January 13th - 19th, 2008 Vol.15 No.2

誰を得るために誰のようになるか? 

2008年基調メッセージ (2) コリントの信徒への第一の手紙9章20?22節

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。(19)  ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。(20)
 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。(21)
 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。(22)
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(23)

A パウロが考えていたこと

1)ユダヤ人のためにユダヤ人のように

ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。

  新約聖書の時代、イスラエル民族はユダヤ人と呼ばれていました。パウロ自身もユダヤ人です。それなのに「ユダヤ人のようになる」というのは、おかしな表現ですね。パウロは自分自身をイエス様との出会いによって新たに生まれた者と理解していたのです。ユダヤ人は自らを律法の民(神様に律法を与えられた唯一の民族)と自負していましたが、残念ながら神様の思いからは遠く離れた存在となってしまっていたのです。パウロはそれを「律法に支配された状態」と表現しています。パウロ自身、律法学者となる専門教育を受けた筋金入りのユダヤ人でした。イエス様との出会いは、パウロにとって形骸化してしまった律法に支配された者としての死であると同時に、律法を介してではなくイエスキリストによって、しっかりと神様に連なる新しい人としての誕生だったのです。パウロは形式的な律法に縛られない自由な人となりました。使徒言行録には、ユダヤ人ではない者もイエス様を信じるだけではなくモーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われないと主張した人々がいたことが記録されていますが(使徒言行録15章)、パウロは信仰だけがただ一つの救いの条件であって、それ以外のことを異邦人に求めるべきではないと、それらの人々を説得しました。しかし一方で、パウロはユダヤ人に対して慣習を捨てなければクリスチャンにはなれないと主張したわけではありません。むしろパウロは,彼らが喜んでしている習慣を尊重しました。

 私たちはここから、自分と似た慣習を持つ人々、家族や友人にイエス様を紹介するために大切なことを学ぶことができます。

 この国ではクリスチャンになるということが、欧米人の宗教への改宗と考えられ、何か日本人ではなくなるという感覚で理解されているところがあります。しかし元々キリスト教は欧米の宗教ではありません。アジア大陸に起こり、ヨーロッパそしてアメリカに伝わっていったのです。それぞれの地域に異なった伝統があり、そこで生まれ育った人は多かれ少なかれその影響を受けています。イエス様はそれを捨てなさいとは言われません。しかし教会は無意識のうちにイエス様が求めていないことを、人々に求めていることがあります。伝えたいことの本質を私たち自身が誤解しているということがあるのです。神様が私たちに求めておられることはただひとつ「愛すること」です。もう少し丁寧に言うなら「イエス様につながっていること、互いに愛し合うこと」これが私たちに与えられている戒めのすべてです。イエス様はシンプルな十戒をさらにシンプルにこう表現されました。

 海外の様々な宣教団体が日本で伝道を始めた時に、福音のエッセンスだけではなく、それぞれの持つ独特の価値観も無意識のうちに教えの一部として伝えられました。偶像礼拝を形式的にも避けることを強調する人の中には、お辞儀という挨拶は異教的だからやめなさい。特に遺影に向かって頭を下げるのは完全に偶像礼拝の罪です、と教えた人もいました。悪霊の影響に強い関心を持つ人々は神社仏閣に入らないように、子供に見せないように、中で遊ばせないように教えました。きよめということを強調する人々は飲酒や喫煙は罪だと教えました。聖書の教える罪ではないものを罪と教えることによって、クリスチャンになるためには捨てなければならない生活習慣が沢山あるといった間違った常識が定着してしまったのです。そういったことはイエス様の戒めではないのですから、人々に要求することはやめましょう。

2)異邦人のために異邦人のように 

また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。

 今までは人に強要すべきではないことを話してきましたが、「異邦人のためには異邦人のように」ということからは、もっと積極的に、自分とは違う誰かのようになるということを学ぶことができます。

自分自身が変わるということは、人のあり方を認めることよりも、もっと難しいことです。しかしこのことをする人がいなければ福音はこの国まで届いてはいなかったでしょう。

 異邦人とはユダヤ民族に属さない人、律法の下にいない人のことです。当時の彼らにとってはギリシャ人、ローマ人、エジプト人などのことです。イエス様御自身の宣教はごく少数の例外を除けばユダヤ人に対する活動に限られました。しかし弟子たちに対しては,全世界にでてゆくようにイエス様は命じられました。特にパウロは、自分が異邦人のために立てられた使徒であることを自覚して,現在のトルコ、ギリシャ、イタリアにまでイエス様を紹介して旅したのです。パウロはユダヤ人といっても小アジアの学術都市(タルソス・現在のトルコ)で生まれ、ギリシャ語を話し、生まれながらにローマ市民権を持つ人だったので普通のユダヤ人に比べれば、ギリシャ人やローマ人にアプローチすることに有利な資質を備えていました。すべての人が異邦人伝道に召されているわけではありませんが、教会の働きとして様々な応援ができるのです。

ただ私たちにとっては文字通りの異邦人ではなくても、異邦人的な人が周りにいます。特に世代間の違いは強く感じられるところです。しかし教会はこれを乗り越えなければやがて誰もいなくなります。ユアチャーチという名はアワチャーチであってはいけないという戒めのしるしです。

3)弱い人のために弱い人のように 

弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。

パウロの言う弱い人とは、特に「信仰の確信がなく、周りの人の言動に惑わされてしまうような人々」のことをさしています。日本では様々な占い師がメディアに登場し、そのご託宣によって一日の計画を変更する人もいます。いろいろな神々にお参りして災いをさけようとする人も多いのです。方角や色、日、年令、星座、血液型などを気にして行動する人もいます。このような人々をばかばかしいと笑っても、彼らにイエス様を知ってもらうことはできません。誰でもその人を軽蔑している人の信じる神様を信じたいとは思わないでしょう。相手が信じていることを否定しなくてもイエス様を推薦することができます。その人は自分の信じていることを否定されたくはありませんが、より良いものを見いだしたいとは思っているのです。その良さを知ってもらう前に、今持っているものを捨てなさいと言っても納得してもらえません。

 パウロ自身の用法ではありませんが、他にも弱い人が存在します。経済的、社会的な意味で、健康という観点で、また様々な色分けによって少数者とされた立場の弱い人がいます。彼らにこそエス様の救いが必要です。

B わたしたちが考えるべきこと

1)その人のようになるということはどのようなことなのか?

そこで今まであげてきたような人々にイエス様を紹介するために、その人のようになるとはどのようなことなのかを考えてゆきましょう。

例えばあなたが、家を失い路上生活をしている人を得たいと思ったらあなたも家を捨て路上生活をしなければそれは不可能なのでしょうか?信仰を持たず、神様が喜ばれること悲しまれることという感覚がない人を得るために,あなたはどこまでつきあうことができるのでしょうか?

その人と全く同じになれる人はいません。しかし、その人に対する偏見を捨てて友となることはできます。パウロのお手本はイエス様です。イエス様はどんな人々の中にも入っていかれました。子供たちがまといつくこともいとわれませんでした。その社会の中で一緒にいると汚れるとされていた人々と食事を楽しみました。姦淫の罪で引き出された女性のかたわらで、彼女が石打ちに合わないように助けました。イエス様はへり下ってその人と対等の者として語りかけられました。イエス様は罪を犯す以外、人としてのあらゆる経験をなさいました。

福音を伝えるためには、決して妥協できないことと、地域や時代によってかわってもよいことの違いを知っていなければなりません。福音書や使徒言行録のイエス様や使徒たちの言動を見ると私たちよりもずっと柔軟だったことがわかります。

2)ユアチャーチは誰を得るために誰になるのか?

 今日の最後の項目として、私たちは誰のために誰のようになるべきか、ということを考えたいと思います。世界各地、日本各地に置かれている一つ一つの教会には異なった役割が与えられています。同じ町田にある教会でもそれぞれ異なった人々を対象とする働きを神様に期待されているのです。またユアチャーチ自体も、特定の境遇にある人々だけに焦点を当てているわけではありませんし、それは時間の経過によってもかわるものです。私たち一人一人に与えられている願いや賜物、持っている性質や傾向によって、またこの教会の置かれている地域の状態によって、この教会のミニストリーの組み合わせの特徴がきまります。しかし、いつまでも同じ働きを求められているわけではありません。教会全体で取り組んでいることもあれば,一つのミニチャーチが,あるいは個人的に取り組んでいることもあります。その全体がユアチャーチのミニストリーです。

 教会の基本的な機能は皆さんが「誰かのために誰かに」なれるようにサポートすることです。私たちはここで霊的に成長し、疲れた魂に力を与えられ、互いに愛し合うことによって誰かを愛する訓練を受け、日々の歩みの中でイエス様の愛を伝えて生きているのです。

 この教会が今、イエス様を紹介しているのは、ウエッブサイトを見て、この教会なら来てみたいなと思って礼拝に来て下さった人々。私たちの家族、友人(この人たちはいわばわたしたちにとってのユダヤ人です)。ある人は仕事の行き帰りにであう路上生活者の人。スリランカの子供たち。地域の養護施設に暮らす子供たち(この人々は私たちにとっての異邦人,あるいは弱い人々です)です。

 彼らを得るということは,先週もお話ししましたが,クリスチャンにさせる、メンバーを増やすということではありません。友達になるということです。勿論その人がイエス様を信じてクリスチャンになればこれほどうれしいことはありませんが、それは結果に過ぎません。誰も人をクリスチャンにさせることはできません。ただ、私たちのことを心のゆるせる友と受け入れてくれた人なら、わたしたちの内にある自分のものではない確かな愛に気付いて,自分もそのような愛に生きたいと願うでしょう。私たちが見返りを求めずに愛し続けるなら、神様はその人の心を優しく開いて下さるのです。なんとか何人かでも救いたいと思うなら、私たちがするべきことは宣伝や説得ではなく、もちろん脅迫や洗脳などではあるはずもなく、友となることです。

メッセージのポイント

誰かにイエス様を紹介したいなら、その人のようになりなさいとパウロは勧めています。それは自分の方からその人の方に進み出て、自分のあり方に固執せず、その人に対する偏見を捨て、できるだけその人の考え方、感じ方を理解して友となることから始まります。人間はなかなか自分の殻を破ることができませんが、イエス様は大きな隔たりを軽々と飛び越えて罪人の友となって下さいました。当時のイスラエルの社会の中で軽蔑されていた人々と食事を共にされました。パウロはイエス様を知る前は筋金入りの律法主義者でしたが、イエス様に出会って隔たりを乗り越えられる人となれました。わたしたちもイエス様に助けていただいて誰かのために誰かのようになれる人として成長してゆきましょう。

話し合いのヒント

1)あなたはどのような人にイエス様を紹介したいですか?

2)あなたがその人のようになるとは、実際に何をすることなのですか?