April 20th,-26th, 2008 Vol.15 No.16

  


復活されてから天にお帰りになるまでのイエス様メッセージ(4)

賜物と決意:信仰の旅に必要なもの(ヨハネ21:1-23)

今まで三週にわたって、よみがえられた後、天に帰られるまでのイエス様の忙しい仕事ぶりを振り返ってきましたが、今日のテキストにはペトロが初代教会のリーダーとしての役割を担えるようになるための、イエス様の大切なレッスンプロセスが紹介されています。初めに6節までを見てゆきましょう

その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。(1-6)

ペトロの元々の名はシモンでした。イスラエル12部族の元となったヤコブの12人の息子の次男と同じシメオンのギリシャ語読みです。イエス様は最初に彼に会い、私に従ってきなさいと言った時に、これからは彼をペトロと呼ぶとおっしゃったのです。それは岩という意味で、イエス様や弟子たちの日常語アラム語ではケファです。アラム語とヘブル語には方言ほどの違いしかありません。イエス様のこの命名には大きな意味が隠されていたことが後に分かります。(ヨハネ1:42)

I.賜物

イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。(7-8)

さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。(9-14)

a. ペトロの賜物

神様は 、ペトロに初代教会のリーダーとして必要な賜物を豊かに与えて、その役割を果すことができるように整えられました。イエス様はそのようなペトロに初めて会った時に、天の父が与えた特別な賜物を見抜いて、彼を弟子としました。しかしそれは彼が特別な才能を持っていたとか特別に清い人であったということではありません。欠点も多い普通の人であったことは福音書を読めば明らかです。

それでも、彼が漁に行くと言えば、周りの人々も「わたしたちも一緒に行こう」と言いたくなるような人でした。それは、ペトロの素直に、そして大胆に主に従う姿勢がそうさせたのです。ある時イエス様は弟子たちに尋ねました「人々は、人の子を何者だと言っているか?」弟子たちはイエス様が人々にバプテスマのヨハネやエリヤ、エレミヤらの再来だとか、預言者の一人だと言われていると答えました。イエス様は「それではあなたがたはわたしを何者だというのか?」と、彼ら自身の見解を尋ねました。この質問に答えたのはペテロでした。「あなたはメシア、生ける神の子です。」それに対してイエス様は「あなたはペトロ、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」とおっしゃいました。

神様はそれぞれの働きに相応しい、異なる賜物をお与えになっているのです。 ペトロには初代教会のリーダーとして必要な賜物をお与えになったのです。

b. あなたの賜物

一人一人に、異なる賜物が与えられているから私達は組み合わされて用いられます。ただ、異なっているといってもほぼ同じような器官が人体にあるようにキリストの体にも同じように見える部分はあります。そこで私達は、皆にあるのに私にだけはない、と不満になることがあるのです。 たとえば左右の目や耳の機能は同じでも担当する役割は異なります。それに対して一つしかない口が、なんで私だけ見えないのですか、と不満を言ってどうなるでしょうか?私たちには皆、誰もが自分らしく主に仕えるためにそれぞれに異なった賜物が与えられています。神様が計画に従って与えられたものですから、私たちはそれを誇ることをしてはいけません。また人の賜物を見て、自分を卑下してはいけません。

II.  愛に生きる決心

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。(15-19)

a.  本当に私を愛するか?

 イエス様はペトロをふたつのことを通して、リーダーとして歩む備えをしました。彼の愛に生きる決心を動かないものとすることと、他の人のことを気にするのではなく神様を見上げて生きることができるようにすることです。イエス様は彼の決心を確かなものとするために三回、「あなたはわたしを愛するか?」と尋ねました。そのことにどのような意味があったのでしょうか? 彼はイエス様が十字架に架けられる前に三度も、イエス様なんて知りません、と言ってしまいました。そのことが深く彼の心に染みついていたので、どんなに豊かに賜物を与えられていたとしても、そのままではそれらを発揮することはできず、リーダーとして人々を導くことはできなかったのです。三回もイエス様とは関係ないと言ってしまったペテロの心の傷を一つ一つ丁寧にいやすように、同じことを三度聞いたのです。傷つく時に痛みを伴うのは当然ですが、治療にも痛みが伴うものです。かつてのペトロは、自分は誰よりもイエス様を愛していると言ってはばからない自信を持っていましたが、それは簡単に崩れ去ってしまいました。イエス様から、わたしを愛するかと聞かれることは、ペトロにとって大変辛いことした。「もちろん愛しています」と言いたい気持ちと、三度もイエス様を知らないと言った裏切り者にそんなことを言う資格は自分にないという気持ちが彼の心の中で激しく争いました。

 私たちもペトロと同じではありませんか? 誰も「わたしは誰よりあなたを愛しています」と心の葛藤なしに言い切ることができる人はいないはずです。しかし、それは大切なことなのです。自分が罪深いものであることを自覚しながら、それでもあなたを愛します。というあなたの決心をイエス様はお聞きになりたいのです。わたしにはイエス様を愛するなんて言えないという思いは、あなたを主から引き離したいサタンの与えるものです。耳を貸してはいけません。しかし私たちが、何の後ろめたさも感じずに愛していますと言えるとすれば、それは自分のことを知らなすぎます。

b.  イエス様を愛するならイエス様の羊を飼いなさい

興味深いことに、イエス様は「愛しています」とペトロが答えるたびに「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」少しずつ違いますが、内容は同じことです。あなたが愛すべき人を愛しなさい。心を込めてお世話をしなさいという意味です。結局のところ、イエス様を愛するというならイエス様の羊、すなわちイエス様があなたに委ねた人々を愛するという行動によってその愛を現しなさいということです。礼拝すること、賛美すること、祈ることなど主と過ごす時が私たちにとって最優先のことであるということは間違いありませんが、それが人を愛するということにつながっていかなければ、本当に愛することにはならないということです。

 今、皆さんの中に、主が強く語りかけておられると思われる人はいませんか?どうぞ、葛藤を押さえて「あなたを愛します」と告白してください。そして、イエス様の羊の世話をしてください。

III. 他人とではなく神様との関係に生きる決意

ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。(20-23)

a. 「主よ、この人はどうなるのですか」と聞きたくなる私たち

弟子たちのリーダーであったペテロですが、彼より若い弟子ヨハネの存在がとても気になっていたようです。ペトロは実践的なリーダーとしてイエス様に信頼されましたが、ヨハネという人はのちに思想家、神学者、理論的なリーダーとして用いるために、イエス様が、ペテロと同様に近くにおいた人だったのです。それで福音書記者たちは特に愛した弟子と表現しています。イエス様は12人の弟子の中で、彼らにヤコブを加えた三人をリーダーとして育てるために、特別な訓練をしていました。神様から見れば、彼らはキリストの体の別の部分、異なる分野でのリーダーでしたから、優劣のつけようはありませんでした。それなのに私たちは、どちらが一番か、どちらがイエス様により貢献しているかと考えてしまう性質を持っています。イエス様は「それはあなたとは関係のないことだ」と答えられています

b. あなたにはあなたの道がある

イエス様はあなたにも同じように勧められます。人がどう仕えようと関係ありません。むしろ、わたしはどう仕えたら良いのかと祈り求めるべきです。あなたはあなたの道を行くのだから人と比べても意味がありません。ただ、その道は、自分だけの道といっても誰も寄せ付けない孤独な道ではありません。それは主と共に歩く道です。またそれは同時に、主を愛する他の人々とともに歩む道です。それぞれに与えられた計画に従って歩む時に同労者が与えられ、力を合わせて働きますが、それが一生の付き合いになることもあれば、一時的である場合も多いのです。どうぞ覚えてください、あなたにはあなたにしか歩むことのできない道があります。 そのために必要な賜物を神様は豊かに与えておられます。

<メッセージのポイント>

 ペトロはイエス様の昇天後、弟子たちのリーダーとして初代教会の形成に生涯を捧げ、殉教してその生涯を閉じた人です。彼の素直に、そして大胆に主に従う姿勢は私たちの誰もが見習いたい、神様に対す態度です。しかし、ペトロは信仰のスーパーヒーローではありません。弱さや欠けを自覚して成長し続けた人でもあったのです。私たちに必要な素直で大胆な信仰、愛するために生きる決意、人のことではなく神様のことを注目する態度を持つことができるよう、祈り求め、主の訓練を受けましょう。

<話し合いのために>

1) イエス様はなぜ3回も繰り返し「私を愛するか」と言われたのでしょうか?

2) あなたがペトロに見習うべきことはどのようなところですか