June 1st,- 7th, 2008 Vol.15 No.22
教会(自分)をもっと良く知るシリーズ:エフェソの信徒への手紙より(2)
イエス様のうちに一つであること (第2章) マーティン カディール
2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
2:4-5 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
2:7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。
2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです
これは私にとってとても興味深い質問です。ここにいる私たちすべて、経験したことがあるはずがありません。それともいらっしゃいますか?いらっしゃったら手をあげてみてください。 ですが、いるんです。答えはYESなんです。 私たちは今ゾンビなんです。私たち全員死んでいました。イエスキリストに出会う前は…私たちは自分の過ちと、罪のために死んでいたんです。(みなさんは私に賛成していただけますか?) もちろん私たちは今こうして生きています。息もしています。魂もあります。 私は罪びとでした。そして今も罪びとです。もともとが罪びとなのです。私たちは自分自らの力で救うことは出来ないのです。この世界で誰も自分で自分を救うことはできないと私ははっきりと言えます。 想像してみて下さい。イエス様がいなかったら私たちの人生はどうなっているかを。(私にとってはMiahのブートキャンプではっきりと教わりました。富士急ハイランドのジェットコースターFUJIYAMAに乗り、叫んで叫んで叫んで」叫びました。だれかに乞うように、だれかに助けを求めるように。神様はローラーコースターが盛りあっがたところでそれを止めたいとは思わないでしょう。私の横にいた私たちの牧師はとてもエキサイトしていて、私を助けるどころではありませんでした。それが私にとってイエス様のいない人生です。誰でもないところに叫び、自分に叫ぶのです。) インドネシアの私の教会のあるミニスターは、こういった遊園地には行ったことがありません。私はそんな彼を遊園地に連れて行ったのですが、彼はこういうところで人は一体何をしているのだろうと、不思議そうでした。こういう乗り物で正気をなくしているんだろうと。ですがそのうちに彼は興味を持ち始め、そして乗りました。ただ彼は恐ろしくて、何を言えばいいのか分からず、ただこんな風に叫んでいました。ハーーーレーーールーーーヤーーー・・・何度も何度も・・・・ 私たちは自由です。私たちの望みのままに、思うように生きています。 何年も印象に残っている興味深いある話をしたいと思います。昔あるところに、ジャングルに生きるに二匹の馬John、Peterがいました。彼らは仲のいいベストフレンドでした。最も大きく力のある国は兵士のための馬を探していました。そこでこの王国は馬狩りを始めました。そして彼らはついにこの二匹の馬John, Peterを見つけました。彼らはどうにかして逃げ出そうとしました。なぜなら彼らはもう自由はないということを分かっていたからです。訓練されるようになり、違った食べ物を与えられえるようになり、その主人の指示に従わなくてはいけません。たくさん罰も受けるでしょう。いつも、主人に世話をされて生きることになるのです。Peterはそれを拒み、出来るだけ早く逃げ去りました。Johnはその日から自分の身そこに委ね、その国にで生きることにしました。そこはとても美しいところで、おいしいフルーツ、花があちこちにありました。そして高くて強いフェンスに囲まれていました。訓練の日が始まりました。Johnは日に日にそのフェンスの外へ逃げていったPeterが羨ましくなっていきました。Peterは幸せなことに、自分のしたいことができる自由があるのです。あの時委ねなければ良かったと後悔し、主人がいつも側にいなければいいのにと願っていました。主人はとても親切でやさしい人でした。ですからJohnはその国の中で過ごすことに努めました。戦争が始まりました。Johnは今時分の主人を乗せていることを誇りに思っています。Johnは恐れませんでした。なぜならJohnはその主人が戦いに勝利すると信じているからです。Peterはとても驚きました。また落ち込み、ひどく悲しみましたが、もう遅かったのです。 私はこのストーリーから学ぶことがあると思います。私たちは馬ではなく人間ですけれども。。。私たちはこの世界でJohnのようですね。私たちは私たちの主人が建てた高く強いフェンスの中で自由です。その上で神様は私たちに選択肢を与えてくださっています。思い出してください。
今私たちは恵みによってこうして生きています。罪の中で死んでいた私たちを主の偉大な愛が捉え、たった一人の子と引き換えてくださったのです。そうして私たちは救われました。
それは神様からの贈り物なんです。 ここにいる私たちは、誰に信頼を置くことが出来るのかをすでに知っています。また私たちの救いがどこにあるのかも知っています。ただ一つの名前、誰ですか? イエス様ですね。 もしみなさんいつ自分自身初めて自分がクリスチャンだと確かに感じたのか、覚えていたら、どうでしょうか?イエスキリストを自分の救い主と受け入れたその日と答える方もいるでしょうし、自分が洗礼を受けた日、または何か自分がクリスチャンと実感させられるとても大事な時があったと答えるかたもいらっしゃると思います。
2:11 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。
2:12 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。
2:13 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
2:17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
2:18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
2:19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、
2:20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、
2:21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。
2:22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
クリスチャンという定義には人々の中でも、クリスチャンのグループの中でも、多種多様です。クリスチャンになるということは、一人一人必ず教会へ通い、洗礼を受けなくてはならないと信じる人もいれば、信じることとして、イエスキリストの死と復活を人生に受け入れることが必須であると教える人もいます。また単純にイエスキリストの教えに従おうとする人になることも、そのひとつです。
インターネットでリサーチしていて興味深いことを見つけました。世界のクリスチャン百科事典というものによると、合計238ヶ国で33000以上のキリスト教宗派が最近では存在するそうです。すごい数字ですね! さらにおどろかされることは、その数字は今日までまだふえつづけているということです。 イエス様の考えではこの数字はどのように感じるのでしょうか?私・は、イエス様がそんなにこの事を喜んではおられないと思います。宗派というものはキリスト教の中で簡単に割れ目を作ってしまうひとつの要素になってしまうからです。みなさんの中にはイエス様が捕らわれる前のイエス様の祈りを知っていらっしゃる方もいると思います。 また彼らのためだけでなく(ヨハネによる福音書7:20−23) ここからイエス様の願いはすべての人々がひとつになること、であることが明らかです。宗派というものは国の違いなどから起こってくるものなのです。そしてその宗派というものは、クリスチャンを破壊するように導くことができてしまうのです。 私個人的にはキリスト教における宗派の違いについて、よくは知りませんが、たくさんの人が自分たちの教会について高慢になりすぎていたり、すぐ他の教会を見下す傾向にあったりします。人間は他からのものを違うと考えるので、こういうことが起こります。もし、宗派というものを違ったタイプの人たちや世代の必要なことのために使うのなら、悪いことにはならないでしょう。ですが、もし誤った使い方をすれば、教会は無意味なものになり、信じる者の間に苦々しい分離が起こります (しかし)イエスキリストは宗派をひとつにできる方です。どんなに宗派間のギャップが大きくても、イエス様は実際、橋をお架けになります。 (例えば私たちが使っている日本語の新共同訳聖書はカトリック教会とプロテスタント教会が力を合わせて訳されたものです ) では私たちが知るべきまた別のトピックを続けましょう。
ユダヤ人の時代には、民族や社会的背景からからユダヤ人でない人たちと分けられていました。例えば、エフェソの近くの劇場の入り口には石でつくられたこんなサインが置かれていました。それにはユダヤ人か神様を畏れる者のみ、と書いてありました。また別の例えですが、ユダヤ人でないものは聖地エルサレムに足を踏み入れることが許されませんでした。もし誰か法を破ると、その人は死刑でした。このように、人々の間に広い割れ目を見ることができるのです。 たくさんのクリスチャンが他の宗教の人々よりもクリスチャンはもっと清いと考えます。ですが私たちはこの恵みを鼻にかけるようなことはできません。もう一度言いますが、この地球上で誰も自分の魂を自分で救うことはできないのです。イエス様を通ることだけです。それは神様からの贈り物です。それはまたこの地球で、イエス様のことを聴いたことのない人のためにも開かれているのです。 イエス様の十字架の死、それが人を神様のところに連れ帰るたった一つの道です。そしてイエス様を信じる人全ての人を結びつけていくでしょう。イエス様は民族、色、立場、性別、背景のようなすべての違いを捨ててくださったのです。 私のこの経験のお話で今日のメッセージを終わりたいと思います。皆さんご存知のとおり、私はインドネシアから来ました。インドネシアは世界の中で最も多い島国で、1万7508島からなっています。2006年の統計では2億2千2百万人の人口です。世界第4位の人口数の国です。2000年の国勢調査によると大多数はイスラム教徒86%で、11%がクリスチャン、2%がヒンデュー、そして1%が仏教徒の人口数です。インドネシアのキリスト教の中でも民族や社会的背景による宗派が存在します。私が通っていた教会では、15年前に特別なユースのイベントがありました。いろいろな文化の混ざった教会です。反対側のインドネシアから来た人たち、中国系の人たち、以前はイスラム、仏教、ヒンデュー教徒だった人など様々ですが、今はクリスチャンです。私たちは2泊3日集まり過ごしました。そこで私たちはインドネシアのこの国について、特別な祈りをしました。とても美しい瞬間でした。違う島から来た人たち、違う背景を持つ人たちみんな円を作り、手を繋ぎ、ひとつになって神様を礼拝しました。イエス様は神様の子供たちがひとつになることをさらに大きく望んでいらっしゃると私は思います。
メッセージのポイント クリスチャンになるということは神様と向き合うという素晴らしい経験です。またこれは地球上の他のクリスチャンともっとも大きなネットワークを持つということでもあるのです。私たちはこの地球で一人ではありません。この地球で私たちが歩んでいく人生の中で、ほかのクリスチャンの人たちに出会うことは喜びでもあるのです。共に過ごし、祈りあい、共に働き、一つの目的の中でひとつになりましょう。私たちはイエス様によってひとつであることを、世界に知らせましょう。たくさんの宗派を人間が作ってきたとしても、謙遜でいましょう。すべての人とイエス様のためにドアを開きましょう。