May 25th,- 31st, 2008 Vol.15 No.21
教会(自分)をもっと良く知るシリーズ:エフェソの信徒への手紙より(1)
神様の恵みを豊かに受けられる根拠 (第1章)
神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(1-2)
この手紙は使徒パウロがローマにいた時に、エフェソや、その周辺の諸教会に向けて書かれた、とされているものです。エフェソは今のトルコにあり、当時はローマ帝国の支配下でアジア州の州都として栄えていた都市です。ギリシャ神話の女神アルテミスの像を祭った大神殿があって、パウロの宣教は激しい反対の中で進められましたが、この手紙が書かれた頃には、イエス様に忠実な教会が形づくられていました。日本での宣教の困難さの一つの要因はエフェソと同じように偶像礼拝の影響を深く受けていることです。といっても、あちこちに仏像やご神体が祭られている事が問題なのではありません。人々が様々な物事を神として崇拝するのを当然とする考え方が行き渡っているからです。天地創造の神様を知らないので、人間や物質に仕えるのです。それは富であったり、自分の子供であったりさえするのです。私たちがイエス様の恵みを伝えようとするなら困難は常に存在します。しかし、困難に目を奪われていたら、神様が与えてくださる恵みに気がつけません。今朝は、どんな困難のうちにいようと圧倒的な神様の恵みがあなたに注いでいるということを、このテキストから実感しましょう。
イエス様を信じてその体の一部となっているということは、四つの側面を持つ最高の恵みに与っているということを意味します。
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。(3-4)
なぜ私はイエス様を信じることができたのだろう?あの人ではなくなぜ私が?と考えることはありませんか?それはあなたが立派だからでも、乏しいからでも、何かをしたからでもありません。それは神様の一方的な恵みでしかないという事です。神様は、あなたがどうだから愛してくださるのではなく、何の条件もなしにあなたを愛され選ばれたのです。あなたを愛する事は、まだあなたが存在していない天地創造の前から、神様はお決めになっていた事なのです。この恵みにまだ与ることができず悩み苦しんでいる人がなんと多くいることでしょうか?あなたは確かに恵まれています。
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。(5-7)
イエス様の十字架によって罪を赦された存在としていただけた、霊的に死んでいた私に新しい命を吹き込んでくださった。この特別な恵みに、私達はすぐに慣れてしまいがちです。私達が毎月、聖餐式を行なうのはこの恵みを憶えるためなのです。神様は選ぶだけではなく、十字架という大きな犠牲を払って下さったのです。
今までの二つの恵みが、私達の存在に関わるものでしたが、ここからはこれからの生き方に関わるものです。
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。(8-10)
私達が選ばれ救われたのは、残りの人生を天国行きの列車の待合室で平和に楽しく時間を潰すためではありません。そんな退屈なことに私達はたえられません。しかし神様は恵み深い方ですから私達が神様の計画に参画させることになさったのです。それはキリストのもとに全てを一つにまとめるという仕事です。それは全世界の教会はこのことのためにそれぞれに与えられた務めを果しているのです。ユアチャーチはその一部で、あなたも私もその一部です。この働きには定年もリストラもありません。なんという大きな恵みでしょう。天国に移されるその日まで、どんなことよりやりがいのある仕事があなたには与えられているのです。
この働きに加えられていることは、それだけでも身に余る恵みですが、神様は更に報酬まで下さいます。11-14節を読みましょう
キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。 それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。(11-14)
私たちは神の国の建設という計画に単なる労働者として参加するのではなく、イエス様と共に未来のオーナーとして参加しているのです。神の国は永遠の国ですから、あなたと神様の親しい交わりは決して変わらないのです。救いがもたらす永遠の命は、神様からの最終的な報酬としてのめぐみです。
それではこのような恵みをいただいている私たちがどのようなものであるべきかを、次の部分から見てゆきましょう。
こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。(15-16) どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、(17) 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。(18) また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。(19)
パウロはここで、神様にエフェソの人々のためにどのように祈っているか、ということを紹介しています。
1) 神様をもっと良く知ることができるようにしてください(17)
2) 与えられている希望がどれほど大きなものであるか、受け継ぐものがどれほど豊かなものであるかを悟らせて下さい。(18)
3) クリスチャンに対して絶大な働きをなさる神様の力が、どれほど大きなものであるか悟らせてください。(19)
というのがその内容です。エフェソの人々は主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していました。それはパウロにとって感謝なことでしたが、パウロは彼らが更に成長することを祈り求めたのです。
これらのことはパウロの願いであるばかりではなく、神様の願いでもあります。そして成長を期待されているのは私達も同じです。
第一に、神様がどのようなお方を良く知れば知るほど、正しい行動をとることができます。それには心の目が開かれなくてはなりません。このことは何か神秘的な体験をする事ではありません。心の目は、礼拝と交わりと働きの中でどんどん良くなってゆきます。第二に希望と報酬の大きさを知るということです。このことを知らないで、悲観的な思いを持っているクリスチャンは沢山います。しかし、このような恵みを豊かに与えられているのですから、クリスチャンはもっと楽観的な者であっていいはずです。この希望この約束があるから大丈夫!と思えるように与えられてきた恵みをもっともっと数えましょう。そして第三に神様の圧倒的な力を知るということです。皆さんはこの教会に神様が圧倒的な力を注いでおられることを知っていますか?私は知っています。私は最初からここにいたし、自分がどれほど無力で愚かな者であるかを知っているので、神様が大きな力を注いでくださらなければ今のユアチャーチはないことを信じているのです。しかし私は欲張りです。神様の力が今まで以上に豊かに現されることを願い求めています。皆さんにも願い求めていただきたいのです。このことについては貪りの罪からは除外されていると信じます。それはもっと用いていただきたいという願いだからです。神様どうか私たちをあなたの力で満たしてください。ユアチャーチの働きを通して、もっと多くの人々がイエス様を主と知ることができるように働きたいのですと、祈りましょう。
さて神様が私達の成長を願っておられるのは、神様がなさろうとしている計画が壮大で重要なものであり、私達、教会が果たす役割もまた大きく重要であるからです。この私達が担う神様の計画の核心が20-21節に記されています。
神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。(20-21) 神様の支配とか権威とかいうと私達はつい政治的、軍事的なものを想像してしまいますが、神様の支配とはそのようなものはありません。それはイエス様御自身がどのような意味でメシアなのか示された通りです。 教会はこの支配のために用いられます。22-23節を読みましょう 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。(22-23)
まだ部分的、限定的ではありますが、イエス様の支配が目に見える場所があります。それが教会です。ここでいう教会とは世界に存在する一つの全体教会の様々な部分の働きということです。イザヤインスティチュートの働きもワールドビジョンの働きも、hi-B.A.のはたらきもその一つです。インドでマザーテレサが始めたミニストリーは、クリスチャンだけでなく世界中の人が知っている神の国の現れです。そんな風に考えると、普通の教会は何か地味な存在に思えてしまうかもしれませんが、普通の教会の普通の人たちがそれらの働きを小さな力で支えているのです。一人の小さな力も集まれば大きな力となります。またそれぞれの教会で、人々の人生がイエス様に背を向けていた人生から、主と共に生きる人生に変えられるのを見る時、私たちはそこに神の国を見ているのです。 <メッセージのポイント>
神様は天地を創られる前から、イエスキリストというあり方で私たちに御自身を現す事を決めておられ、時満ちてそのようになさいました。あらゆる恵みは御子を通してあらわされるのです。私たちは、イエスキリストにおいて現された神様の事をよく知る事、私たちにどのような希望と受け継ぐべき宝が用意されているかを知る事、信じる者に働く神様の力がどれほど大きなものかを知る事によって、今世界に現されているキリストの体=教会の一部としての働きを全うすることができます。私たちはどんな職業についていたとしても、まだ赤ちゃんや子供、学生であっても、今の自分のおかれているところで、この働きに携わっているのです。そのようなものとされている事こそ神様の大きな恵みです。
1) 恵みとは何ですか?
2) 神様はあなたにどのようなことを望んでおられますか?