November 25th, - December 1st, 2007 Vol.14 No.47


旧約聖書の四人の信仰の先人に学ぶ(4/4)

モーセに学ぶ<召命に生きる人生>

<シリーズ全体の教えのフォーカス>

旧約聖書の代表的な信仰者の歩みから、私たちの歩みにおける基本的な態度を学びとる。また彼らが不完全ではありながらも、やがて来られるイエス様の道備えをしていたことを学び、わたしたちは再臨されるイエス様の道備えをする者となれるように祈り求める。

A 自分の願いか?神様の召命か?

1) 神様の深い計画と人間の軽はずみな行動 (出エジプト記1-2章、使徒言行録7:17-29)

 先週、ヨセフの話をしました。神様がその深い御計画によって、ヨセフをエジプトの権力者とさせ、民族を飢饉から救いエジプトに定住できたということでしたが、今日お話しするモーセは、その出来事からおよそ300年後に生まれた人です。ヨセフの威光は遠い昔のことになっていました。この時代、エジプト人にとっては、ユダヤ人は、国内でその人口を増やし続ける異民族として警戒されていたのです。エジプトは労働力としてユダヤ人を使い続けたい一方で、彼らの人口抑制を図りましたが、なかなかうまくはいかず、ついには生まれてくる男児はナイル川に投げ込めと命令するまでにエスカレートしてゆきました。そんな時代にイスラエル人の男の子として生まれたモーセを両親は三ヶ月の間、隠して育てましたが、隠しきれなくなりナイル川に、かごに乗せて流します。彼を見つけ不憫に思い引き上げたのはエジプトの王女でした。王女は彼をモーセ(水の中から私が引き上げた、という意味)と名付け、実の母親に賃金を払って育てさせ(王女がモーセを引き上げるのを見ていた、モーセの姉が機転を働かせて、そのように事を運びました)、大きくなってからは自分のもとで育てました。初代教会の最初の殉教者ステファノによるダイジェストで読んでみましょう。 (使徒言行録7:17-29)

神がアブラハムになさった約束の実現する時が近づくにつれ、民は増え、エジプト中に広がりました。 それは、ヨセフのことを知らない別の王が、エジプトの支配者となるまでのことでした。 この王は、わたしたちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。 このときに、モーセが生まれたのです。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、 その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです。 そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました。 四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。 それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです。 モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。 次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』 すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。 きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』 モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました。(使徒言行録7:17-29)

モーセは自分の出自を知って、ユダヤ人の置かれた過酷な状態を見て心を痛めました。しかし、彼の未熟な正義感が起こしたこの事件は事態を解決するためにはあまりにも無力でした。モーセの生涯は120年ですが、この出来事が起こったのはモーセが40歳になったときの出来事です。この出来事によってモーセはここから40年間の亡命生活を余儀なくされるのです。

 どんなによい志を持っていても、神様の意思を求めずに自分の判断や意思、ましてや感情で物事を始めても決してうまくいかないのです。

2) 召命によって生きよう (出エジプト記3-4章、使徒言行録7:30-36)

ある日、もう老境に達していたモーセに神様は初めて語りかけられます。指導者として解放者として、あなたをエジプトに遣わすと。それならもっと若かった時に、そう言って下さればよかったのにとモーセは思ったことでしょう。しかし神様はそのご計画通りに事をはこばれます。神様はモーセにアブラハム以来の重要な務めを与えようとしていたのです。それは、私たちの社会で求められる若い時の力でもなく、壮年の知恵や経験を加えた総合力でも果たすことのできない困難なものでした。この大事業を可能にするのは、情熱でも能力でもなく、「召命を確信して従う心」です。

神様のモーセに対する語りかけを、やはりまた、ステファノの説教から聞いてみましょう。

四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました。 モーセは、この光景を見て驚きました。もっとよく見ようとして近づくと、主の声が聞こえました。 『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』と。モーセは恐れおののいて、それ以上見ようとはしませんでした。 そのとき、主はこう仰せになりました。『履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。 わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』 人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。 この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。(使徒言行録7:30-36)

神様はここにいる皆さん一人一人によい計画を持っておられます。それはモーセに与えられたような映画になるような壮大なものではないかもしれませんが、あなたに最もふさわしい計画が用意されています。モーセのように直接、語りかけられることはないかもしれませんが、祈りながら誠実に仕えてゆくならば、これこそ私に対する神様の召命と気付く働きにたずさわることができます。「召命」は特に牧師や宣教師となる決心を与えられることを指して用いられることの多い言葉ですが、神様が仕事を与えられるのは彼らだけではありません。たとえフルタイムの働きでなくても、クリスチャンであるなら何らかの召命を受けているのです。たとえば、この教会のメンバーとなるにはクリスチャンであることと、ユアチャーチカヴェナントの3つの誓いを守ることのふたつの条件があります。これが私たちの基本的な召命です。メンバーの一人一人はこの基礎の上に自分のなすべき務めを果たします。どこの教会のメンバーでもないというのはクリスチャンとしては不自然な状能です。そして、目に見える一つの教会に属するということは、自分がキリストの体のこの部分に属するものとして、神様に召し出されているということなのです。

あなたに「召命に従って」このことを行っているという自覚があるなら、困難に負けず、気分に左右されず、感情に流されずに、神様と同じ体に属する神の家族に対して誓ったカベナントに忠実に生きることが出来ます。

B 召命に生きる者

1) 召命に生きる者の労苦

モーセの歩みをたどると、召命に従って歩むことはそれほど容易ではないということがわかります。神様の働きを喜ばない者は様々な方法で、妨害を試みるからです。

敵対者の妨害

何かを変えようとすると、必ずそれに反対する者が立ちはだかります。ファラオは安い労働力を失いたくなかったので執拗にモーセに対抗したのです。召命を受ける前のモーセであればあきらめてしまっていたかもしれません。しかしモーセは、そのたびに、神様の声を聞いてはげまされ、民はエジプトを出ることができたのです。

仲間の不信仰

召命に従って歩むのを邪魔するのは、敵ばかりではありません。モーセからしてみれば感謝されて当然のイスラエルの民も、モーセを通して伝えられる神様の意思に文句を言い、エジプトでの生活の方がまだましだとモーセを非難しました。この人々のために、と行っていることを敵から妨害されるのはともかく、その人々から余計なお世話と言われるのでは誰でもがっかりしてしまいます。あなたもそのような経験を持っているのではないでしょうか?神様の働きをクリスチャンが邪魔してしまうことも、残念ながら起こることです。

どのような労苦に見舞われても、たゆまず歩み続けることができるのは、神様があなたを召し出されたという事実です。神様に敵するものは誰もいません。自分が神様の言葉を聞き間違え、あるいは曲解して自分勝手な道を行くなら神様は応援しては下さいません。しかしあなたが神様に聞きながら歩んでいるなら、どんなに険しい道も歩み通すことができます

2) 召命に生きる者の喜び (申命記5章、31-34章、)

もちろん召命に生きる歩みは苦しみばかりではありません。それに勝る喜びがあります。

80歳となり召命を受けたモーセは、もう自分勝手に歩む若者でも、自信満々の壮年でもなく、経験は有っても自分の弱さと限界を知っている老人でした。 

 神様はこのような人を用いて人類にとってもっとも基本的な10の戒めを教えて下さったのです。召命に生きる者の第一の喜びは神様の働きに参加しているという喜びです。世界には有意義で楽しい仕事が沢山ありますが、神の国の建設に携わっていることほど喜びに満ちた働きは他にはありません。

 召命に歩む者の第二の喜びは、仲間のいる喜びです。神様はモーセの足りない部分を補うアロンのような仲間を与えて下さいました。召命に生きる歩みは一人で歩く孤独な歩みではありません。同じ方に心から仕える「僕仲間」は神様に次ぐ力強い味方です。

 もう一つの喜びがあります。それは働きが完結しなくても引継ぐ者がいるという喜びです。モーセは出エジプトの働きを担いましたが、彼自身は約束の地に入ることができませんでした。それでもモーセは自分の生涯に満足していました。神様が後継者ヨシュアを与え、モーセは自分の働きが無駄なものではなかったことを確信していたからです。


メッセージのポイント

モーセは民族の重要な歴史的事業を神様に託され、その働きを成し遂げることができました。彼の成功の秘訣は、神様の言葉に注意深く従ったことです。神様に聴き従って生涯を歩むことは簡単なことではありません。私たちの心に聞こえてくるのは神様の声ばかりではないので惑わされます。神様の意思がわかっても、自分の能力では不可能だと思いがちです。実際、反対者が立ちはだかり、仲間からも不満の声が漏れてきます。困難は繰り返しやってくるのです。それでも進み続けることができるのは、自分が神様の言葉に従って、神様の愛の計画に召されているという確信が揺るがないからです。

話し合いのヒント

1) 召命とは何ですか?

2) あなたはモーセの生涯から何を学びましたか?