March 30th,-April 5th, 2008 Vol.15 No.13

  


メッセージ シリーズ:復活されてから天にお帰りになるまでのイエス様

イエス様に気付かず歩んでいるとき (ルカ24:13-35)

I. なぜ共に歩んでいて下さるのに気付かないのか?

a. 状況を誤解しやすい私たち (13-21)

ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 (13-21)

 人間は過去の経験によって,今起きていることに対して偏見を持ち、正しく判断することができないという傾向を持っています。イエス様の十字架という強烈な経験に、旧約の預言も、イエス様の言葉も弟子たちの頭の中から瞬間的に蒸発してしまったのでしょう。もしイエス様がただの人であって、十字架の死ですべてが終わっていたのであれば、イエス様の名は、同時代の革命家や預言者と同じようにほとんど忘れ去られていたか、せいぜい歴史の本の片隅に目立たない存在としてしか、今の私たちの目に触れることはなかったでしょう。もちろん新約聖書もキリスト教も存在してはいなかったでしょう。しかし、復活は起こったのです。

 でも、この時の人々の気持ちは、「やっぱりあの方もメシアではなかった」という絶望と諦めでした。希望に満ちてではなく、途方に暮れて暗い顔で歩いていたのです。

 私たちはイエス様を主と信じ、クリスチャンとして歩み出しましたが、その道は決して平坦なものではありません。辛い目に遭うと、「もう神様なんか信じられなくなりました」と言う人がいます。神様を信じられなくなるのは、辛いことばかりではありません。逆に楽しいこと愉快なことも、神様を見失う一因です。

箴言にアグルという人の言葉が出てきます。「二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。 むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。 飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません。」(箴言30:7-9) 

主を見失うのは、飢えている時でもあり、満ち足りている時でもあるのです。残念なことに、私たちは皆、主を見失いやすい存在です。神様も当事者として共にいて下さることが分からないので誤った判断をしているのです。そこで聖霊の助けを求め、また同じような存在である仲間と助け合う必要があるのです

b. 物分かりが悪く、心が鈍い私たち (22-27)

ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。(22-27)

 彼らはイエス様がよみがえったことを、墓に言った婦人たちから聞いていました。さらにペトロとヨハネが墓に行って墓が空であってことを確かめても、依然としてイエス様の言葉を思い出せなかったのです。遺体がなくなっただけでは、復活されたとは思い至らず、誰かが持ち去ったと思ったのです。復活を信じてはいなかったのです。だから彼らの霊の目は閉ざされたままでした。それは彼らが直弟子でなかったからではありません。使徒の11人も同じでした。先週もお話しましたが、信じることと信じられることとは違います。信じられたら信じますと思っていたら、いつまでたってもイエス様を受け入れることはできません。しかし信じるという意志を持つなら、様々な形でイエス様の救い主としての存在を知ることができます。信じることはあなたの意志です。しかしこの意志でさえ聖霊が働かなければ持つことはできません。人をクリスチャンにすることはできないのです。どんなに犠牲を払い愛しても、その人の心に主の霊が働かなければ、その人は信じることができないのです。だから私たちはイエス様のことを人に伝えるにあたって楽観的で、また謙虚でいなければなりません。どんなに多くの人があなたを通して主に導かれても、あなたが優れているからではありません。反対に、いくら伝えてもその人の心に届かないのは、あなたの信仰が足りないからでも、その人が罪深いからでもありません。まだ神様のタイミングではない、それだけなのです。私達ができることは、神様の介入を祈り求めることです。

c. 心が燃えても、もう一歩踏み出せない (32)

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(30-32)

結局、彼らがイエス様だと気付いたのは、食卓でパンを裂いた時でした。そのとき彼らは、エマオに来る途中でイエス様の話を聞いて心が燃えたことを思い出しました。彼らは心が燃えるような感覚をおぼえたのです。しかしまだイエス様とは分かりませんでした。私達もよく後から思い出すのではないでしょうか?あの時、誰かが言った言葉、してくれた事、そこに、その人と共に主がおられたことを後から悟るのです。その時には、主と分からず、その人には感謝しても、神様には感謝することもなく、それを後で気付くのです。人間関係の中でもイエス様が働いて下さっていることに覚えているなら、私達の日常生活はもっと豊かなで恵みにみちたものになるでしょう

II.どうしたら霊の目は開けるのか?

a. もっと知りたいという願い (28-29)

一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。(28-29)

もし彼らが、旅人を引き止めずに、そのまま行かせてしまったら、彼らは復活されたイエス様に会うことはなかったでしょう。彼らは話している時、イエスとは気付きませんでしたが、その話に心が燃えたので、もっと聞きたい、一緒にいてほしいと思ったのです。願いを持つことは大切なことです。あなたの思い通りではないかもしれませんが、イエス様は願いに応えてよいものを与えて下さる方です。イエス様は彼を知りたくもない人の心を無理矢理、開こうとする方ではないのです。私達にとって、聖書を読むことがちょうどエマオへの道での彼らの経験と良く似ています。聖書をただ優れた道徳の本として読むのではなく、救い主イエス様をもっと良く知るために読むなら、イエス様はあなたの日常にもっと御自身を現して下さいます。

b. キリストの体の一部となる (30-35)

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(30-32)

そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。(33-35)

ついに、イエス様だとわかる時が来ました。それは食卓でイエス様がパンを裂かれた時でした。皆さんもここで聖餐式を思い起こされたのではないでしょうか?ここに私達が毎月の聖餐式を大切にする理由があります。イエス様が十字架に付けられる前に定められた聖餐式を私達は2000年の間、守って来ました。それはまさにイエス様が私達のただなかに今その時、共にいて下さることを確認するために行なっていることです。単に、イエス様が十字架の上でして下さったことを思い出すためだけではありません。そして聖餐式は、今私達がキリストの体の一部である時ことを思い起こさせてくれます。イエス様に気付いた彼らは、折角たどり着いたエマオからエルサレムに戻ったのです。それは出来事を弟子達に伝えるためでした。彼らにとって、このことは個人的なことではなく共同体にとって大切な出来事として、伝えずにはいられないことだったのです。私達がこの体の一部である限り、イエス様も私達につながっていて下さり、私達の霊的視力を良く保って下さいます。

<メッセージのポイント>

イエス様は私たちの人生という、長い道程の同伴者です。 イエス様はどんな時でも決して離れずにいて下さるのに、私たちの方が勝手に見失いパニックに陥ったりしてしまいます。それは私たちが目に見える状況を正しく判断することができず、絶望したり、本気でイエス様だけに従って行こうと思っていなかったりしているからです。また心が燃えて、これはイエス様の呼びかけかなと思っても、つい踏み出せないで恵みのチャンスを失うこともあります。恵みを豊かに受け取って、それを大胆に与える者となるために、イエス様をもっとよく知ろうとすること、体の一部としての自覚を持って行動することが大切です。

<話し合いのために>

1) なぜ彼らはその人がイエス様だと、なかなか気付くことができなかったのでしょうか?

2) どうしたらいつもイエス様を見失わずに歩むことができますか?