセフは言った。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。(6)

畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」(7)

兄たちはヨセフに言った。「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか。」兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ。(8)

ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」(9)

今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った。「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。」(10)

兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。(11)(創世記37:3-11)

この二番目の夢にはさすがのヤコブも、ヨセフを叱りました。しかし、ヤコブはその夢がただヨセフの思いなのではなく神様の計画に属するものだと感じて心に留めたのです。イエス様の母マリアも同じような経験をしています。イエス様が12歳になった時に神殿の境内で学者たちと話し込んでいたために、迷子になったかと思い見つけ出した時に、イエス様のした言い訳の意味が分からず、とりあえず心に納めていたという記録があります(ルカ2:41-51)。

 神様は年若いヨセフを用いてご計画を進めようとしていました。しかし神様の視点ではなく人の視点で彼の生涯を見るならば、誰も彼のような生涯をたどりたいとは思わないほど大変な人生が始まろうとしていました。兄たちの中にはヨセフを殺してしまいたいと思うほどに憎んでいたものもいました。

 ある日ヨセフは、兄たちが羊を飼っている所に父の言いつけで彼らの様子を見に行きます。兄たちは父の家から二、三日の道のりのシケムというあたりで放牧をしているはずでしたが行ってみるともう一日の道のりのドタンという所にいました。兄たちは、ヨセフを売りとばしてしまう事にしましたが、結局ミディアン人の商人たちに連れ去られ、エジプトで奴隷となってしまいました。ところが、その家の主人に信頼され、その家の一切をとりしきる使用人の長にまで登りつめます。ふつうのテレビドラマならその辺でハッピーエンドの最終回となるのですが、神様のドラマはもっと壮大です。ヨセフの地位は主人の妻が彼を誘惑するという事件で失なわれます。彼は誘惑を退けましたが、主人の妻の偽証で牢に入れられそこに数年留めおかれます。しかしここでまた彼の「夢」に関連する賜物が発揮されました。彼の賜物は自分で見るだけではなく人の見た夢を解き明かすようになっていました。今度は王の夢を解き明かすことによって、王様から信頼を得て、王に次ぐ地位を得ます。人の目で見るなら波瀾万丈のドラマというところですが、それは神様の深い計画でした。ヨセフがすぐれたリーダーとしてエジプトを飢饉から守ったことが、兄弟たちとの再会、そしてイスラエル民族をも飢饉から救うことになりました。

B 神様の計画の内にあったヨセフの生涯

1) イスラエルを危機から救い、民族としての基礎を固める神様の計画 (45:4-8)

さて皆さんはこのヨセフの生涯をどう思いますか?特にその人生の前半は、本人の意思とは関係なく人々のはかりごとによって、命の危険にさらされたり、牢に入れられたり、大変な目に遭うことの連続でした。それでも彼がいつも前向きにいられたのは、絶望的な局面を自分で切り開かなければならないのではなく、神様に従って行けば間違いはないのだと、とその時々に知らされていたからです。それはあなたの人生にとっても同じことです。思いがけない出来事に、心がすっかりなえてしまうこともあるでしょう。しかしすべてのことは神様のコントロールの中にあることです。神様はあなたにたえられないような試練を与える方ではありません。神様はあなたを滅ぼす計画ではなくあなたを活かす計画を持っておられます。そして注意深く歩むなら、神様は時々にその導きの手を垣間見せて下さいます。45章4-8節を読んでみましょう。

ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。(4)

しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。(5)

この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。(6)

神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。(7)

わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。(8)

私は8節の考え方をヨセフ思考と名付けました。このヨセフのような考え方ができれば、あなたのボスがあなたを嫌って首にしても、あなたが好きな人に嫌われてしまっても、物事が思い通りに行かなくても失望することはありません。人間の目で見ればものすごい遠回りに見えても、神様の計画なのです。自分が神様のよい計画の中に置かれていることを信じられるほど平安なことはありません。この平安を奪い取ることのできるものは誰もいないのです。あなたはそれを信じますか?サタンはどうでしょうか?神様の計画を台無しにすることができるでしょうか?サタンがあなたにつけ込める可能性はたったの一つの場合でのみ起こります。それはあなたが神様を信頼していない場合です。神様が信頼できない人にサタンは様々な方法でささやきます。物事がうまく行っている時にはこうささやきます。「神様を信じなくてもあなたが思い通りやればそれでいいのですよ。神様なんていないのだからあなたの思い通りに生きれば、誰がどう思おうとかまわないですよ。」 絶望している時には、「もう人生はあきらめなさい、早く死んでしまった方がまだ楽かもしれませんよ」

 ヨセフは生活が順調なときもどん底にいるときもサタンには耳を貸しませんでした。サタンに耳を貸してしまえば、心の中が、苦い思い、後悔、怒りで満たされ、それは人を傷つけ、悲しませる自己中心的な行動となって外に表されます。対照的に、兄たちはヨセフが行方不明になってから、後悔や恐れに心を支配されていました。もし彼が生きていてまた再会することがあれば、自分たちにどんな復讐をするだろうか?実際に思わぬ形で再会した時、強大な国の指導者となっていたヨセフは、彼らをどうすることも出来たのです。

2) 神様に生涯を委ねることのできた人の幸い (50:19-20)

ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。(50:19-20)

ヨセフは自分が受けた仕打ちについて、多くの人がするような考え方をしませんでした。やられたようにやり返してやる、同じ目に遭わせてやる、怒りをエネルギーとするように溜め込んだりはしませんでした。どんな境遇でも神様の恵みを信じて委ねていたのです。聖書にはあまり書かれてはいませんが、ヨセフ自身完全なヨセフ思考が出来たわけではないと思います。完全なヨセフ思考ができるのはイエス様です。その御性質には全くふさわしくない十字架の死という最後を受け入れて、私たちの救いとなられました。上着を求められたら下着もあげてしまいなさいとか、右の頬を打たれたら、左も向けてやりなさいとか、何度でも赦してやりなさいとか、イエス様がおっしゃる理想的な考え方には、とてもついてゆけないと思ってしまいます。しかし、そんなことはできっこない、と考えてはいけません。例えば、なかなか消えない怒りをそのままにしておけば、それは永く残ります。さらに燃え上がるかもしれません。しかしヨセフ思考を採用して「いや、このことも神様は益に変えて下さる」と思い続けるなら、あなたは自分の人生が実は、苦しい、悲しい、腹立たしいものではなく、祝福された、恵まれたものだと再発見することができるでしょう。

メッセージのポイント

ヨセフのような波乱の人生を送る人は多くありませんが、誰にとっても人生に起きるすべての出来事は、神様の深い計画の内にあります。神様は、人々のあなたに対する良い態度も悪い態度も、益に変えることがおできになります。私たちが神様を信頼して人生を委ねるなら、イエス様に似た人として人生を歩むことができます。神様はあなたを、どんなときでも神様を信頼して平安のうちに歩める人、隣人を赦すことのできる人、人々の危機を神様からいただいた知恵によって救うことのできる人、祝福をもたらす人として歩ませたいのです。

話し合いのヒント

1) なぜヨセフは何度も絶望的な目に遭いながら、前向きに歩めたのでしょうか?

2) ヨセフの生涯はあなたに何を教えてくれていますか?