May 11th,-17th, 2008 Vol.15 No.19


シリーズ・ペンテコステ(1)

教会の誕生日(使徒言行録2:1-21)

A その時、何が起きたのか?

1)教会の始まりは聖霊の注ぎ (1-5)

今日はキリスト教のカレンダーでペンテコステと呼ばれる日です。五角形の建物ペンタゴンと同じ語源で50日目という意味で本来はユダヤ教の祭日シャブオット(Shavuot)のギリシャ語訳で過越祭の50日後に祝われる春の収穫に感謝する祭でした。クリスチャンにとっては復活祭から数えて50日後に聖霊が祈りながら待ち望んでいた人々の上に下ったことを記念する日となりました。そしてこの出来事が多くの信じる者を起こし教会が誕生した日としても祝われるようになりました。実際にそのとき起こったことが1-4節に記されています。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(1-4)

この時、起こったことは個人的、主観的なことではなく、そこにいる人の誰にでも分かる客観的な事実でした。それは聞こえ、見え、習ったことのない多くの言葉を話すという奇跡の体験でした。これと同じような奇跡は2000年の教会の歴史の中で時折現れましたが、20世紀のアメリカで起こった現象から、ペンテコステ派と呼ばれる教会が生まれ、今では最も早い成長を続けている教派となっています。 ここに記されている教会が生まれるきっかけとなった出来事は、イエス様が天に戻られる直前になさったふたつの約束の一つ、聖霊で満たすということの成就でした。聖霊に満たされなければ与えられた務めを果たすことができないのは現代のクリスチャンも同じです。現象として全く同じことが起こる必要はないのです。しかし、教会は聖霊に満たされ続けなければなりません。教会はキリストの体ですが、人間の組織でもあります。時がたつにつれて古くなって役に立たなくなったり、堕落、腐敗を起こしたりすることが避けらないのです。約2000年の教会史を振り返ると何度か、教会は危機を迎えましたが、聖霊の注ぎを祈り求めた人々に神様が応え、新しく注がれた聖霊の働きによって新しくされて来ました。500年前の宗教改革もそうでしたし、20世紀の情熱を失った教会に新しい聖霊の風を吹き込んだのがペンテコステ派、聖霊派、カリスマ派といった聖霊の満たしや働きを重視した教会でした。一つ一つの教会ではもっと短いサイクルで停滞や危機が訪れます。それを乗り越えるには、この聖霊の力が必要なのです。水のバプテスマのような、一回きりの不思議な体験ではなく、満たされ続ける必要があることなので私は聖霊のバプテスマという表現より、聖霊の満たしという表現をお勧めしたいと思います。

2)教会は全ての民に向けて開かれている (5-11)

さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(5-11)

ここで弟子たちが習ったこともない言葉で語り出した、という事には大きな意味があります。それは福音が一つの民族を超えて世界中に広がってゆく事の神様の予告でした。弟子たちにとってはまだ福音が世界中に広がる事など想像できていませんでした。この神様の予告は今実現しています。 今のクリスチャンが、異国の言葉で語れないからといって、聖霊に満たされていないとがっかりする必要はありません。ある人々は異言を語る事が聖霊を受けた証拠だと主張していますが、一つの証拠と言うべきだと思います。なぜなら、異言は聖霊の賜物であり、賜物は神様が私たちに自由に分け与えられるものですから、一つの賜物だけを取り上げて、それが現されたからその人は聖霊を受けたとするべきではないのです。聖霊の注ぎは目に見える形で起こりますが、人はそのような状態を人為的に作り出すことができます。それが本当の体験なのかどうかは、自分にも他人にも分かりませんが、そのことがどのような実をもたらしたかによって判断することができます。今日の聖書の一節が本当の聖霊の注ぎであった事は、その日のうちに3000人の人が救われた事、民衆全体から好意を寄せられた事から分かります。 私たちは自分の身に不思議なことが起こる事を期待して求めるのではなく、御霊の実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、節制-ガラテヤ5:22-23)を実らせるために聖霊の満たしを祈るべきなのです。 かつて、聖霊の器と称された人がスキャンダルを起こした事が何度かありました。結局それは本当には満たされてはいなかったという事の証拠です。私たちは聖霊の満たしを祈り求め続けます。 あらゆる人々にイエス様を紹介するために満たされ続ける必要があるのです。

3) 教会は全ての人から好意を得られるわけではない (12-13)

人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。(12-13)

ここで起こった現象をみて、それを理解できずあざ笑った人がいた事を12−13節が記録しています。聖霊の起こされる現象は常識では理解できないものなのです。表面的に見るならそれは酔っぱらっているようにしか見えなかったのです。 この教会の名前は「あなたの教会」です。あなたとは誰の事をさしているのでしょうか?まだイエス様を知らない人に、ここは私のための教会だと思ってもらえるほど居心地の良いものでありたいと思っていますが、それは第二の事です。第一は神様の事です。ここは神様の教会です。牧師の教会ではありません。誰も自分の思い通りの教会にする権利はないのです。そこでリーダーは注意深く神様に聞き従うものである必要があります。神様の命じられている以外の事は何でも譲って、親しみやすいところにしようと思っていますが、福音を口当たりを良くして伝える事は決してしません。どんなにイエス様が神であるという事、従うべき主であるという事、十字架による罪の赦しという事に人気がなくても、「そう信じる必要はありません。偉大な道徳教師として尊敬し、その言葉に従えば良いのです」とは言わないのです。それと同様に聖霊がここで何をなさろうと、それが悪霊であれ、心理的錯覚であれ、別のものの働きでなければ、自由に働いていただきたいと願うのです。 人々に好意を持たれるために、聖霊に向かってあまり不思議なことはなさらないでくださいとは言いたくないし、言ったところで神様がなさるなら誰も止める事は出来ません。 ただし神様は無秩序の神ではなく平和の神(1コリント14:33)ですから、ユアチャーチでは多くの人々を安心して招けるように礼拝では異言ではなく理性で語る方をとります。しかし求める者に豊かに与えられために設けられた「力の時間」には何の制限もありません。

B ヨエルの預言が成就 (14-21)

すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。 わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。 主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』(14-21)

1)終わりの時の始まり

聖霊が下り、新しい時が始まりました。この時はイエス様のもう一つの約束、イエス様御自身が再び来られる時まで続く時代です。それは時代と言っても私たちの歴史を細かく分ける「時代」ではなく二千年前から始まり今も続いている「時」です。私達はこのような終わりの時に生きています。 ペンテコステの出来事は、神様が気まぐれになさったことではありません。旧約の預言者を通して予告なさっていたことでした。先週もお話ししたように、終末がいつ来るのか、といったことに関心を持つ余裕はユアチャーチのメンバーにはありません。私達はそれが次の瞬間でもいいように愛し、1000年後でもいいように信仰を伝えているのです。

2)主の名によって救われる時

ですから私達は、戦火や自然災害、荒れすさんだ人の心を見る時、自分がどう天に引き上げられるのか、ということには心を引かれません。私達は21節に書かれているように、このような時こそ、人々が主に呼び求めて救われるように勧めるのです。

<メッセージのポイント>
聖霊の注ぎによって、教会は始まりました。イエス様は、私達が人間の知恵や力で教会を建て上げることを望まれませんでした。それではどんなに立派な組織ができても、人の教会でしかなく、神様の教会にはなれないのです。私達はただ、神様の霊、聖霊に従って、世の終わりまでイエス様の名によってのみ救いがあることを、あらゆる人々に伝えるためにここに遣わされているのです。

<話し合いのために>
1) ここで人々が語った異言とはどのようなものでしたか?
2) 主の名によって救われるとはどういうことですか?