December 16th, - 22nd, 2007 Vol.14 No.50


メッセージ アドヴェントシリーズ(3/4)

もし彼が来なかったならば、誰を・・・・・? 詩編34編

<シリーズ全体の教えのフォーカス>
アドヴェントは、クリスマス前の4週のことです。イスラエルはその苦しみの歴史の中で救い主が現れることを永く待ちわびていました。イエスキリストの誕生が人類に与えた大きな変革の意味を、このアドヴェントの期間にもう一度深く心に刻み付けましょう

<子供たちに伝えたいこと>
私たちがクリスマスをお祝いするのはイエス様の誕生日だからです。イエス様の誕生日は誰の誕生日よりも特別な日です。もしイエス様が来て下さらなかったなら、世界は何の希望もない所であったでしょう。しかし、イエス様は確かに来て下さいました。だから私たちの希望はどんなことがあっても決して消えることはありません。

 クリスマスを迎えるこの時期、私は楽しいだけではない複雑な気持ちになります。多くの人にとって心がうきうきする楽しい日ですがちょっと変だと思うのです。クリスマスは救い主イエス様の誕生を祝う日です。沢山のクリスマスパーティーがこの時期に開かれますが、そこには祝ってもらうはずのイエス様は招かれていません。主役であるはずのイエス様よりもサンタクロースやクリスマスツリーの方が注目されています。また、自分の誕生日でもないのにプレゼントを期待したり、イエス様の誕生日なのに他の人のためにプレゼントを用意したりします。ある教会では、そんなクリスマスの迎え方に疑問を持って、また実際に聖書もイエス様の誕生日を伝えていないので、この時期にクリスマスをにぎやかに祝うことをしません。私は、たとえそれが実際の誕生日ではなくてもクリスマスにイエス様の誕生を祝い、人々に救い主がこられたことを伝えるよい機会だと思っていますが、そのような教会の人々の気持ちも分かるような気がするのです。自分の誕生日が盛大に催されているというのに、自分が招かれていないとしたらどんな気がするのでしょうか?私たちはクリスマスや誕生日、またいろいろな機会にプレゼントし合いますが、それはあなたを愛していますという「こころ」を目に見える形で表現したものです。今年も何度かメッセージで「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの主である神を愛しなさい」と勧めましたが、この神様に対する愛:プレゼントが、イエス様を主と知っている私たちにとってはクリスマスの中心なのです。大きなツリーがあっても美しい飾り付けがされていても、あなたの心の「お誕生日席」にイエス様がおられなければ、表面的な、虚しいクリスマスになってしまいます。

 そこで今日は、わたしたちにとってイエス様が来て下さったことがどれほど大きな意味を持っているかということを覚えるために、事実とは反対にイエス様が来られなかったら、という仮定から出発するという仕方で考えてゆきたいと思います。

A イエス様が来なかったならば、私たちは誰をほめ讃えられるのか? (1-4)

取り上げる聖書のテキストは詩編の34編です。はじめに4節まで読みましょう。

【ダビデの詩。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに。】 どのようなときも、わたしは主をたたえ/わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。 わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。 わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。(1-4)

 ダビデはイスラエル史上、もっとも偉大な王となりましたが、それまでの道程は険しいものでした。命を狙われ狂気の人を演じなければならなかったことさえあったのです。彼の心が恐れや絶望によって支配されていたときでも、彼の魂は押しつぶされてしまうことはありませんでした。それは現実がどんなに悲惨な状態であっても、ほめたたえることのできる方の存在があったからです。今も昔も、このダビデの確信を持っていない人は、自分の心の状態、感情に頼って歩むしかありません。私たちはイエス様が来られたことを知っているのでダビデと同じ確信を持っています。しかしもしイエス様が2000年前に来て下さったというあの事実がなかったとしたら、イエス様を讃えることはできません。私たちは神様が御自身をイエス様として表わされたので、ユダヤ人でなくても主を知ることができました。神様を、私の主と讃えることができる者とされたのです。どんな時でも讃えられる方がいるということは大きな特権です。賛美は私たちに新しい力を満たします。ダビデはそのことをよく知っていたので、自分が生涯、賛美し続けただけでなく、人々にも主をほめたたえることを熱心に勧めました。だからダビデは王としてだけではなく、神様を賛美する人としても重要な役割を果たしました。イエス様が来られなければ、今も主がおられることを知らない多くの人と同様にあなたも、何かを偶像視してほめたたえるしかありません。ほめたたえる価値のないもの、いつの間にか無くなってしまうものを讃えなければならないことほど虚しいことはありません。権力者は、人々に自分を讃えることを求めがちですが、彼らはやがて滅びるしかない者なのです。レッズのサポーターは日本で最高だと思いますが。がどんなにティームを誉め讃えてもヨーロッパチャンピオンに勝てなかったり、リーグチャンピオンになれなかったりするのです。イエス様がこられなかったら、私たちは心から讃えることのできるもののない寂しい人生を歩んでいたところでした。でも現実はそうではなかったのです。どのような時にも主をたたえることができ、あなたが主をたたえる時に、弱い者小さい者をもそれを聞いて喜ぶのです。そして共に主をたたえるところに、本当の一致、本当の調和が実現するのです。

B イエス様が来なかったならば、私たちは誰を呼び求めるのか?(5-11)

わたしは主に求め/主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。 主を仰ぎ見る人は光と輝き/辱めに顔を伏せることはない。 この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった。 主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。 味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。 主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。 若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。(5-11)

 怖い目にあった時、悲しみに包まれる時、あなたは誰を呼び求めますか?子供だったら親に叫び求めるかもしれません。しかし自分に子供いる頃になれば「ママー」と叫ぶことも出来ません。大人になっても、自分ではどうすることも出来ず誰かに向かって「助けてー」と叫び求めずにいられなくなる時があるのです。そんなときあなたは誰を呼び求めますか?クリスチャンに与えられているもう一つの特権は主を呼び求めることができるということです。もしイエス様が来て下さらなかったなら、未だに2000年以上前の人々のように救い主を待ち望んでいる状態だとしたら、呼び求める名を知らないとしたら、何度絶望してもしきれません。

 しかし現実はそうではありません。イエス様はこの2000年の間、一貫して求める者に応え、脅かす者から救い出して下さる方です。私たちの嘆きの声を、悲鳴を聞いて応えて下さる方です。私たちもその証人の一人です。主の恵み深さを味わいみることができる者ほど幸いな人はいません。イエス様が来て下さったので、今は誰でも主のみもとに身を寄せるならこの幸いに与ることができます。

C イエス様が来なかったならば、私たちは誰を畏れるのか?(12-15)

子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。 喜びをもって生き/長生きして幸いを見ようと望む者は 舌を悪から/唇を偽りの言葉から遠ざけ 悪を避け、善を行い/平和を尋ね求め、追い求めよ。(12-15)

34:15 悪を避け、善を行い/平和を尋ね求め、追い求めよ。

 現代は畏れる存在のない時代です。畏れる者がなければ人は自分の思い通りに生きようとします。自分勝手な行動による事件が絶えません。あなたの父と母を敬いなさいという十戒は忘れられているようです。老いた者を敬うことも軽んじられています。教師も尊敬されません。尊敬しない子供たちがいけないのでしょうか、尊敬に値しない大人たちに問題があるのでしょうか?そうではありません。大人にしても、子供にしても権威の原点がどこにあるかを知らないということが問題なのです。この国では、戦後民主主義が子供を悪くした、という言い方をする人が少なくありません。しかし本当に、天皇が神様の役割を果たし、彼を頂点とするヒエラルキーを持った社会の方が子供を正しく育てられるのでしょうか?人は神になることはできません。この考え方では日本の中でだけの秩序は保てても世界には通用しないのです。だからこの権威の体系は崩壊してしまいました。何人であれその国の造り主ではなく、世界の造り主を畏れなければなりません。

 偽りの権威は、巧妙な管理、暴力、洗脳などに頼らなければ守ることができません。見た目には行儀の良い子でも、殴られたくないからそうしているのか、それとも親を信頼しているからそうなのかでは大きな違いがあります。この国の不幸は昔あった権威が無くなったことではなく、正しい権威を未だに知らないことなのです。本当に畏れるべき方がいないのだとしたら、この世界には尊敬どころか憐れみも同情も存在しないのはあたりまえなことです。

 しかし現実はそうではないのです。その方は確かにおられます。御自身をイエスキリストとして現して下さった創造主であり、救い主であり、慰め主

である神様です。この権威の下にあることが平和をもたらします。あなたが現代人の自分勝手な行動をなんとかしたいと思うなら、すべきことは、まずあなた自身が主を畏れ主の権威の下に自分を置くことです

子供たちが権威に従うことを願うなら、あなたがまず主の権威に心から従わなければ、その願いは決してかないません。子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう。と言ったところであなたがその権威に服していないなら、子供たちからは笑われるだけです。


D イエス様が来なかったならば、私たちは誰を主とするのか? (16-23)

それでは最後に16節以下を読んでみましょう34:18 主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。
34:23 主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は/罪に定められることがない。

主は、従う人に目を注ぎ/助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。 主は悪を行う者に御顔を向け/その名の記念を地上から絶たれる。 主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。 主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。 主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し 骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。 主に逆らう者は災いに遭えば命を失い/主に従う人を憎む者は罪に定められる。 主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は/罪に定められることがない。(16-23)

この部分は34編全体のまとめとして主がどのようなことをなさる方であるかということが記されています。皆さんは、これを読んで、だから私は安心だ、だから私は幸せだ、だから私は生きてゆかれるのだと思っているでしょう。この主が来ておられなかったなら、あなたは誰を主と呼ぶのでしょうか?ここに記されていることを一つ一つ見て行くなら、主と呼べる方はイエス様以外には存在しないことがよくわかります。イエス様を知らないなら、実際にはそのような力を持たない誰かを何かを、あるいは自分自身を主としなければならないのです。それこそ虚しい偶像礼拝です。そんなふうに無防備に歩けるほど世界は安全なところではありません。だから主はあなたを救うために来て下さいました。ここにはまだイエス様を主とはっきりと信じられない方もおられると思いますが。どうかこのクリスマスに2000年前から差し出されている、神様からのクリスマスプレゼント、救い主イエスキリストを受け取って下さい。ここにいるクリスチャンは皆、イエス様こそ私の生涯の最高のプレゼントだったとあなたに証言してくれるはずです。

メッセージのポイント

イエス様誕生の1000年ほど前、ダビデはこのように歌いました。サウル王に命を狙われ、逃げ回り、狂気を装って難を逃れなければならないような時に、こう歌ったのです。私たちの生きるこの時代もまた、一見希望のない、逃げ場のない、信頼をおけるもののない、心から喜べるもののない、心からほめたたえることのできるものがない時代に思われます。しかし本当はこの「時代」が問題なのではありません。いつの時代でも、どこの国にも、災いをもたらす、人間の心の闇<罪>は存在してきたのです。それでも私たちは絶望する必要がありません。ダビデの信じた主は本当におられただけではなく、私たちを罪から解放するために、目に見える方としてきて下さったからです。

話し合いのヒント

1) あなたは、イエス様を知る前、誰を・・・・・?

2) イエス様が来て下さったことによって、あなたはどう変えられたのですか?