February 10th - 16th, 2008 Vol.15 No.6

なぜワーシップ?

序 あなたは神の目に高価で尊い

 人間は不可解な生き物です。1gのダイヤモンドを見いだすために、何トンもの泥をふるいにかける努力を惜しみません。それらを求め、血を流し争います。それなのに、人はダイヤモンドより尊く、既に手に入れているものが見えないのです。あなたが持っているダイヤモンドより高価な尊いものとは何でしょうか?それは「あなた自身」です。多くの人が「自分が何を持っていなくても、身につけていなくても、ダイヤモンドより遥かに高価で尊い存在である」ということを知らずに生きています。あなたはどうですか?

 だから人は、自分の価値を上げるために財産や名誉や健康やよい人間関係を手に入らなければ不満が募り、手に入れれば失うことを恐れ、失えば誰かを恨まずにはいられないのです。持っている人をねたみ、持っていない人を蔑みます。ほんとうの自分をまだ発見していないからです。しかし、本当の自分を発見できなければ、本当の幸せも、本当の平和も得ることはできません。

 あなた自身が気付いていないとしたら「ありのままのあなたが高価で尊い」ということを誰が知っているのでしょうか?それは、あなたの親でも上司でも友達でもありません。あなたをつくられた神様がそうだとおっしゃっているのです。(私の目にあなたは値高く、貴い。イザヤ43:4) そこであなたが自分の価値を正しく知るためには、神様の見方、物差しを知る必要があります。神様ともっと親しくなることによってそれを知ることができるのです。今朝はこの神様の思いを知るために、人が全生活の中で最も大切にするべきことについてお話しします。それは「神様をワーシップする」ということです。そこでワーシップとは何かということから始めてゆきたいと思います

A. ワーシップとは何か

 ワーシップは日本語では礼拝と訳されています。「ワーシップ」と訳された言葉の元々の意味は 身を屈める、敬意と誉れを捧げる、身を折り曲げる、身を低くする、敬う、向きなおってくちづけする、ひざまずいて崇める、というようなものです。なぜここでわざわざ礼拝ではなくワーシップと表現するのは。礼拝を単なる儀式として受け取っていただきたくないからです。

 最近ワーシップソングという言葉が日本の教会でも定着してきましたが、結局 歌うことを賛美すると表現するより、ちょっと洗練された新しい表現として使われているに過ぎないことが多くて残念に思います。賛美(プレイズ) という言葉は、誇らしく音をたてる、偉大さをたたえる手をさしのべて礼拝する、感謝の生けにえをささげる、神に音楽の調べを捧げる、というような意味です。だから、「賛美」は私たちの礼拝の基本的な要素であることは間違いありません。ただ「賛美」は礼拝の一部であってすべてではないのです。

1)それは喜びの表現(2サムエル6:12-15)

なぜクリスチャンは日曜の朝に礼拝を行うのでしょうか?ユダヤ教徒は土曜日を安息日、聖なる日と考えていました。ユダヤ人である初代のクリスチャンたちは、安息日の習慣を守りながらも、週の初めの朝に集まり礼拝することを始めたのです。それは、イエス様が復活されたことこそが、希望と喜びの原点だったからです。だから礼拝は第一に主イエス様との交わりを喜び楽しむお祭りなのです。サムエル記2 6:12-15を読んでみましょう。

神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた。 主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげた。 主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。 ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。 (2サムエル6:12-15)

ダビデ王は優れた政治的指導者であったばかりではなく、ワーシップリーダーとしての賜物を豊かに与えられていた人でした。神様の臨在を象徴する神の箱を自分の町に迎え入れた時の様子です。ダビデを始めとして民は喜び歌い踊らずにいられなかったのです。

 しかし私たちが神様の前に出るのは、誉めたたえるためだけではありません。とてもそのような気持ちになれない時も、神様はあなたに礼拝してもらいたいと願っておられます。だから私たちは礼拝で歌うことを賛美とは言わずにワーシップというのです。

涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/「お前の神はどこにいる」と。 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす/喜び歌い感謝をささげる声の中を/祭りに集う人の群れと共に進み/神の家に入り、ひれ伏したことを。(詩編42:2-5)

一週間の歩みの中で、ある人は喜びにあふれて、ある人は傷つきつかれて、日曜日に教会に足を運びます。足取り軽く来る人もいれば、やっとの思いで、できれば人には会いたくないな、でも神様の前に進み出ようと、自分に言い聞かせてくる人もいます。全く違う心の準備をして礼拝に来た人々が、共に歌う中でそれぞれのニーズを満たされ主の前に心を整えられ満たされてゆく。それが私たちの礼拝の前半のワーシップタイムの素晴らしさです。

2) それは神様が命じておられること(申命記6:4-7、マタイによる福音書22:37)

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。(4) あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(5) 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、(6) 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。(7)

創世記から黙示録に至るまで、ワーシップすることについての勧め、命令が数多く見られます。聖書がそれほどまでに(一説によると540箇所以上だそうです。)、ワーシップすることを命じるのはなぜなのでしょうか?それは、ワーシップなしには、クリスチャン生活が成り立たないほど重要なことだからです。真剣にワーシップすることのないクリスチャン、教会は基礎のない家のように危ないものです。イエス様はこの大切な戒めをマタイによる福音書22章37節で、神様を愛するということを、互いに愛し合うことの前提としてとして教えたのです。神様を愛することができない人は、本当に人を愛することはできないのです。礼拝するということは愛することの最高の表現です。神様は愛する私たちに何よりも、そばに近づくことを願っておられるのです。

3) それはあなたの魂に不可欠なもの

涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。(詩編42:2)

食べ物がなくてもかなりの時間、水だけで生き延びられますが、水がなければすぐにも生命の危険が迫ります。私たちの魂が神様を慕い求めるのは、命に関わることだからなのです。「あなたをもっと知りたい。もっと近づきたい。よいものを得たい。自分の最善をささげたい。」 このような真剣な願いを持たずに礼拝の場に身を置いたとしても、礼拝をささげたことにはなりません。体に痛みを感じないという深刻な病気があります。同じように渇きが感じられないとしたらどうでしょう。渇きを感じることなく、水をずっと飲まずにいたら人は死んでしまうのです。体の痛みを感じられないという病気は、多くの人が罹るものではありませんが、魂の渇きを感じることがなく気が付かないうちに、酷い状態になってしまうクリスチャンは多くいるのです。ですから今朝、あなたに知っていただきたいこと、それはあなたの魂は主に乾いているのだということなのです。

4) ワーシップすることによってもたらされる恵み(マタイによる福音書11:28-30)

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(28) わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(29) わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(30)

この言葉はワーシップの中で実現します。私たちには、神様のすぐそばに近づくことのできる特権が与えられているのです。ワーシップは命じられているというだけではなく、私達にとっては素晴らしい特権でもあるのです。私たちは、近づきます。人生の重荷(問題、悩み)を下ろします。そして休むのです。そこで癒され、新しく負いやすい軛を負います(神様から新しい力と知恵をいただくということです)。そして軽い荷物を持って歩き出すのです(それはもはや問題や悩みといった重荷ではなく、あなたの人生の目的や意味ということです)。??あなたが、神様を遠くに感じることが多いなら、ワーシップによって、神様があなたにとって誰よりも親しい存在になるのです。

B. もっと実りある礼拝にするために(ルカによる福音書10:38-42)

どうしたらもっと実り豊かなワーシップをささげることができるのでしょう。ルカによる福音書10:38-42が、私たちに三つのヒントを与えてくれます。それではまず読んでみましょう。

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。(38) 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。(39) マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(40) 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。(41) しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(42)

1) 自分の生活のなかで最優先の事柄とする

マルタは、もてなそうとしていましたが、心から喜んではいませんでした。自分もマリアと同じようにイエス様のそばにいたかったのです。しかし、それだからといって、ごちそうを作ることを止めて主の前に出ることはできませんでした。反対に「マリアも手伝えばいいのに」と思ってしまったのです。想像ですが、マルタは一度イエス様にその料理をほめられたことがあるのかもしれません。料理の上手なマルタさん、働き者のマルタさん、そんな評価が返って彼女の心を不自由にしてしまったのかもしれません。「イエス様は料理の上手な私を認めてくださる」 マルタの場合はそれが、彼女の優先順位を狂わせてしまったのかもしれません。あなたが主の前に進み出てワーシップすることを第一とさせないものは何でしょう。それを脇に置いて礼拝を心の最優先のこととして礼拝しましょう。

2) 主に期待して待ち望む

第二のことは期待してワーシップしているか?ということです。大好きな人と初めてデートする前の晩のことを思い出せますか?あるいは子供の頃、次の日に楽しいことがある晩どんな気持ちだったか? 楽しみで、楽しみで、眠れない位だったのではないでしょうか?

 神様と最も近くで過ごす時間に、どんな素晴らしいことが起こるか期待していますか?人間は良くも悪くも、物事に慣れてきます。学校や会社で遅刻しがちな人も、最初のデートで遅刻する人はいません。会っている間は、自分の最善を尽くします。相手の一言も聞き漏らさないように、注意深く耳を傾けます。最初は頼まれなくても心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてデートするのです。でも期待はだんだん薄れてきてしまいます。神様との関係でも同じ危険があります。そうならないために、いつも新しい恵みを期待して礼拝し、そこで答えをいただく、という経験を沢山していただきたいのです。

3) 正直なありのままの気持ちで

 第三のことは、正直なありのままの気持ちでいいからとにかく主の前に出てゆくということです。イエス様に諭されてしまったマルタにも、私たちが見ならうべきところがあります。それはマリアばかりかイエス様に対してさえ憤りの気持ちをもったまま、それでもイエス様のそばに来たことです。それでマルタはイエス様のお考えを聞くことができました。私たちは時々、自分はマルタのようだ、と反省しますが、実はマルタよりも悪い態度をとってしまう場合も多いのです。それは、憤ったままで神様のそばに近づこうともしない、という態度です。それはあなたを生き生きとしたキリストの体の一部であることから、「ただ過去にキリスト教の洗礼を受けたことのある人」になってしまう、プロセスの始まりです。もしあなたがマルタの立場にいたらどうしたと思いますか?

4) 自由に表現する

主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ。(2サムエル6:16)

ダビデ王は神様の前にとても素直な人でした。神様の前に素直であることは大切なことです。ダビデを始めとして民は喜び歌い踊らずにいられなかったのです。けれども、その中で一人だけさめた目で見ていた人がいました。王妃のミカルです。彼女は前の王サウルの娘です。由緒正しい王の娘としてのプライドが、羊飼いから王に成り上った夫ダビデの心からの礼拝の表現を理解できなかったのです。私たちの心にもミカルが住んでいて、礼拝のすばらしさを十分に受けとれないということが起こります。ロックコンサートに行けばみんな立ち上がり、手をたたき、耳だけではなく全身で楽しみ、また楽しんでいることを表現するのが自然なことです。

メッセージのポイント

私たちが日曜礼拝の中で長い時間をかけて主に向かって歌うのは、それが礼拝の中心的な要素だからです。心をつくし、思いをつくし、力をつくし、神様に大きな期待を寄せて歌う時、神様は共にいて下さり、新しいことをなされます。状況を変え、私たちの心に変化を起こされるのです。愛は表現されなければなりません。神様に対する最高の愛の表現はワーシップすることです。

話し合いのヒント

1)「賛美する」ことと「ワーシップする」こととはどう違うのですか?

2) もっと実りある礼拝にするためにあなたができることは何ですか?