March 16th,-22nd, 2008 Vol.15 No.11

  


マルコによる福音書11章とローマの信徒への手紙より アレックス ガーザ

十字架への道程?棕櫚(しゅろ)の聖日 

I. イエス様の十字架への道程

マルコによる福音書 11:1-11

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。(1-2) もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」(3) 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。(4) すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。(5) 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。(6) 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(7) 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。(8) そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。(9) 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(10) こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。(11)

棕櫚の聖日はイースターの前の日曜日と定められている移動祭日です。この祭日については、4福音書のすべてに記されています。 (マルコ 11:1-11, マタイ 21:1-11, ルカ 19:28-44, ヨハネ 12:12-19) - イエス様はその受難の前の日曜日にエルサレムに熱烈な歓迎を受けて迎え入れられました。

イエス様がエルサレムに勝利者として迎え入れられたことは旧約聖書のゼカリヤ書の預言の成就と見ることができます。 

(ゼカリヤ 9:9-10)

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。

見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者

高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。

わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。

戦いの弓は絶たれ諸国の民に平和が告げられる。

彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ。

マルコによる福音書11章は他の三つの福音書と共にこの出来事が、ゼカリヤが紀元前520?518年頃に預言したことの成就であることを伝えています。 神様はこの出来事をこの世界のそして時のはじめから計画しておられました。 (参照:詩編 24:7、118:26). 人生の歩みの中で、多くの疑問が浮かび、また重荷があると感じられる時があります。

「神様は不公平だ!なぜ世界はこう問題に満ちあふれているのか?あるいは、なぜこんな困難を味わなければならないのか?私たちはまず神様のお考えと私たちの考えが、また神様の方法と私たちの方法が異なっているということを理解しなければなりません。(申命記 32:4) 神様はその偉大な知恵と正義を行われるということのうちに、その愛を示し私たちがどのようにこの素晴らしい贈り物を受け取ることができるかを教えて下さいました。「救い」という贈り物です。神様は、私たちが神様との素晴らしい関係と交わりの内に生きることができるようになるために、渡ることのできる橋を造って下さったのです。これが、イエスキリストがこの世界に来られ私たちとともに人として歩まれた理由。私たちの罪を赦すための完全な生け贄として死なれた理由。そして神様の命の力を持ってよみがえられた理由です。

II. あなたの十字架への道程

ローマンズロード(ローマの信徒への手紙による道)

救いに至るローマンズロードとは、ローマの信徒への手紙のいくつかの節を用いて、救いの良い知らせを説明してくれる道です。ローマンズロードは、なぜ私たちには救いが必要なのか?どのように神様は救いを与えて下さるのか?どのようにして私たちは救いを受け取ることができるのか? そして、救われた結果、私たちはどうなるのか?を分かりやすく、力強く教えてくれるものです。

1. 罪 - 3:23, “人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています” 私たちは皆罪人です。私たちは皆、神様を悲しませることをしてきました。罪のないものは一人もいないのです。3:10-18は、私たちの罪がどのようなものであるかをよく説明してくれています。罪は一人の男アダムによってわたしたちの内に持ち込まれ、 そして神様の下にあってただ一人例外的に正しい人、イエスキリストの、その血による購いによってその呪いは取り去ることが出来たのです。(参照:ヘブライ 9:12, 10:10, and 10:18) ヨハネによる福音書 15:13 “友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。”

2. 救い - 6:23, ここでは罪がもたらす結果が教えられています ? “罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。” 私たちの罪の報いとしての罰は死です、それは単に肉体の死を意味するだけではなく永遠の死というべきものです。

3. 受け取る - 6:23b, "しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。" また5:8 は私たちにこう告げています " しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。"イエスキリストは私たちのために死んだのです。イエスの死が私たちの罪の清算するために支払われた対価だったのです。そしてイエス様の復活は、神様が彼の死により私たちの罪の赦しを認めて下さったことを保証してくれているのです。

4. 信じる - 10:9, "口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。" イエス様が私たちのために死んで下さったのだから、私たちは皆彼を信じるべきであり、その死が私たちの罪の代価の支払いとしてなされたことに信頼をおくべきです。それで私たちは救われるのです。10:13 もこのことを言っています。“「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。”イエス様は私たちの罪の罰を受けて死なれ、私たちを永遠の死から救い出されました。救い、罪の赦しは、イエスキリストを救い主として信頼する者すべてにもたらされます。

5. 新しい人生 - 5:1, "このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、" イエスキリストを通して私たちは神様との平和な関係が得られるのです。8章1節はこう教えています。“従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。”イエス様が私たちのために死んで下さったので、私たちはもう決して私たちの罪を宣告されることはないのです。ローマンズロードの最後として8:38-39からこの素晴らしい神様の約束が私たちのものであることを確かめましょう。“わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。”

III. なぜ VS. どのようにして

a. なぜ「なぜ」と問うのですか?

人間は質問せずにはいられない性質を持っています。神様は私たちを、神様を求めるという強い願いと共に、私たちを取り巻く世界について問いかける強い欲求を持つものとして創造されたようです。 だから人間は常になぜと問い続けるのでしょう。しかし、いざ答えが出されたても気に入らなければ、それを信じようとはしません。カロリーなんて信じないで無視することはできます。しかし信じようが信じまいが体重は確実に増えてゆくのです!! ある人々は神様に対する態度でも同じようにしています。 彼らは神様がどのように働かれるのかを理解しません。あるいは神様のやり方が好きではないのです。 神様に同意できないという理由でおおくの人々が神様との関係を築くチャンスを捨て去っているのです。なんと残念なことでしょうか。私たちは「なぜ良い人々に悪いことが起こるのか」あるいは「なぜ神様は悪いことが起こることをお許しになるのか」「なぜ私は生きているのか?」と問います。 なぜと問うこと自体は良いことです。そして、それは私たちの霊的な成長に重要なことです。問うことは私たちを神様に導きます。そうして、神様とその計画に信頼をおくことができるようになると、今度は次のことを問い始めるのです。私たちの人生における愛や勝利、結実についてです。私たちはむしろこう問うべきではないでしょうか?「なぜ私は信じようとしないのか?」と。さらに私は私たちがすべき質問は「なぜ」ではなく「どのようにして」なのだと思います。 どのようにして私は神様の愛の一部となれるのでしょうか?どのようにして私は神様の私に対するプランについてもっと学ぶことができるでしょうか?どのようにして私は神様の愛を人々に分ち与えることができるでしょうか?というようにです。

b. どのようにして私は十字架に至るのか?

もしあなたが、まだイエスキリストをあなたの救い主として受け入れていないのなら、あなたは聖書のローマンズロードをたどることによって、それが出来ます。あなたはこの救いに至るローマンズロードをたどりたくありませんか?もしそうならあなたが神様にすることのできる簡単な祈りがあります。このように祈ることは、あなたの救いのためにイエス様がこられたことを信じますと、神様に打ち明ける方法です。この言葉それ自体があなたを救ってくれるのではありません。ただ、イエスキリストを信じる信仰だけが救いをもたらします。

“神様、私はあなたに対して自分が罪を犯し、その罰に値する者であることを知っています。けれども、イエスキリストが私の受けるべき罰を御自身で負って下さいました。そこで彼を信じる信仰によって、私は赦された者となることができます。あなたの助けによって私はあなたとその救いを信じます。あなたの素晴らしい恵みと救い-永遠の命という贈り物を感謝します。アーメン

もしあなたが既にこの祈りをし、ローマンズロードを知っているなら、もうあなたは、あなたの周りにいる誰かに十字架への道を伝えることができます。そしてあなたがイエス様の道程の物語と、神様との関係を築くために渡るべき橋について誰かに伝えるとき、あなたは神様の愛のメッセージを分け与えているのです。

<メッセージのポイント>

神様はすべての人が神様との関係を持つことができるような橋を造られました。棕櫚の聖日は救い主が来られたこと、私たちを罪の闇から購い出すという神様の計画の完成を祝う日です。神様が答えをお持ちだと分かったなら、それをいただくこと、信じることをしなくてはなりません。神様を信じて、あなたに対する神様の計画を理解したなら、あなたは周りの人々に十字架への道を伝える準備ができたということです。私たちが人々に「キリストの道程」と私たちすべてに備えられている神様との関係回復のための「橋」について伝える時、私たちは神様の愛のメッセージを分ち与えているのです。


<話し合いのために>

1) なぜ私たちは、私たちと神様について質問するのでしょうか?

2) どのようにして答えを見いだすことができるのでしょうか?

3) ローマ書の道程とはなんですか? そして、なぜそれが重要なのですか?