May 4th,-10th, 2008 Vol.15 No.18

 


復活されてから天にお帰りになるまでのイエス様(6)

聖霊と教会の時代が始まる(使徒言行録1章)

今日のテキストは少し長いのですが、まとめていうなら「聖霊の力によって、再びイエス様が来られる時まで、イエス様の愛で人々を愛し続けましょう」ということです。

聖霊の力で:自分の知恵や力ではないから自分にも出来る!

再臨:それがいつかは分からない。自分が天国に帰ってからかもしれないし、明日かもしれない。いつであっても、その時に後悔しないように生きてゆこう!

信仰を伝える:それはイエス様信じなさいと勧めることだけではありません。むしろその人のためにイエス様だったらどうしてあげるだろうと考えて、出来るだけそのようにしてあげることです。

I.  今でも有効なふたつの約束

a. あなたを聖霊で満たし、地の果てまで私の証人として送り出す

イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(3-5)

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。(8-9)

「聖霊の力によって、再びイエス様が来られる時まで、イエス様の愛で人々を愛し続けましょう」の「聖霊の力によって」というのがこの部分です。「聖霊による洗礼」つまり神様が聖霊を注がれる、私たちの側からいえば聖霊に満たされる。という約束をイエス様はなさいました。なぜ聖霊に満たされる必要があるのでしょうか?それは、この世界の全ての民が神様との和解を待っているからです。クリスチャンは和解の使者としてこの世界に遣わされています。といっても、それは必ずしも海外に出向くことではありません。和解は愛によってもたらされるのですから、あなたは日常生活のあらゆる場面で和解の使者として愛します。随分、大袈裟に感じられますか?しかし、それはむしろ大袈裟というより困難なことなのです。昨日の結婚式で愛(LOVE)は生涯を懸けた(Lifelong)、実践的で(0n-the-job)、自発的な(Voluntary)努力(Effort)と綴るとお話ししました。聖霊の力に満たされることなしに、愛することはできません。

 「キリストの体」である教会は聖霊の力によって2000年間、愛し続けてきたのです。あなたがその枝としてイエス様にお仕えしてゆきたいなら、聖霊に満たしていただく必要があります。

b. イエス様は再び来られる

そしてここは「聖霊の力によって、再びイエス様が来られる時まで、イエス様の愛で人々を愛し続けましょう」の「再びイエス様が来られる時まで」というのが次のふたつの部分です。

さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。(6-7)

この使徒たちの質問にはふたつの間違いがあります。一つは、イエス様が超えてしまった民族主義の枠を彼らはまだ超えられず、イエス様の目的を一民族のことに限定してしか理解できていないという点です。この点を間違う可能性は現代のどこの国の教会にも十分あるのです。

 確かにイエス様はあなたの国を愛しておられます。でもそれは、国の組織とか政府、持っている武器を愛しているのではなく、そこに住む一人一人を愛しておられるのです。イエス様は、イスラエルを復興するためでも、今ある国々のどれかを新しいイスラエルにするためでもなく、神の国を完成するために今も働いておられるのです。クリスチャンは愛国者というより、その場所におかれた「革命家」です。もちろん○○主義といわれるようなもののためではありません。武器によって戦うのでもなければ、言論によって戦うのでもありません。神の国の戦いは目の前にいる人を愛することによってなされます。目に見える領土や利権を求める戦いではありません。愛することによって人々の心に神様の愛を伝え、その人の心を愛が占領することが私たちの任務です。

もう一つの間違いは、イエス様に向かって時を尋ねるということです。イエス様はそれを知らないままで戦いなさいと命じておられるのです。初代教会の人々は、神の国がすぐにでもやってくると考えていました。彼らの中に、この戦いが2000年以上続くと思っていた人はいませんでした。しかし続いています。

イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(10-11)

イエス様がいつか再び来られます。それもイエス様と分かる姿で。それは他の誰にも、「私こそ再臨のキリストです」というような嘘を許さないためです。今までもそのような人、イエス様は「偽メシア」という言葉をお使いになって警告しています。(マタイ24:24)

再臨は、この戦いが勝利に導かれ神の国は完成するという約束です。しかし忘れてはならないことは、神様が私たちに時を知らせるつもりはないということです。教会は、イエス様が知らなくてもいいとおっしゃったにもかかわらず、終末/再臨が近いと証明するために無駄な時間と労力を費やしてきました。私が終末や再臨について詳しく教えるつもりがないのは、イエス様が「あなたがたの知るところではない」とおっしゃったからです。このことについてしっておくべきことは、それが一万年先であっても、一時間後であってもいいような生き方を今、していなさいということです。それが何世代先であっても良いように、できるだけ良いものを次世代に伝えなければいけません。それと同時に、それが一時間先に来ても悔いが残らないように、ひと時ひと時を愛に生きるのです。

II.  使徒の務めは引継がれてゆく

そしてここからの残りの部分は「聖霊の力によって、再びイエス様が来られる時まで、イエス様の愛で人々を愛し続けましょう」の「イエス様の愛で人々を愛し続けましょう」というのが残りの部分です。

使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。(12-14)

そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。 「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。 ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。 ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。 このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。 詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」 そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。 ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。(15-26)

a.  「ユダショック」をのりこえて

イエス様の約束はありましたが、約束の聖霊はまだ下っていません。イエス様の姿ももう見ることはできません。残された11人の弟子と女性の弟子、母マリア、主の兄弟、彼らが初代教会のリーダーでした。ユダの出来事は、彼らにとって大きな衝撃でした。ペトロはこのことが起きて、詩編のふたつの箇所を思い起こして(69:26,109:8)、このこともまた神様の計画のうちに起きたことと理解しました。皆さんにも、イエス様を愛していたのに離れ去って行った友人がいるのではないでしょうか?それは私たちにとって残念なことですが、まだ友達でいられるなら連れ返すチャンスはやってくるでしょう。もうあなたに耳を傾けてくれないなら、その魂については主に委ね祈ってゆけばよいのです。いずれにしても私たちは、復活の証人として伝え続けるのです。11人の弟子たちにとってこの補欠選挙は、ユダの出来事を乗り越えて、勝利の日まで宣べ伝えてゆくという決意の現れでした。誰が倒れ、務めを放棄しても次の人を立てて、働きを進めてゆく。この仕方で私たちはここまでやってきたのです。

b.  あなたも主の復活の証人

そして、これからもそのように歩いてゆくのです。実際に主をその目で見たものは、教会の歴史の最初の100年ほぼいなくなりました。それでも主の愛を知り、主がおられることを確信した人々が次々に起こされて、あなたにまでとどきました。あなたはこの貴重な歴史的救いの系図をあなたのところで行き止まりにしたいですか?そうでなければ、聖霊の力と知恵に満たされて次の人に伝えましょう。前半でお話しした、イエス様が教えてくださった戦略を覚えていますか?それが何千年先であれ一日先であれ、私たちがすることは愛し続けることです。愛をどう綴るか覚えてくれましたか?愛(LOVE)は生涯を懸けた(Lifelong)、実践的で(0n-the-job)、自発的な(Voluntary)努力(Effort)を続けることです。

<メッセージのポイント>

昇天の時は近づきました。それでもイエス様は弟子たちに、慌てて何かを始めるのではなく、エルサレムを離れず約束の聖霊を待ちなさいとおっしゃいました。聖霊の力を帯びることなしに、クリスチャンは主から委ねられた務めを果たすことはできないのです。イエス様が天にのぼられた時に現れた天使は、「私は再び来ます」と言われた主の言葉をもう一度、彼らの心に刻み付けられるように語りかけました。私たちの務めは主が再び来られる時までという限定的なものなのです。その日まで時が良くても悪くても、伝えられた信仰を、次の人々に伝えてゆくのが私たちの務めです。

<話し合いのために>

1) ここから学んだことを、一人一つずつシェアしましょう。

2) なぜユダの代わりに、もう一人使徒を加えたのでしょうか?