April 13th,-19th, 2008 Vol.15 No.15
復活されてから天にお帰りになるまでのイエス様メッセージ(3)
あなたは幸いな人(ヨハネ20:24-29)
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 (24-25)
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 (26-27)
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 (28-29)
I. トマス:見て信じた幸いな人
a. イエス様はトマスを責めてはいない
トマスの残念な気持ちを皆さんもよく理解できると思います。みんなイエス様を見たのになぜ自分だけそこにいなかったのだろう。本当にがっかりしたのでしょう。彼は主の復活なんて信じない、ということが言いたかったのではなく、私だって、自分の目の前で主にお目にかかりたかったのです。愛する皆さんがそう口を揃えて言うのだから、間違いはないでしょう、でも私も主にお会いしたい。それは主を慕う大変素直な気持ちだったのです。「疑り深いトマス」というステレオタイプのレッテルを信じてはいけません。
イエス様もトマスを責めてはおられません。イエス様はこのトマスの心情に応えて、次の週に前回と同じことを繰り返してくださったのです。イエス様は一週間前にトマスが言った疑いをちゃんと御自身が聞いていたことを示されて、傷に手を入れてみなさいと言われましたが。トマスは見ただけで信じる者になったのです。
b. 「主の日」となった「週の初めの日」
イエス様がよみがえられた週の初めの日に再び主が姿を現されたので、「週の初めの日」は主を信じる人々にとって、主が御自身を現された特別な日となりました。それまでは彼らにとっても、ユダヤ教の伝統に従い、週の終わりの日「安息日」を聖なる日として守っていたのです。神様が安息日を定めたのは、人々が、神様によってこの世界を創造されたことを覚え感謝すると共に、安息日を守って神様の造られたものを休ませるためでした。残念ながら人間の堕落は創造直後から始まり、安息日は、私たちを造ってくださった神様を感謝する日でもなければ、被造物を休ませる日でもなく、律法的に、形式的に守るための日になってしまいました。
安息日は何よりも神様の大きな懐の中で憩う日であったのに、その日を設けてくださった神様の意思に反して、律法主義の象徴のような日になってしまいました。そんな状態から人々を救い出し、新しい命に生きるためにイエス様は来られたのです。復活の喜びを知った人々にとって、神様に捧げる特別な日は、この時も彼らの周りで喜びも希望もなく律法的に守られていた安息日より週の始めの日の方が相応しいと思われたのです。日曜日は過去についての感謝をするだけでなく、主と共にいる今を楽しみ、主が共にいて下さる喜びを持って週の歩みができるように、心に神様の言というガソリンを満たす時。必要ならミニストリーという整備を受ける事もできる時。私たちの過去と現在と未来にかかわる大切な時なのです。
II. あなた:見ないで信じる幸いな人
a. 見て信じるということ
十二使徒などというと、私たちなど足元にも及ばない信仰の達人、霊的で、きよい人々と思いがちですが、彼らは普通の人々でした。イエス様の弟子たちは皆、復活のイエス様を見て確信したのです。彼らは皆、見ないで信じた幸いな人ではありませんでした。それは彼らが幸いではないということではありません。地上のイエス様と共に歩め、復活したイエス様に会うことのできたのですから、彼らは見て信じた幸いな人でした。ここでイエス様がおっしゃっていることは二つの信仰のレベルがあってトマスの信仰はB級ですということではないのです。
b. 見ないで信じるということ
それでは、見ないで信じる幸いな人とは誰のことなのでしょうか?それはイエス様が天の父の元にお返りになった後に信じたすべてのクリスチャンのことです。もちろんあなたもその中の一人です。あなたは復活の主にであったこともないのにそれを信じられたのです。見なければ信じられない者は沢山存在します。だからあなたは幸いだというのです。さて私たちは見ないで信じたなら何を根拠に信じたというのでしょうか?それは「証言」です。最初、復活の主を見て信じた人々は、自分たちとは違い復活を自分で確かめるチャンスを持たなかった人々に伝えなければなりませんでした。自分たちが信じたのとは違う方法で伝えなければならなかったのです。彼らはイエス様にすべての民を私の弟子にしなさいと言われて、困難をおぼえたのではないでしょか?彼らは言葉と行い、生き方だけで主の十字架と復活を伝えなければならなかったのです。もちろん、この時から二か月足らずで聖霊が下り、力が与えられ、人々は彼らの証言を信じて信じる人々が次々に起こされ始めます。しかし、まだそれが起こっていないこの時点で、イエス様は、見ないで信じることが起こされることをあらかじめ示されたのです。見て信じた弟子たちから伝えられた第二世代のクリスチャンたちにとっては、イエス様を伝えれば人々は見ないでも信じてくれることを自分の経験として知っていましたから、弟子たちとは違いそれは当然のこととなりました。そして私たちもそのような人にイエス様を紹介され「見ないで信じる者」になったのです。
あなたが信じた、また誰かに向かってすることを命じられている証言ですが、それが伝わるかどうかは、その内容だけで決まるものではありません。証言する人がどのような人なのかということが大きな要素となるのです。特に聖書の内容を知らない人にとっては、あなた自身の生き方が信じるきっかけになる場合もあるのです。私たちはそのようにいわれるなら声を揃えて「自分はそんなに立派なクリスチャンではありません」と言いたくなるでしょう。確かにそうなのです。だからこそ毎週主に出会う体験:礼拝することが私たちには欠かせないのです。あなたは誰かと比べて立派なクリスチャンである必要はありません。必要なのは、礼拝と交わりを通して、自分が生きて働くイエス様の体、教会の一部であると自覚を保つことです。
<メッセージのポイント>
イエス様が週の初めの日に二回にわたって復活の姿を現されたことによって、最初のクリスチャンたちは、主の初めの日を「主の日」として祝うようになりました。イエス様はトマスが疑ったことを責めてはおられません。弟子たちの中で復活を見ないで信じた人は一人もいません、トマスは例外ではなかったのです。彼らは私たちと同じように「信じる人」です。イエス様が天に帰られて以降、信じる者はほとんど(パウロのような例外を除いて)は見ないで信じた者です。イエス様は弟子たちに、ご自身の姿を見ることがなくても信じる者が起こされることを教えて彼ら励ましたのです。
<話し合いのために>
1) あなたはどのようにしてイエス様を信じたのですか?
2) イエス様はどのような意味を込めて「見ないのに信じる者は幸いである」と言われたのでしょうか?