April 6th,-12th, 2008 Vol.15 No.14

  


メッセージ シリーズ:復活されてから天にお帰りになるまでのイエス様

復活してからも忙しいイエス様(ルカ24:36-49)

 イエス様はここで初めて主だった弟子達に復活された姿で御自身を現されました。その第一の目的は復活の事実を確信させるためでしたが、それだけではなく、もう一つの大きな目的がありました。それは、やがてイエス様が目には見えないという新しい環境の中で、彼らが主と共に歩んでゆくために大切なことを教えることです。

十字架にかかる前、弟子たちは文字通りイエス様の後に従ってゆきました。しかしこれからは派遣された者として歩んでゆくのです。クリスチャンは主が父のもとに帰られてからは、みな派遣された者として、キリストの大使としてそれぞれの持ち場に遣わされているのです。

a. 平和の宣言された (36, ヨハネ14:27)

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。(36)

 実はイエス様は私たちクリスチャンを世界中に派遣することの原型を福音書の中でも見せて下さっています。同じルカによる福音書の10章に、72人を二人ずつご自分が行くつもりのすべての町や村に派遣したと記されています。そして、どこかの家に入ったら、まず最初にするべきことは「平和があるように」と言いなさいと命じられたのです。

 ここでいう平和とはどのような平和なのでしょうか?ヨハネによる福音書14:27によるとイエス様のお考えになる平和と、私たちが普通に考えている平和とは少し違いがあるようです。

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネ14:27)

 普通平和とは戦争のような争いのない状態です。世が与える平和、つまり実際に戦いのない状態であっても、私たちの心は平和とは言えません。それは人間同士の対立がないように思えても、ほとんどの人は人々は気付いていないのですが、神様との対立関係があるからです。イエス様の十字架は、私たちが神様との平和な関係を取り戻すためになされた出来事です。

 私たちは世界が「神様との平和」を取り戻すためにここに遣わされています。この働きを担うためには、自分自身の心が神様との平和に満たされていなければなりません。イエス御は彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのは、彼らに、イエス様がいつもかれらの真ん中におられること、神様との平和がイエス様によって保たれていることを実感させるためでした。

 この平和は、目に見える状態がどんなに平和にほど遠いものであっても私たちのなかから消えることはありません。世の罪が生み出す悲劇は世の終わりまでなくなることはありません。それでも私たちは、ただで与えられた「神様との平和」をただで与えるために生きてゆきます。ただでといっても、それは十字架という代価をイエス様が代わりに支払ったことによるのです。私たちも誰かがそれをただでイエス様から受け取ることができるように、いろいろな犠牲を惜しまずに払いましょう。


b. 亡霊でない証拠を見せた (37-43)

彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。 (37-43)

 イエス様が平和を宣言しても、弟子たちはまだ復活を信じられません。イエス様の亡霊が現れたと思ったのです。それは無理のないことです。誰もイエス様がよみがえる瞬間を見ていたわけではなかったのですから。しかし、イエス様としては弟子達には確信を持ってもらわなければなりませんでした。最初の弟子からこの確信が怪しければ、到底、世の終わりまでこの確信を伝え続けることなどできないからです。彼らはいくつもの証拠を順番に示されて、ついに食べるという最も日常的な仕草を見せられて、主の復活を確信しました。

 私達の確信も同じです。大きな恵みを一つ体験しても、その確信は簡単に覆るものですが、小さくてもいくつもの恵みをいただいてゆくことによって、その確信は動かないものになるのです。


c. この出来事が預言の成就であったことを告げる (44)

イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」(44)

 イエス様は、弟子達が復活の事実を確信するだけでは不十分だとお考えでした。それでは何が足りないのでしょうか?それは十字架と復活が単に事実であるだけではなく、旧約聖書の預言の成就であるという理解です。つまりこの出来事は旧約聖書に記された神様の計画の一部だということです。このことは私達がイエス様に従ってゆくに当たって、その時その時の現象や自分の理性、感情などに頼るのではなく、神様の計画が世の始めから一貫して示されている神様の言、聖書に信頼をおく必要があることです。

d. 弟子たちに対する預言と命令 (45-49)

 さてここまでイエス様は、彼らの宣教の根拠となる事実を確認させることに費やされてきましたが。最後の一つは、将来に向かっての預言と。今なすべきことの指示です。

そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(45-49)

 まずイエス様は再び来られる日まで、イエスキリストの名によってなされる弟子たちの働きが世界中に広がる事を預言し励ましています。それはアジアの西の端から始まり、ヨーロッパ、アメリカを通ってアジアの東の端にある日本にも500年ほど前に届きました。ウイクリフ聖書翻訳協会は500もの聖書翻訳を完成していますがまだ300の言語の聖書は出来ていません。イエス様の復活以降、あらゆる時代の、あらゆる地域のクリスチャンがこの預言に従って着実に神の国の福音を伝えています。このことの出発点に立っていた弟子たちに、預言が与えられ、ついにイエス様は言われました。「さあ行きなさい」ではなく「都にとどまっていなさい」それが彼らへの命令でした。なぜ? 彼らの知識、彼らの気持ちの準備は十分でした。しかし宣教にあたって最も必要な準備はまだだったのです。それは「高いところからの力に覆われる」つまり聖霊を受けるということです。彼らはペンテコステという祭りの日まで待たなければなりませんでした。

 聖霊の力を受けてでなければ私たちは与えられている務めを果たすことはできません。多くの誠実なクリスチャンが与えられている務めの半ばで燃え尽きてしまうことを何度も見てきました。燃え尽きてしまうのは、自分の力を頼りに歩んでいるからです。聖霊に満たし続けていただくことこそ務めを全うするために最も必要なことなのです。

 このことについては5月のペンテコステの礼拝で詳しくお話しする予定です。

彼らはその時まで、7週間も待たされました。彼らはその間、心を合わせて祈り求めていました。神様の応えは、自分の期待とは異なっているかもしれませんが。必ず最高の答えを与えて下さいます。

<メッセージのポイント>

復活後、御自身を現されたイエス様は、弟子たちによって展開される、世の終わりまで続けられる宣教に備えて、彼らを丁寧に整えてゆきます。復活されたお姿で彼らに接することのできる残された時間は40日(使徒言行録1:3)。この間にイエス様は彼らを十分に整えました。これらのことは私たちがイエス様の愛の働きに用いられるためにも不可欠な準備です。私たちはこの信仰を受け継ぎ、次の世代に伝えてゆきますが、まず自分自身がこれらのことをしっかりと受け取っているか、確認してみましょう。これらのことに確信を持っているからこそ、誰かに信仰をバトンタッチすることが出来るのです。

<話し合いのために>

1)「あなたがたに平和があるように」それはどのような平和なのでしょうか?

2) 彼らは「待て」と命じられましたそれは私たちにとってどのような意味がありますか?