February 24th - March 1st, 2008 Vol.15 No.8


不信仰がもたらす災い・信頼がもたらす守り 

ヨナ書 1、2章<ヨナ書シリーズ(1/3)>

序: ヨナ書を理解する予備知識

これから三回のシリーズで、ヨナという預言者の物語を通し神様がどのようなお方なのか、この神様に私たちがどのように従っていったら良いのかを学びます。ヨナは紀元前750年頃に活動していた、北イスラエル王国の預言者です。ヨナ書で神様は、御自身をイスラエルの民族神ではなく、すべての民を愛し、深く憐れみを現される普遍的な方である、ということを明らかにしておられます。このすべてをつくられ愛おしむ、憐れみ深い神様に対するヨナの態度から私たちが学ぶべきことが多くあります。イエス様は、御自身の十字架と復活を語った時、悔い改めを求めた時、この物語を用いておられます。

A. 神様の願いを知りつつ背を向けるなら・・・・

主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。 「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」 しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。(1:1-3)

主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。 船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。 船長はヨナのところに来て言った。「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。」(1:4-6)

さて、人々は互いに言った。「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。」そこで、くじを引くとヨナに当たった。 人々は彼に詰め寄って、「さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか」と言った。(1:7-8)

ヨナは彼らに言った。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」(1:9)

人々は非常に恐れ、ヨナに言った。「なんという事をしたのだ。」人々はヨナが、主の前から逃げて来たことを知った。彼が白状したからである。(1:10)

 彼らはヨナに言った。「あなたをどうしたら、海が静まるのだろうか。」海は荒れる一方だった。 ヨナは彼らに言った。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」(1:11-12)

 乗組員は船を漕いで陸に戻そうとしたが、できなかった。海がますます荒れて、襲いかかってきたからである。 ついに、彼らは主に向かって叫んだ。「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」(1:13-14)

 彼らがヨナの手足を捕らえて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まった。 人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。(1:15-16)

1) 神様の支配から逃れたいと思う時

 ヨナは神様の命令に納得できませんでした。ニネベは異邦人の大きな町です。「そこが滅びようが栄えようが私には関係ありません。いやむしろ自分の国のことを考えれば滅びてしまった方が、都合がいい」というのがヨナの気持ちでした。もし自分が行って彼らが神様の前に悔い改めたら、(実際にそうなったのですが)それはヨナにとって耐えられない程、不愉快なことだったのです。

 あなたは神様からの呼びかけを聞いてはいませんか?そしてそれから逃げようとしていませんか?神様の呼びかけは、一般的に言うなら「私に従ってきなさい」ということです。受け取る人によっては「今までのあり方に安住していないでもう一歩踏み込んで私に仕えなさい。」ということを意味しています。またある人にとっては「自分には関係がないと思っていた人々のために仕えなさい」ということかもしれません。またある人々にとっては、「私を主と信じクリスチャンとなりなさい」という呼びかけです。誰も現在の生活に満足していればそれを変えたいとは思いません。今持っているものを捨ててまで何か新しいことをしようとは思えないのです。それが神様からのものであったとしても、命じられてそうするのはいやなのです。まして、したくないとはっきり分かっていることをしなさいと言われれば、あなたも逃げ出したいと思うのではないでしょうか?


2) 神様の思いを知ったなら、従うことが一番の幸いです

 ヨナは実際に神様から逃げ出そうとしました。そして、多くの人々を巻き込む災いを招いてしまいました。心に留めておかなければならないことは、「私たちが意に添わないことをしたら神様が懲罰を与える」ということではない、ということです。何か悪いことが起こると、すぐ自分は何か神様の罰を受けていると考える人がいますが、それは間違いです。例えば同じ船に乗り合わせた人は、自分でその災いをまねいたのではありません。地球は一つの宇宙船のようなものだといわれますが、人は自分の目先の利益で自分の乗っているこの地球に災いをもたらしています。この船を造った神様の考えに従わずに、また互いに協力することもなく、多くの人が自分勝手にこの船をもてあそんでいるのです。聖書はこの船の取扱説明書です。造った方が監修して出来た取説ですから、これほど確かなものはないのです。これに従わずに航海を続ければ問題が続発することは当然です。どんな製品も取扱説明書に反した使い方をした場合は何の責任も負ってはくれません。それではヨナにとってはこの災いはどんな意味があったのでしょうか?ヨナに対して神様は、彼がこの危機を通して、自分がどのような生き方をすればいいのか考えさせるための試練としてこのことが起こることを許されました。だからこそ、神様は大きな魚を用意してヨナを救いました。聖書はすべての人類にとって、宇宙船地球号にとってだけではなく、教会にとっても、私たち一人一人にとっても重要な人生の取扱説明書です。どうか大切な人生を送るために、また地球号を正しく運行させるために、いい加減なサードパーティーによる解説書を頼りにしたり、自分勝手に手探りで操作したりするのではなく、聖書に従いましょう。神様の言葉に従って歩みましょう。それがあなたにとって唯一の幸いです。この取扱説明書に従って歩む限り、あなたの人生はメーカーである神様の永遠保証付きです。

B. 災いの中で悔い改めたら・・・・

さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。 ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めるとわたしの声を聞いてくださった。(2:1-3)

あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み、波また波がわたしの上を越えて行く。 わたしは思った、あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。 大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。 わたしは山々の基まで、地の底まで沈み地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。(2:4-7a)

しかし、わが神、主よあなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった。 息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。 偽りの神々に従う者たちが忠節を捨て去ろうとも わたしは感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。(7b-10)

主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。(2:11)

1) 災いから逃れる道が見えてくる

 聖書に記された神様の恵みは、「救い」という側面から見られることが多いのですが、このヨナ書では「赦し」という側面がクローズアップされています。それは、それまでの罪が赦されて神の子とされるという救いに伴う赦しだけではなく、神様を既に知っている者の失敗に対する赦しです。私たちは主を知ることによって神様に背を向けていた根本的な罪の状態から救われましたが、神様を悲しませる言葉や行いという意味での罪は今でも犯してしまうのです。ですから罪の告白と赦しを求める祈りは今でもなされなければなりません。神様の赦しは何回までしか赦されないという回数限定ではありません。聖書は神様が私たちを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい(エフェソ4:32他)と命じています。イエス様は7を7倍する程、つまり回数を限定せずに赦しなさいと勧めておられます。どんなに道を外れても、神様の元に返ることができる。これほど大きな恵みはありません。私たちは人生のうちで何度も失敗をしたり、神様を信頼することを忘れたりすることがあります。それでも神様は、私たちを正しい道に引き戻して下さいます。ただその時に私たちがすべきことがあります。「悔い改めること」です。このことについては来週さらに詳しくお話しする予定です。

 それまでの生き方を悔い改めることなしにクリスチャンになった人はいません。新しい人生を始めるためには、自分が間違っていた、これからはイエス様に従って行こうという悔い改めが絶対に必要なのです。クリスチャンになって歩み始めても、私たちは神様や人々に赦しを請わなければならないことをしてしまいますから、赦していただくためにはやはり、今でも悔い改めることが必要なのです。口だけでごめんなさいと言い何も自分では変えようとしないなら、それでは誰も赦してはくれません。しかし真剣に悔い改めるなら話は別です。何度失敗してもチャンスはいただけます。あなたがヨナのように自分の間違えに気付き、「私が間違っていました。あなたに従ってゆきます。」と心から神様に向かって言うことから、状況は変わり始めるのです。この箇所で見られるヨナの心の変化と同じように、まず、それまで恨み、つらみ、不平不満に満ちていた心が感謝にかえられます。そして、道は開かれるのです

2) 感謝して、神様に従っていこうと決心しよう

 ヨナが感謝して主に従ってゆく決意をした時、彼はまだ魚の中にいる時でした。冷たい水の中で息絶えることはありませんでしたが、魚のおなかの暗闇の中で先行きも定かではありませんでした。しかし確かに主は今この時まで彼を守り生かされている恵みを、ヨナは恵みと受け取り感謝したのです。ここが今日最後のポイントです。あなたの問題はまだ依然として目の前にあるかもしれません。しかし、それだけに目を奪われていたなら、神様の恵みに気付くことはできません。それが依然としてあったとしても、目は主に向けるのです。主はあなたを滅びから救い永遠の命を与えて下さった方です。あなたの目の前にあるすべての問題よりはるかに深刻な魂の滅びという問題を解決して下さった方です。あなたの感情は今、感謝したり、賛美したりする準備ができていないかもしれませんが、神様が賛美にふさわしいお方であるという真実は揺らぐことはありません。だから状況や感情が追いついてきたら感謝するのでなく、おかれている状況のただ中で感謝して、従ってゆきますと告白しましょう。このことに最もふさわしいときがこの礼拝です。ユアチャーチは楽しいときを過ごすことのできる共同体、美味しいごちそうをいただける共同体、助け合う共同体でもありますが、第一に共に礼拝をささげる共同体です。ここで感謝と賛美の礼拝をささげ続けましょう。今日あなたが主に招かれていると感じているなら。どうぞ今その呼びかけに応えて、決心を告白しましょう。そして主に従ってゆこうと決心した方は、ミニストリータイムの時に、チャペルに残って下さい。その方のためにお祈りします。

<メッセージのポイント> 

神様の命令や願いが分かっているのに、それに背くなら決して良い結果を得ることはできません。ヨナの場合には自分ばかりか多くの人々の命を危険にさらす事態を招いてしまいました。しかしヨナは他の人々の命を助けるために、自分を海に投げ込むよう人々に勧めました。そこで神様は、大きな魚にヨナを救わせ、悔い改めのチャンスを与えました。神様はヨナの命を救い、今度こそヨナは神様の言いつけ通り歩み始めます。私たちは、神様の命令を聞き逃したり、聞こえても聞こえない振りをしたりしてトラブルに巻き込まれますが、真剣に悔い改めるなら神様はちゃんと逃れる道を備えて下さいます。悔い改めることは簡単ではありませんが、それは後で大きな恵みをもたらします。

<話し合いのために>

1) なぜヨナは神様の命令を聞こうとしなかったのでしょう?

2) 大きな魚の中でヨナは何をしていましたか、どのくらいそこにいたのですか?

3)イエス様は何を教えるためにこの物語を取り上げたのですか